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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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執着とは?(完)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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正しく愛し、正しく皆さんが生きることが、喜び、やすらぎ、

幸福である秘訣ではないでしょうか?

だから、誰もが苦しもうが傷つこうが、破壊されようが、

言いたい放題、思いたい放題、やりたい放題。

とうとうすべて自分自身を通して、苦しみ生きている人の

何て多いことか?

決して、我々は、何をも縛りあってはなりません。

執着しあってはなりません。

家内は、共に学び、共に一体感で生きるがために、毎日、

幸福でいるために、家族が与えられたのであって、私の都合

いいように、家内は、私の道具として使うための家内では

ありません。

わたしは、また家内の所有物ではなく、家内に思うままに

使われる存在でもありません。

互いに足りないものは補いあって、いいものは分かち合って、

本当に一歩一歩、一段一段、積み重ねて魂を磨き、本当に

神との融合であるまでの、共に学ぶためのものではないでしょうか?

だから夫婦とは、この流れる川に投げ込んだ二つの割り箸の

ようなもの。

一時は、寄り添って流れていましょう。

しかし、流れが変わったときには、あるものは草に引っかかり、

あるものは岩にぶつかって、大海という大海につくのは、お互いに

めいめいが、違って行くではないでしょうか?

まさか、2本の割り箸を、川の流れに投げたときに、全く寄り添って、

最後の最後まで、大海に到達することはないではないでしょうか?

それが夫婦というものであることを知ってもらいたい。

かといって、わたしは旦那さん、奥さんを粗末に、あるいはそのように

生きろという意味ではありません。

大事にして欲しい。

大切にして欲しい。思いやりいたわって欲しいと言います。

しかし、所有物ではないが故に、執着してはならぬと。

だから、家庭で、家族で、親子で、夫婦で、執着しあって、

己の所有物のように、使いあわんがために、苦しみ生きている、

もう常に戦いあっている家族が何て多いことか、周りを見れば。

この執着さえ、解き放てれば、何て即、幸せを掴むことが、

幸福でいることができるでしょうに。

だから、わたし、自慢ではないけど、よくわたしが夜中に、

ほとんど私はもう食事抜きで、出張し、走り回っています。

それで、そのような状態で、もし夜中に、仕事を終えてきて、

本当に何か食べたいならば、家内はわたしを起こしてくれと言います。

わずかなそのお腹を満たすために、どうして相手を妨げる必要が、

相手を起こす必要がありましょうかと。

シーチキンでも空けて、ごはんに、しょうゆでもかけて、

食べればこれで十分。

だから、ほとんど、家でも食べないし、出張でも食べはしないけど、

いつでもわたしが食べれるようにシーチキンはいつも

積み上げています。みなさん、シーチキンが欲しいのなら、

わたしのうちを訪ねてきて欲しい。

カップヌードルでも3カ年でも何カ年でも、全く無病で、

この世に生きることもできます。

皆さん自身が、本当にすべてを完全なる宇宙エネルギーとして、

みなさんが理解して、生きるのなら、まあもちろん、

みなさん宇宙意識、宇宙生命を我として生きることが出来るのなら、

あえて、みなさんは寝て睡眠を取って、そこにエネルギーを

チャージする必要もない、

口に投げ込んで食事する必要もない。

なぜ? 皆さん自身が即、そのものであるから。

しかし、宇宙生命と我とは、分離という切り離されている結果、

みなさんは、言葉で、思いで、見ることに、仕事で、様々な状態で、

エネルギーを消耗します。

その消耗したエネルギーを満たさなければ、明日肉体を維持することが

出来ぬが故に、口に投げ込んで、食物の持つエネルギーを

チャージします。

それ以上にチャージしたい皆さんは、この肉体を横に寝かせます。

そして、横に寝かしたときに、まあ、特に人を恨み、ねたみ、そしり、

ネガティブ、消極、破壊的なその言葉、思いを持ったときは、

強烈にそのエネルギーを消耗します。

だから、みなさん、怒って、みなさんは、へとへとにならぬ人間は、

ひとりもおりません。いつもエネルギー不足、それを皆さん自身が、

寝ているときに、エネルギーを消耗する人はいないがゆえに、寝て、

みなさんは、睡眠をとって、このエネルギーを精一杯チャージして、

さあ、翌日は、しっかり働けるよと、活力を得ているのがあなたがた。

その大きい、拡大したのが、わたしがみなさんに訴えている死と

申します。

では死というのは、怖い存在ではなく、怖いものではなく、

一転生という人生を終えて、解脱しているのならばいいでしょう。

解脱、離脱に失敗したときに、次、また新たなその肉体という衣装を

まとって、さあ、もう一度、正しく人生をやり直すよというのが、

この死。

つまり休息ではないでしょうか?

では、皆さん自身が、この死を恐れるというのならば、わたしは、

もう今日から、寝ないよという意味ではないでしょうか?

まさか、睡眠を恐れた人間なんて、いましょうか?

誰よりも、いっぱい寝た方が得という人間もいるではないでしょうか?

