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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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真理こそ実在(完)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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しかし、出来る限り我々は、苦しまずとも悩まずとも喜び

やすらぎ生きる方法もあるんだと。

自分を正しく生かすことが出来るのならば、あえて苦しみ

もがく必要もないんだと。

それは、私が何十何年間の体験からして皆さんにはっきり言うことが

出来るではないでしょうか。

裁けば裁き返されます。

で、非難しれば、非難し返されます。

破壊すれば、破壊し返されます。

常にそのように自分を縛っていかねばなりません。

しかし、すべてを愛して許すことができるのならば、解放されて

いくではないでしょうか。

だから、我々はその自由意志を誤った方向に使い、うらみ、ねたみ、

そしり、怒りに使って、ネガティブ、消極、破壊的な方向に

使って、自らを縛ってはなりません。

本当の自由とは、すべてのすべてから解放されたときです。

肉体を与えられていながら肉体にも縛られない。

この現象という見える世界を与えれられていてもそれに

振り回されることのない。

どんなに皆さんがこの世のものを得たところで、死後の世界まで

持ち帰られるのならば、私はそれを得るなとは言いません。

しかし、一円、一物、持ち帰ったものはいません。

持ち帰ることができるのは、どれほど、我々は愛という神の愛に

近づき生きることが出来たか、その宝以外に持ち帰ることは

出来ぬといいます。

共に我々は本当に宇宙真理という本質を正しく受け止めて、

誰と敵対しよう、誰を殺そう、誰を傷つけようではなく、

すべてを許して、すべてを無限というその愛の中に

包みいけるようになって努力していきたいと思います。

共に手を取り合って、共に助け合って、本当に皆さん一人一人

の体験を共にここに学びながら、一歩一歩成長していきたいと

思います。

今日も皆さんと共に学べたことに心から感謝いたします。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




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真理こそ実在 | 【2006-06-24(Sat) 08:29:50】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(12)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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じゃあ、神があの人は都合良いから愛しましょう、この人は