それは皆さん自身が、理解したときに、生老病死という四苦は恐れる

ものではありません。

本当に一段階、そこにおかれていることを知るでしょう。

正しく、我々は真理を理解し、正しく受け止めて、

本当に悔いのない一転生、我々は歩み行きたいと思います。

共に手を取り合って、無限という大海の中に、融合が出来るまで、

大海の中に錨おろせるまで、共に我々は努力したいと思います。

本当に皆さんと共に、学び会えたことを、心から感謝します。

どうもありがとうございました。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




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執着とは? | 【2006-03-02(Thu) 18:25:08】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(8)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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踏まれても踏まれても、根強く忍べ道芝の、

やがて花咲く春も来るらん。と言われるように、

誰からばか扱いされようが、誰から気違い扱いされようが、

もうわたしはそこに必死にしがみついて、努力しただけ。

とうとう神は、わたし自身に、我は神なり、神は我なり、

神と我は常に一体なりという、命そのものとの一体感が、

すべてであることをわたしは、実感させてもらいました。

そのときからは、この状態で皆さんの前に立っていながらも、

話をしながらも、食事をしながらも、働く中にも、明想状態。

だから、あえて、目を閉じて、座っていることではなく、

生活そのものが、わたしは明想と申します。

では、わたしが、ただ目を閉じて、座っているときだけが、

我神なり、我真理なり。

で、家内を見る目が、肉的な女性として、形としての衣装しか

見えない。

あるいは子供たちを肉体、人間としてしか見ることができない。

あなたがたも人間としてしか見ることができないでは、

何の明想でもなければ、何の価値もありません。

どこに目を向けても、神の見れる自分。

神を映し見れることの自分。

どこに意識を向けても心を向けても、そのものに神を

感じていれる自分。

これが本当の明想状態。

だから、全世界を支配する力、この大宇宙を支配する力が

与えられても、あるいは皆さん自身が、空を飛べるからとて、

テレポートができるからとて、瞬間移動ができるからとて、

物質化現象ができるからとて、それは何の悟りでもありません。

では、それだけの能力を与えられてこの宇宙を支配する力が

与えられても、本当の自分を見失って、悟りがありましょうか?

そのような能力は与えられても、真の自分が宇宙真理であることに、

目覚め生きることができぬならば、それは、無知、迷い、盲の人生

他にないではないでしょうか?

だから、わたしもかつては、もうその様々な現象的な表現を、

さんざんしてまいりました。

明想中に浮いてみたり、相手を浮かしてみたり、様々な状態を。

それは、悟りそのものではなかった。

では、あのときは、今以上に、短気や怒りやそういうものを

持っていながら、その表現ができたからとて、

悟りであったでしょうか?

何の価値もありません。

悟りとは、無所得、無差別、無条件にすべてを許し愛す、無限の愛で、

すべてを包容するその力、その知恵、

その光であることを知ってもらいたい。

我は悟りなり。それは、皆さん自身が、本当の我を宇宙真理として

実感することではないでしょうか?

直感したことではないでしょうか?

現象ではありません。

決して、誰からよりもその能力を与えられたから、

悟りではありません。

悟りは、愛の深さです。

悟りは、愛の高さです。

悟りは、皆さん自身が、無限に、無限に込み上げてくる、

その喜びの境地を、味わっていることが、それが悟りであることを

知ってもらいたい。

神は、喜びであり、神は、幸せであり、神は、至福であり、

神は、幸福であるから。

我々は、決して、現象、現象、現象に振り回されることなく、

だから、よく、そういう現象を弄んだ方々が、わたしがまだ沖縄で、

神性意識研究所にいたときに、よくいろんなセミナーで参加してきて、

それをいくらのお金で学んできたかは分かりませんけど、

名刺で割り箸を二つに切ってみたり、はがきで割り箸を二つに

切ってみたり、その能力をあたかも悟りと勘違いして、おまえに

このことができるかとよく言われました。

何を言うのかと。

神は、何のために、箸。箸は皆さん自身が、食事を取るために

与えられたのが箸。スプーンはスープを飲み、コーヒーや紅茶を

かき混ぜるために与えられたこのスプーン。自らの能力を過信して、

首をねじ曲げてみたり、折ってみたり、二つにたたき割ってみたり。

そのためにその能力は与えてないんだと。

出来ると信じようが出来ないと信じようが、それは

あなたがたの自由意志。

たとえ出来たにしても、神が創造したもの、無茶苦茶に、むやみに、

破壊するために、崩すために、わたしは、その力を

与えられていないんだと。

すべては正しい建設をせんがために、愛にその力を、思いやり

いたわり使いきるために、与えられた能力であることを

わたしは伝えます。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-03-01(Wed) 00:00:05】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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みなさん、供養という文字を見てみてください。

供え、養うと書きます。

皆さん自身が、誰を、何を供え、養うことができましょうか?

我々を地・水・火・風・空という五元要素すべてを

供え養っているのは、神こそではないでしょうか?

造り主である神がちゃんとみなさん自身がこの現象世界で、

体験、経験、学び、学んでその魂を高め、本当に宇宙意識に

目覚めるまで、生きやすいように、その生活で生きやすいように、

地・水・火・風・空というのを供え、養っているのは、

神こそではないでしょうか?

だから神に供養されていながら、何て愚かなるものが、死んだ人間を

供養だ、昇天だ、成仏だと。

昇天とは、昇る天と書きます。

天がどこにあって、どういう方法で天に昇るかを知らずして、

どうして天に昇ることができましょうか?

天とは、あなたがたの本質です。

つまり、我は真理なりと知ることが、それが昇天、昇る天と書きます。

それはキリスト教では、そう言います。

では仏教では、また、自らして自らを供養して、解脱することを、

これ成仏と申します。成仏は、成る仏と書きます。

では、何が仏かも知らないで、どうして仏になりようが

ありましょうか?

天とは、あるいは仏とは、神とは、皆さん自身のすべての本質で

ある宇宙真理を意味します。

真の理、宇宙真理を真の我として、目覚め生きることを、昇天、成仏。

仏教で言う悟り、キリスト教で言う解脱。

では、解脱も離脱も悟りも、真の己に目覚め生きることが、

悟りではないでしょうか?