都合悪いから愛せぬと言うのならば、我々なんて常に神を

背にして反発してきた我々、とうにもう処分されていたでは

ないでしょうか。

しかし、神は無限に我々を許して、無限に愛す方。

ほれ、このように生まれながらに今生も言葉で思いで表現で、

もう振り返ってみれば一点のいいところのない生き方をした

この私でもここまで許して愛して、導いてくださったでは

ないでしょうか。

何て、神は慈悲深い方か。

何て、神は愛深き方なのか。

そこに我々は一歩でも近づき、一歩でもその大愛を示し

生きれるように、努力、努力、努力が我々に与えられた一瞬、

一瞬が実在ではないでしょうか。

過去ではありません。

未来ではありません。

非難受けようが、非難しようが、そのものが今の一瞬という実在を

どう表現しているか、どう生きているか、どういう境地に

至っているのか、これが一番大切なこと。

どんなに悟り得たという錯覚をしていても、本当に神から

与えられた無限の喜びを実感がない限り、で、その境地にいない

限りは、何も悟ったではないではないでしょうか。

また、悟ったものが、私は悟った、悟った、悟ったと言いましょうか。

聖者方は常に常に私を通して御業をなしているのは神なり。

どんな表現でも神なくして本当に生きること、表現すること、

事なすことが出来るのかと、常にそう訴えているではないでしょうか。

皆さんの本質は愛として、知恵として、力として、神は常に

皆さんを生かし下さっているではないでしょうか。

無知、無力、迷い生きるためではありません。

力なき我を本当に力で満たし、無知なる我を知恵に満たし、

一転生という人生を人としてではなく、本当に無限の能力に、

愛に、知恵に、力に、満たされ生きるがための今生の一転生という

大切な日々を与えられている他にないんだと。

だから、決して無駄にしてはなりません。

無限という大海の中に常に喜び、常に幸せ、神はこの前も

こう言います。

決してあなた方に悩みや苦しみやガンなる病気を与えたんでは

ないんだと。

常に完全というその境地を味わって喜びに生きよと。

幸せに満たされ生きよと。

それが神たる親が与えたあなた方へのプレゼントと言ったでは

ないでしょうか。

なぜ悩むと、なぜ苦しむと。

もちろん私は悩み、苦しみが悪いものとは言いません。

悩みを通して、苦しみを通して、不調和を通して、ここまで

成長を遂げたのは、もちろん我々はここまで磨き上げたのは、

最高なそのものを通して磨き上げたこと。

だから、それは否定、批判ではありません。

病気で悩んで苦しんでいるものを悪いものとは言いません。

悩めるものよ、幸いなり。

苦しきものよ、幸いなりとも言われたではないでしょうか。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-22(Thu) 22:39:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(11)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、分離、差別で、罵ったり、非難したり、裁いたりは、

本当の一体感という体験はなされてないことを、自分の体験から

して言いきることができるではないでしょうか。

我は全体であり、全体は我なり。

我はすべてであり、すべては我なり。

一命一体ではないでしょうか。

一命一体を通してすべての存在があることを知ってもらいたい。

まさか、私のこの肉体物質とあなた方のその肉体物質と全く違った

質量で組み立てられているのならば、それは分離もできましょう。

しかし、誰のこの肉体物質を分析しても全く同じ電子、陽子。

じゃあ、同じ電子、陽子から非難しているものも非難されている

ものも全く同じ質量で組み立てられていること他にないではない

でしょうか。

じゃあ、一つの体ではないでしょうか。

それを宗教では自他一体と説いているではないでしょうか。

自分と他は分離とは説いておりません。

自分と他は分離ではなく、自分と他は即一体。

いろんな宗教でそのように訴えているにもかかわらず、常に分離、

分離で争っているのが今の宗教ではないでしょうか。

イエス様が説いた愛心も、お釈迦様が説いた慈悲心も、

サイババさんが説いているその真理も全くその本質は、全く同一な

真理を説いているほかにありません。

役割が違い、表現の方法が違い、説く角度、説き方は違います。

しかし、その本質が、説き方によって、その本質が違いましょうか。

説き方によって、本質が狂うことがありましょうか。

ならば、真理を説きながら、分離、分離、分離を説くならば、

それはただ言葉のみであって、口先のみであって、本当の宇宙真理

という本質の中にはいないという結果ではないでしょうか。

罵り、怒り、非難するものにさえも宇宙真理という本質を見つめて

いるのならば、神よ、このものに光よ。

心にやすらぎを。常にそう祈ることができるではないでしょうか。

間違ったことをしたからとて、裁いたところで、そのものが変わる

ことができましょうか。

変えることができましょうか。

そのものが私はこう生きたい、このように変わって、こういうものと

なっていきたい。

自らの意志で自らが努力せぬ限り、少しでもイエス様に似た生き方を

しよう、お釈迦様のように慈悲に満ちて生きよう、自ら意志を持って、

自ら努力して掴むことが出来ぬ限り、誰が裁いたから、誰が言ったから

変わることができましょうか。変えることができましょうか。

我々は誰を変えようではなく、自らが自らを責任もって愛で満たすこと

が、これが最高な我々の目的ではないでしょうか。

人生の目的とは何ぞや。

肉体存在の目的とは何ぞや。

どこから出てきて、どこに向かって旅をし、その旅の目的は

何なのか。

旅の目的を終えてどこに帰るのか。

許しあって、分かち合って、いたわりあって、思いやり生きること、

徹底してそれを理解せんがための肉体存在の目的であって、都合

いいものは愛します、都合悪いものは愛せない、都合いいものは

仲間、都合悪いものは仲間はずれ、どこに真実の愛がありましょうか。






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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-21(Wed) 22:54:04】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(10)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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その答えを得たが故に、心配や不安や恐怖は克服されたでは