朝に昼に晩に、洞窟や山にこもって、目を閉じて、

瞑想に明け暮れることが悟りではありません。

神社、お寺、仏閣、教会でいい声で、お経を唱えていることが、

悟りではありません。

悟りとは、生活の中で、今、与えられているこの世界、社会で、

真の自分が宇宙真理であることを皆さん自身が見失うことなく、

我真理なりと正しく生きていることが、これが絶対供養であり、

昇天、成仏の秘訣であることを知って欲しい。

これが悟りではないでしょうか?

だから、つまり悟りとは、真の我が、宇宙真理、神であることに

目覚め生きることを悟りと申します。

真の我が神であることを理解することを悟りと申します。

だから、悟りとは、あなたがたの内にあることであって、

外、外、外という結果世界から持ってくるものではありません。

真理を我が内に見いだした方々が、あなたがたに、時間を浪費させ、

多額な金を使わさせ、どこかに行ってこいなんて

いうものがいましょうか?一人もおりません。

真理は我が内にあり、いまだかって、人手に渡ったことはない。

真理を外に求むるなかれ。真理は我が内にありと訴えます。

それは何年間か前に、あのインドのサイババさんに会いに行く人間は、

数知れない人間、もう一日に何万人、何十万人と、会いに行きました。

その何十何年間では、もう、サイババさんと出会った方々は、

もう、みなさんが想像もできないほどの数の人でしょう。

で、サイババさんは、こう訴えます。

この何十年間を通して、私に会いに来たものは数知れない。

一日に何万人、何十万人。

しかし、この何十年間、かけて私に会いに来たけど、あるものは、

何十回、何百回という人間がいましょう。

しかし、私を見たもの、私と会ったものは、いまだかって一人も

いませんと語っています。

では、誰に会いに行ったのか?

ただインド人として、あの黒い人、パーマのかかった頭を持った

サイババさんを、見てきた会ってきたと自慢していること他に

ないではないでしょうか?

サイババさんが未だかってわたしに会ったことが、私を見たものが

一人もいないという意味は、本質である私、このサイババという形、

肉体を存在至らしめている本質である、宇宙真理である命としての私を

見たものは、一人もいない。相対したものは、一人もいない。

だから、みなさんにいつも言うように、今、ここで我真理なりという

境地に至ってなければ、身近にいる奥さんや旦那さんや

お子さんたちに、見ること、感じることができましょうか?

それ出きずして、また、どこに求めて見ることができましょうか?

今、ここに立ちながらも、私は、本来のあなた方を見ています。

生命の輝きであるあなた方、いつか老いてゆく、いつか死にゆく、

いつか形を崩していく、あなたがたをあなたがたとして、

見ているのではありません。

永遠不滅の命の輝きであるあなた方を見て、

あなた方とわたしは見ます。

これが本当の明想状態。

だから、明想とは、もちろんわれわれは、見るものの影響、

聞くものの影響を受けるが故に、我々は、訓練として、まずは、

見えるものから、己を解放するために、この耳から聞こえるものから、

解放されるために、静かな場所で、静かな部屋で、みなさんがたは、

まずは、その五感というものを鎮めて、本当の自分を見るために、

本当に、鏡に映し出される自分が自分なのか、触ってこの感覚で

感じ取っている自分が自分なのか、あるいはそれを生かす命として、

見えない自分が自分なのか、触って掴むことのできない自分が

自分なのか、そのためにみなさん、最初は、目を閉じます。


それを訓練して、訓練して、積み重ねて、皆さん自身が

理解したときに、とうとう、本質は、見えない命としての

自分が本当の自分であったと。

これをわたしは何十年間かけて、体験致しました。

昨日、今日に、仕上げて、我は命なり、あなたがた命なりと

見ているものではありません。

歯を食いしばって、わたしは努力して参りました。

命がけで努力してまいりました。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-28(Tue) 12:33:58】 | Trackback:(0) | Comments:(1)
執着とは?(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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そして磨いた心、美しく輝いた心に、愛という愛を満たす

ことが、それが、わたしは修行と申します。

ならば、みなさんたちが、その状態で、心準備して待つ

ならば、神は皆さんが見たくなくても、今までの宗教家の

ように、神よ神よ、私に姿を見せて欲しい、私を使って欲しい、

私に無限の力、知恵、愛をと言うのに、誤った修行をしている限り、

自分自身を曇らせていながら、自分は汚れていながら、心磨く

ことは怠って、だから人間は、自分に厳しく、他に寛容な心で、

己を磨けば、みんな成功するでしょうに。

しかし、今の人間は、自分に優しく、他に厳しく、全く逆の方向を

歩んでいること。

その状態で悟り得たものは、ひとりもおりません。

己自身に常に一点のゆがみもひずみもおかぬように、あるいは曇り・

汚れをおかぬように、徹底して、自らをきびしくみなさんは、

常にチェックしていかねばなりません。

本当に放つ一言一言が、誰も傷つけることはないか、誰を苦しめるこ

とはないか、誰を破壊していることもないか、思い、言葉、表現が、

そのように徹底して、正しい神の御心からなるか、神の御心が、

この肉体というこの結果を通して現れ示しますようにと。


これが本当の天下り。

今の政治家が言っている天下りは、本当の天下りではありません。

天という神の御心は、愛です。慈悲です。常に完全です。

では天という神の御心が、この肉体という結果である私を通して、

現し示して生きることが、これが本当の天下りではないでしょうか?

神が見たもうがごとく、我見ます。

では、神は、神の目で、何を見ましょうか?

破壊的な見方、消極的な見方、そのようなネガティブ、消極、破壊を

見て、破壊を感じると言いましょうか?

神が見たもうがごとく、我見ます。

神の目は、すべてに真実なる美しさを見ていること他にありません。

神の心は、常に真実なる心で、真実を受け止めていること他に

ありません。

神が見たもうがごとく、我見ます。

神が思いたもうがごとく、我思います。

神が表現したもうがごとく、我表現します。

そこにみなさんたちが、本当の天下りが理解できるならば、今の今、

即幸せ、もう、皆さんたちが、お経を唱えなくても、聖書・聖典を

読み干すことなく、今即幸せ。

では、わたしが聖書一冊、読んだことがありましょうか?

1ページ、1冊、広げたことがありましょうか?

ないと申します。

聖書・聖典・仏典にも、おそらく、あるいはお経の意味も、

読んで救われるとは説いておりません。

いい声で読めば、悟れるとは、説いておりません。

聖書・聖典・仏典・お経の意味をよく理解し、それを日々の生活

の中に生きよと。この社会が与えられているならば、この社会から

逃げ隠れることなく、すべてに愛でもって立ち向かっていき、生きる

あなたがたであれと。

ならばあなたがたも泥沼に咲く蓮の花よりも、真我という美しき花を

開花させることができるだろうと。

そう説いたのが、南無妙法蓮華経。

南無妙法蓮華経と唱えて、あなたは救われるとは書いておりません。

あの無学の人間がいつも多く生きていたという当時、お釈迦様は、

どうやって、その真理、慈悲の法則を説いてあげようか。

考えたあげく、無学の人間を泥沼に咲く蓮の花の前に連れて行って、

あなたがたよく見てみよ、あの泥沼を。

あんな泥沼の中にもあの蓮の花は、美しく咲き誇ることが

できるのではないのかと。

しかし、あなた方の肉体を見てみよ。

あなた方の肉体は、目が疲れれば目くそ、汗、大小便。

泥沼より汚い肉体ではないのか。

しかし、あなたがたの心が、宇宙真理を理解し、

宇宙真理を日々の生活の中で生きることができるのならば、

泥沼に咲く蓮の花よりも、真我という美しき花を、

あなたがたのハートに花開くことがあるだろう。

そう説いたのが、南無妙法蓮華経。

では、南無妙法蓮華経は、あえて読んで、良い声で、唱えろとは、

説いてないではないでしょうか?

そのように生きよと、どんなにみなさんが、絵に描いたぼた餅を、

一日中、肉体が朽ち果てるまで見つめていても、

お腹を満たすことはできません。

では、お腹を満たしたいならば、みなさん、それを口に

投げ込まなければなりません。

だから、真理も、救われたいならば、その真理を、実践という

実践で、みなさんは、言葉に思いに表現に、日々の生活の中に、

それを示し活かしていかねばなりません。

肉体存在の目的は、神我顕現といっているではないでしょうか?

神我顕現とは、真の我を現し示す、神なる我を現し示す、

自我の我を示すとは書いておりません。

自我の我を我として生きるとは、書いておりません。

説いておりません。

いかに、供養を誤って、できない供養をあなたがたに、

教え説いている無知、盲、迷った人間の何て多いことか。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-27(Mon) 10:11:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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本当にここに生きながらにして、そのような光を放っている

人間なんて、生まれて初めて出会いましたと。本当に生きた人間が

このような光を放つものがいたのかと?

もう、金縛り状態で、私が額を買って、帰っていくまで、

そこを動くことができません、その方は。わたしは振り返って

みてはいませんが、何時間、そこに立っていたかは知りません。

皆さん一人一人が、本当に愛という波動を放ち得るあなたがたで

あるのならば、すべてを釘付けにすることでしょう。

すべてに幸いをもたらすことができるでしょう。

我、この世の闇を照らす光なり。我この大宇宙を照らす光なり。

だから、皆さんは、我々の小さなグループがもがいてもがいて、

世界が変わるのか?

あるいはわたしがもがいてあがいてどうなるのかと言いましょうけど、

それはみなさんが、 我(が)と言う我(が)のなかで、限定した自分

であって、皆さんの本質はなんと言いましょうか?

それはあなたがたの本質を計り知ることが誰ができましょうか?

なぜならば、皆さんは、無限そのものではないでしょうか?

無限なるあなた方が、無限の光を放ち見てください。

心清きものよ、幸いなり。そのものが語る言葉、表現する言葉、

すべてを釘付けにするほど、みなさんに幸いを与えることになるでしょう。


まったく、その逆に、朝に昼に晩に皆さんに出会えば、もう苦しい、

毎日、病気、病気、病気の言葉しか放たぬのなら、いい気持ちと

言えましょうか?

気持ち、エネルギーの持ち方、エネルギーの持ち方とは、エネルギーの

使い方、言葉で思いで、表現で、どういう方法で皆さんが、

そのエネルギーを使っているのか?

それでもって、みなさんが気持ちいいものなのか、気持ち悪いもの

なのか、あるいは幸いなるものなのか、災いなるものなのか、

それで決めているではないでしょうか?

では気持ちいい人間となるために、あるいはまた幸いなるものとなる

ためには、何の修行も必要ないではないでしょうか?

神社や仏閣やお寺、教会に行って、肉体が朽ち果てるまで、動かぬ仏像

の前で、お経を唱える必要もない。山の中で洞窟の中で、肉体が

朽ち果てるまで、明想、明想と明け暮れる必要もない。

ではたとえば、山の中で、誰もが悪口で、嫌な言葉を語ってくれない。

嫌な表現も見せてくれない。

それならやすらぎでいることは、たやすいこと。

しかし、我々は、家庭を与えられ、社会を与えられ、世界を与え

生かされている限りは、どこにも逃げ隠れすることはできません。

与えられたその場所場所で、絶対なる愛として生きること他に、

わたしたちがやすらぎを得ることはできません。

そのように、皆さん自身が、常に与えられているその場所場所で、

美しくみなさんが輝いてみてください。

みなさんは、心清きものよ、幸いなり。

このものが語る言葉、思い、表現は、すべてに良い影響、

すべてに幸いをもたらすことでしょう。

それは、形あって、必ずしもそこにいなければいけないと

いうことではありません。

皆さん自身が、どこに離れていても皆さん自身の波動が、時間、

空間、壁、距離、一切のものを超えて、大宇宙にまで放ち得るほどの

あなたが、本来のあなたであることを知って欲しい。

自らして自らを限定し、自らして自らを束縛し、無力にしていることを

これ、自縛と言います。

自らの無限さを縛って自縛、自らして無知、無力に、迷い、盲に、

苦しみ生きているもの。


では、自分で自分を縛っているからこそ自縛と書きます。

本来は無限の能力でありながら、自分で自分を縛って、無知、迷い、

盲になっているものを自縛と言います。

では、その自縛は、皆さん一人一人の理解力によって、解かれていくこと

しかできないではないでしょうか?

そこで、お経を唱えて、肉体が朽ち果てるまで祈ったところで、誰もが

自縛を解き放つことはしません。またできるものでもありません。

あなたがたに変わって、あなたがたの宿題、誰が乗りこなせましょうか?

誰が乗り越えることができましょうか?

あなた方に与えられた試練は、あなた方に与えられた宿題は、皆さんが

強い意志と忍耐と努力を持って、自ら乗り越えていく以外、

方法はありません。

では私自身が今の、この無限の喜び、無限の幸福の境地は、

わたしがお経を唱えて、上から落ちてきたと言いましょうか?

どこかの宗教に籍を置いて、多額のお金をお布施して献金して、

勝ち取ったものといいましょうか?

わたしが唯一、修行というならば、お経を唱えることでもないし、

神社、お寺、教会、お宮で動かぬ仏像を拝むことでもないし、

もし修行というならば、みなさん一人一人が、幾転生という人生の

過程を通して背負ってきた悪習、悪癖を、また様々なものに

執着している自分、その一つ一つを解き放たっていくことが、

これが唯一の修行ではないでしょうか?

価値無き修行をする必要はありません。

無駄な時間を浪費して、修行する必要はありません。

修行とは、本当に修行があるというのならば、自らの心を

磨きいくことが修行と申します。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-26(Sun) 00:46:53】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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物質というこの仮相の自分から、己を解放してみてください。

自縛から皆さん、解き放たれてみてください。

今即、無限の知恵、今即、無限の力、今即、無限の大愛を持って、

みなさんが最高な神としての人生を歩み生きることになるでしょうと。

人間意識、肉体意識、個人意識、いと小さき、いと弱きものが

あなたがたではありません。

皆さんの本質は、無限です。

皆さんの本質は、完全です。

だから、完全なる言葉他に用いて生きるが故に、病気を造って

支配されてみたり、悩み・苦しみを自らして、それを造り、

支配されてみたり。それでは造らぬものがどうして現れましょうか?

わたしはよく言いますけど、どんなに何週間、何ヶ月、何十年を、

朝に昼に晩に、もう寝る暇惜しんで、働いて働き通したところで、

疲れたという言葉を吐いたことがない。

一秒病んで、この肉体横にした体験もない、というのは、

どういう意味でしょうか?

私自身の意識の中に、破壊的なその疲れたという言葉、

破壊的なその病・病気というものを想像しないが故に、

あらわれようがない。



言葉は力なり、思いは実現の母、それをみなさん、

徹底して理解していかねばなりません。だから皆さんから、

もう今日、この瞬間から、ネガティブ、消極、破壊的な言葉、

思い、表現を取り除いただけでも、皆さんは、計り知ることの

できない幸福を喜びを、感じ生きることができるでしょう。

皆さんは、身口意という思い、言葉、表現を、みなさんは宇宙生命と

いう表現を使うという方法が与えられているというではないでしょうか?

花々は美しく咲き誇れという表現を与えられています。

動物は本性として生きよと与えられています。

鉱物は親和力として生きよとその表現が与えられています。

万物の霊長であるあなた方は、思いと言葉と、その表現、徹底して、

それを正し、生きるのであれば、今即、神の無限の喜びを

掴み生きることができるでしょう。

だから神は皆さんに、一点の悩み・苦しみ・病・不調和を与えて、

与え生かしているわけではないんだと。

神は皆さんの心の扉を叩いて、あなたがたは、幸福で生きよと、

幸せで生きよと、常に喜びに満たされて生きよと。

だから私自身が本当の成仏・昇天とは、豊かな心と申します。



今の勘違いしている人間は、豊かと言えば、金や物質や名誉に

満たされて、富に満たされているものを豊かと言います。

金持って、幸せでない人間はいっぱいいます。

肉体的な健康あって幸せでない人間いっぱいいます。

地位・名誉を与えられても幸せでない人間がいっぱいいます。

どうしてでしょうか?

金・富・物質では、本当の豊かさ・幸福は得ることができぬからと。


皆さん方一人一人が、美しい心に、愛そのもので、満たし生きたとき、

本当の幸福を体験することでしょうと。

全一体で、すべてのすべてを許し愛すあなたがたであるならば、

幸福でしょうと。みなさん、許せない許せないと無知で一日を

終えたものがいましょうか?

あのものこのものと、憎み・そしり・ねたみで生きながら、

あーいい気持ちだなんて、みなさん生きることができましょうか?

気持ち、皆さんはよく、この人は気持ちいい人間、

この人は気持ち悪い人間、気持ちいい人なら一日中でも

ひっついていたいと。あるいは全く逆に、もうこの人から

早く逃げたい、気持ち悪い。

では気持ちとは何を意味しましょうか?

人はエネルギー、人は命です。

つまり命の使い方が、間違っているのなら、人を怒り、

ねたみ、憎み、そしり、ネガティブ、消極、破壊的な言葉、思い、

表現しかできないもの。

エネルギーの使い方を間違っていることにおいて、

放つそのバイブレーション、波動がもう破壊的。

で、そこにいるとみなさん気持ち悪い、気持ちよくない、早く逃げたい。

しかし、常に愛を語るもの、常に正しい思い・言葉・表現で

できるもの。



だからわたしこれは、去年か一昨年にこのような体験をしました。

ちょうど私がお客さんから色紙をお願いされて、額を買いに

○○の方へと降りていきました。

ホームセンターで、まったく今生は、この肉体的に、

出会ったこともない男の人が、もう私の頭のこの先から、足の先まで、

じろじろ見つめています。

どうしたんだろうと?朝も何も食事していないし、食事している

のなら、口に食べ物がついているだろうに。

わたしはあまり肉体に執着していないものだから、もう鏡を

見たことがないんですよ。髪切る時間もないがゆえに、この山嵐

みたいにぼさぼさしていても、自分の顔さえも見たことが

ないものだから。

よく子供たちによーくその格好で、お客さんの前に立って、

講話ができるなーと。

たまには、鏡でも見てみろと言われます。

で、そういう状態の私ですから、もう形にはあまり、

振り回され生きることもないし。どういう訳で、頭の先から

足の先まで、じろじろ見るんだろうと。

あまりにも見つめられて、私自身の方が、どうしたの?

と反対に聞いてみると、

本や書物からは、あるいは誰彼からの話からは、本当に我々が、

真の自分が宇宙真理であること。本当に自分自身が修行して

極めていけば、そのものから放つ、その後光とか、

光とか言いましょうけど、

あるいは今はオーラとか表現しましょうけど、その光は、

太陽の光を打ち消すほどの、何万倍の光を話には聞いていたと。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-25(Sat) 00:22:53】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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いつも話をするように、ただ我々は、優雅に着飾って

威張るためではありません。

全国を旅しておいしいものを食べ歩きするためでもありません。

肉の快楽におぼれいくためでもありません。

どんなに個人的に地位や名誉を与えられて、毎日高級車を

乗り回したところで、豪邸に住んだところで、

真の自分を見失って、無知・盲・迷いの人生を終えて、

何の価値もないことを知ってもらいたい。

私は決して物質やものを、否定するものではありません。

決して、地位、名誉、物質、富、金をちり箱にゴミ箱に

ちりのように捨てよというものではありません。

本当の自分を知った生活、本当の自分を知った生き方に

皆さん方が目覚めてもらいたいと。

それがみなさんの本当のあるべき姿ではないでしょうか?

命は知恵です。

命は力です。

命は愛です。

命は光です。

では、我命なりと目覚めいかぬ限り、どうして知恵は

現れましょうか?

どうして力を示すことができましょうか?

我は神なり、我神なるがゆえに無限の知恵、無限の力、

無限の愛、光は、我が内に実在するということは、

我命なるが故に生き、我命なるが故にすべての知恵・力に

満ちていることを知って欲しい。

まさか、この肉体から命解き放されて、誰が生きるものと

して存在することができましょうか?

私から命が抜ければ、死人、死体としかならぬでは

ないでしょうか?

それではみなさん、肉体が生きていると言うけど、

これは大きな錯覚、大きな勘違い。

生きて働いているのは、生きて口を語って言葉に、

耳を使って聞き、目を通してみるのは、

命であって、肉体自らではないんだと。



肉体自らは無なり。肉体自らは、ゼロなり。

肉体自らは、一点の知恵・力も持っていないことを知らねばなりません。

まさか、みなさんは、わたしは命に生かされているのではなく、

肉体そのものによって生きているんだというのであれば、

みなさん、肉体から命を差し引いて見てください。

口から語れましょうか?

みなさん、死人に口なしといっているではないでしょうか?

口あって語らず、目あって一点も見えません、

耳あって一声も聞こえません。

そこで、皆さんは、理解することができるではないでしょうか?

命なき者は、目あっても見ない、口あっても語らない、

耳あって聞くこともしない。

生きて働いていたのは、すべて、五感を操っていたのは、

神として命であったのだと。


だから昨日は、○○さんが、行為の主人公はあなたですかと?

みなさんはこの肉体をさして私と言うけど、

あたかもこの肉体が生きているという錯覚。

行為の主人公とは、命です。命がなければみなさんは、

言葉という行為、思いという行為、表現そのもの、

何をも示すことはできません。

だから、原因という命がなければ、結果として肉体は、

結果としてこの現象世界は、存在しうることはできません。

それではすべて、原因と結果の法則ではないでしょうか?

本当に原因があって結果が存在するんだ、肉体が生きるためには、

見えざるこの命によって生かされているんだと。

それを皆さんが理解して生きることを、バランスといいます。

調和と申します。

しかし、肉体こそが生きているんだ、肉体こそが我なり、

見える物質以外は信じないと。

これは物質人間、偽物に偏って生きている人間を仮相人間、

これを私は物質の奴隷と申します。

もう朝に昼に晩に、見えるものがすべてだ、金がすべてだ、

物質がすべてだ、ものがすべてだ、これすなわち仮相人間。

その物質に支配された奴隷と申します。

あの十戒モーゼの当時に、人間が人間をムチ使ったものが

奴隷ではありません。

今日も私自身が、見える私を自分として錯覚し、

掴めるものが見えるものが、これが実在、すべてだと錯覚して

いるのならば、私こそが仮相人間、結果人間、結果しか

見えない自分、そのように結果に振り回されているものを

奴隷と申します。

それでは奴隷解放とは、肉体を同じ人間同士がムチ打って

使っているものが奴隷ではなく、奴隷解放ではなく、

我々が物質と霊的な面と、見えるものと見えないものとの

バランスを取って生きることこそが、調和して生きること

こそが、これが奴隷解放ではないでしょうか?

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-24(Fri) 13:44:41】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(2)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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かといってみなさんそれは、肉体を殺す必要はありません。

肉体を脱ぐ必要はありません。

まあ、皆さん自身が、今肉体を持ちながら幸せでなければ、

あの世で幸せがないことを知ってもらいたい。

今、皆さんが幸せでなければ、肉体を脱げば幸せが

待っているということは勘違い。

今、皆さん自身が無知であり盲であるなら、

迷って生きている限りは、皆さん自身が本当に

知恵ある自分へと、目を見開いた、本当に開眼された我へと、

皆さん自身が変えていかぬ訳には・・・・。

それを変性変生(へんせいへんしょう)と申します。

皆さん自身のこの幾転生の旅はなんのために、

無知・迷い・盲の自分から、無力の自分から、

真実なる我を神として、自らを悟り行くまで、

続きいくことをしってもらいたい。

しかし、すべて一切を克服したときに、本当に本質で

ある我は真理なり、真なり、あるいは様々な表現で神、命、

様々な表現をしましょう。

我は真理なり、と生きるまでは、真理に目覚める生きるまでは、

完成されたものは一人もいません。


どんなに地位・名誉・富・金に満たされても、この世を優雅に

終えたところで、自らが真理であることを見失って、

無知の人生、盲の人生、迷った人生として終えていっただけ。

だからみなさんが我真理なりと言えたときは、本当にそれを実感、

実際に感じなければなりません。

ただ今日は話を聞いたから良かった、本や書物を読んで

素晴らしかった。

これはただ味わうこともなく、ただ絵に描いたぼた餅信仰、

絵に描いたこのぼた餅を皆さんが肉体が朽ち果てるまで

見ていてもみなさんのお腹を満たすことはできません。


口に投げ込んで味わってもらいたい。

で、味わうことは、日々の生活の中にその真理を全うして

生きていることを私は、味わうと申します。

そのときは、皆さんは、何万年の転生させられた法則、

今ここに解けたり。幾転生という人生を過程を通して

積んできたこの業・罪・カルマがすべてみなさんの

もとから崩れ去っていくでしょう。

そのとき、完成、これを昇天・成仏と申します。

昇天とは、成仏とは、死んだ人間の前で、牧師や坊さん

をつれてきて、お経を唱えて成仏はありません。

それではみなさん、よーく、お坊さんや牧師に聞いて

みてください。何のためにお経、何のために様々な儀式

というのならば、供養といいます。

供養のためと。供養というなら、何かと聞くならば、

供養で昇天や成仏に至らしめるためと。

去年の半ばから、わたしは本当に、その供養、昇天・成仏

というものを明想を通じて、その答えを得たときに、

今、世界で、本当の供養・成仏・昇天を説いているものは

一人もいないことを知りました。

わたしはそれを断言して言い切ります。

なぜならば味わったから。実感したから。

供養というならば、皆さん自らが供養ができることを

知ってもらいたい。なぜ、誰が拝んで昇天、誰が拝んで成仏に

至らすことができましょうか?

昇天とは成仏とは、真の己が宇宙真理に目覚めることが

昇天・成仏ならば、じゃー、わたしが皆さんにどんな話をしても、

受け入れるあなた方がいなければ、それを理解するあなた方が

いなければ、誰がそれを掴み取ることができましょうか?


だから己が己を供養して、己が己を供養するということは、

真理を正しく理解することです。

真理を正しく理解して、日々の生活の中で、真理を我として

生きることです。

それが供養、そうしたときにみなさんは、いつでも喜びの中に

いること、いつでも幸せ・幸福の中にいること。

ではそれは死んでからではなく、今この肉体をもちながら

昇天・成仏ではないでしょうか?

だから、今私が味わっている昇天、今私が味わっている成仏、

みなさんにそれが理解できましょうか?


今、私は最高の境地を味わっています。

自らして自らを供養しました。

これは何十年という努力を積み重ねて、真の自分とはなんぞや、

鏡に映し見ることのできる肉体、物質が自分なのか?

私と言っている私とは、一体全体何者なのか?

何十年間追求したときに、我は真理なり、真理こそが命であり、

宗教家が説いている神・仏、我は神なり、我は仏なり、

そこに至ったときに、自らして自らを供養したこと、

自らして自らを昇天・成仏に至らしたことを知ります。

それがみなさんが、今、幾転生も幾転生も一体、

肉体の存在の目的、その意味ではなかったでしょうか?


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-23(Thu) 13:31:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(1)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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執着、それは、みなさんが小学校で教わったとおり、

「飛びだつ鳥、後をにごさず」と。

では、みなさん、なぜ幾転生も幾転生もこの人生の旅を

せねばならぬのか?

みなさんはあってあらゆるものに、執着を残して

きたからではないでしょうか?

たとえば、夫婦間で、あるいは親子間で執着しあって、

苦しみ生きている家庭がなんて多いのかと。

たとえば、我々の家族の例とするならば、家内は決して、

私の執着する所有物ではありません。

また私自身は、決して家内の所有物として執着に値する

ものではありません。それを理解できれば、

いかに幸せな家族をつくれることがあるでしょうに。

「飛びだつ鳥、後をにごさず」。

決してみなさんは、いつかこの肉体を脱いだときに、

何者にも一点も執着を残してはならぬと。

それを私自身がどのような形で教わったのかというと、

今から17年前の平成元年に、お母さんの状態をすべて

瞑想で見せられて、あなたのお母さん、今生の役割終わった、

こういう形で肉体を脱いでいくだろうと、全部手に取るように

見せられていました。

それにもかかわらず、お母さん危篤、家族のものから電話を

受けたときに、まあ、いつかは肉体を脱ぐし、

そのような執着に値するようなものでもないし、ほっておこうと

思っていたのだけど、形の上ではどうしても、身内のもの、

どうしても行かねばならぬ状況。

それで、タクシーで病院についたときに、今まで、何十名、

何百名、何千名を医者から不治の病といわれたものも、

ガンと言われた病も、原因不明という病も、計り知れない数を私、

癒した体験があります。

そのときは、肉体を癒すことが愛だと錯覚していた当時、

そのように多くの方々もそのように癒されたのだから、

どうしてもお母さんを癒したいという気持ちで、私、

お母さんの胸元に手を当ててヒーリングを始めました。

そして、内から来た言葉が、まだこの古い革袋が欲しいのかと?

まだその古い革袋にしがみつきたいのかと?

”執着”といわれました。
 
そのとき、はっと目が覚めたときに、お母さんから手を外して、

病院の待合室の方で、軽く目を閉じて座ってますと、

瞑想状態の中にいますと、私からすればおばあちゃん、

お母さんのお母さん、そのときの7年前に肉体を脱いでいたんです。

そのおばあちゃんが、お母さんの枕元に、降りてきた瞬間、

あーお母さんはもう、息を引き取るなーと、そう思った瞬間、

息引き取ってこの肉体を脱いだと思った瞬間、

看護婦が私の前に来て、

「はい、あなたのお母さん、今、息を引き取りました。」

コンマ何秒も変わりません。狂いもありません。

その状態で我々は、いつか肉体を脱いでいくことに、

決して執着、苦しみ生きていくあなたがたで

あってはなりません。


これをお釈迦様はこういう風に説きました。

ある若いお母さんが、赤ちゃんを亡くしたときに、

誰かこの子を生かして欲しい、誰かこの子を助けて欲しい、

もう泣き叫んで、苦しんでいるところに、お釈迦様が

通りかかったときに、私が生かしてあげましょうと。

私が救ってあげましょうその子をと、ただしそこに条件があると。

あなたが何十件、何百件、訪ねてもいいけど、その中からけしの種を

3つそろえて持ってこいと。

ただし、その条件は、一度も葬式を出したことの

ない家から探してこいと。

そしたらそのお母さんは、どの家を訪ねても、一度だって

葬式を出したことがない家は、ないこと。

そのときに、あー、生まれたものには死が訪れる、

はじめあるものには、終わりがある、造られしものには、

必ず破壊が訪れ来る、エントロピーの法則を悟りました。

なんだそれは、悩み・苦しみに値するものではないのではないかと。

皆さんは、生まれて、5歳、6歳、7歳、幼くして肉体を

去れば不幸、よぼよぼになっても、長く生きていることを

幸福だ、幸せだと、

勘違いするなと。
 
何が幸福、何が不幸と決めましょうか?

皆さん自身の自らに目覚めたその無限という境地が

あなたがたの幸福か不幸かと決めていることを

知らねばなりません。
 
たとえば神は、このように訴えてきます。

この世で長く生きれば幸せ、早く死ねば不幸だと思っている

人間ならそれを理解することができないでしょう。
 
神はわたしにこのように言います。

あなたは千年も万年も生きよと、あるいはまた、

他の人にはあなたは早く死ねと。では、そのように長く生きて幸福、

早く死んで不幸と、そのような錯覚をしている人間が

理解できましょうか?
 
神は、それは何を訴えているのか?

あなたはあまりにも悪すぎて、わたしには、あなたはさんざん、

破壊的な生き方をしてきたが故に、それを建設に生きれるまでに、

正しい生き方、正しい方向へ自分を変えていくまで、完全に解脱

至るまで、千年も万年も、今までの、この悪い生き方をした分だけ、

苦しみ生きるか?

それを刈り取って生きよと、刈り取ってこいと。

しかし、早く死ねといわれた他の人には、あなたに刈り取るべきものは、

もう事終われり。あなたは刈り取るべきそのカルマ、

みなさんが言われる罪・業、もうなしと、すべて与えられた分だけ、

正しいその与えられた演技を、すべて正しい演技をしたと。

それを完成、はやくわたしのもとに来なさいと。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-22(Wed) 18:53:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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