ないでしょうか。

だから、皆さんも与えられた試練や宿題に背を向けて、

逃げようではありません。

隠れようではありません。

逃げて逃げられるのならば、誰でも逃げましょう。

隠れて隠れられるのならば、誰でも隠れましょう。

逃げたところで、それは神の内。

隠れたところで、そこは神の内。

じゃあ、どこでも神の外に逃げることはできぬではないでしょうか。

だから、全て立ち向かって、全ての答えを得た真の勇者と

なってもらいたい。

戦争に行って、何十名、何百名の敵を倒したから勇者でもなければ、

いくつもの城を攻め落としたから勇者でもなく、疑問とする一つ

一つ、背負っている問題一つ一つを、常に正しい姿勢でそれを

克服していくことそのものが本当の勇者ではないでしょうか。

一番大事なことは幾転生という人生の過程を通して、積み上げて

きた自分の心の中に詰めこんできた悪習、思い癖、その一つでも

誰よりも多く切り捨ていけることができるかではないでしょうか。

罵ろうが非難しようが裁こうが、そのものが憎い、そのものが嫌、

一度も感じたことはないと言います。

全一体、我は全体であり、全体は我なり。

我はすべてであり、すべては我なり。

憎んだ相手は私です。

それは私がちょうど、あの神戸の地震を後一ヶ月というその時に

見せられたというではないでしょうか。

ちょうど、神戸の地震を一ヶ月前にして、夜中明想していますと、

ここに何千という棺が現れています。

それは何を意味しているんだろう。

で、その一つ、棺がふた開いて、明想して座っている自分自身が

そこに吸い込まれていきます。

あー、もう私の肉体は今日で終わりなのかと。

とうとうもう棺の中に今日納まって、終わっていくのかと。

で、そのように、心配も不安も恐怖もない。

そのように見つめていますと、しかし、私の本質である命は

永遠不滅。

何もこの肉体の終わりで、本質が死ぬことはないではないのかと、

私見つめ、意識しますと、また、一旦納まりかかったその肉体が、

ふた開いた棺から出て、明想している私に重なります。

しかし、何千という棺は消えていくことがないが故に、

何を意味しているんだ、どうしたんだろうこの棺はと言いますと、

神は他の目を持ったあなたが入りますと。

で、他の名を持ったあなたが入りますと。

じゃあ、あの何千名というあのときに犠牲となって肉体を脱いだ

者は、すべて本質という命において私という意味ではないでしょうか。

その理解が出来るのならば、誰を非難すること、誰を怒ること、

誰を裁くこともないことがそこに言えるし、そこに感じ取ることが

できるではないでしょうか。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-19(Mon) 21:22:55】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(9)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、私ほど、裁かれたり、非難・批判を受けたもの、おそらく

いないでしょう。

じゃあ、この何十何年間、私の心は、その非難の言葉や裁きの言葉に

一度だって揺れ動くことがあったのかと。

毎日のように非難・批判しているものよりも裁いているものよりも

毎日が喜びでありやすらぎで満たして生きているではないでしょうか。

喜ばしきことに皆さんが決して有頂天にならず、で、悪しき事に

皆さんが決して振り回されずにいることが一番大切なことでは

ないでしょうか。

六十何億の人間から名を知られ、ちやほやされても、万物の造り主

である神にあなたはよく生きてくれたと、本当にあなたの一転生

という思い、言葉、表現は神仏の御心を徹底して生きてくれたと

言われなければ、何の価値もないではないでしょうか。

だから私はこう目指します。

この世の六十何億の人間からちやほやされても嬉しくもない。

誉められても有頂天にもならない。

で、けなされて落ち込む必要もない。

なぜ?

一番大切な役割を、正しく我々は現し示すために、神はこの肉体を

与えてここに生かし下さっていることを知るからです。

どこから出てきたのか、どこに向かって旅をしているのか。

その旅の目的は何なのか。

旅の目的を終えてどこに帰るのか。

それは私、小学生の時から追及してまいりました。

で、また、2歳からは、世の大人は、自分の身内のものや親戚、

兄弟姉妹を亡くした時は、もう落ち込むほど苦しい、悲しいと

言うけど、じゃあ一体全体、その死というものは何を意味して

いるのか。

死に対する恐怖があるのならば、で、また年老いていくことに

不安があるのならば、その年老いていくということは何を意味

しているんだろう。

病み苦しいというのならば、その病というものは、我々に何を

教えているのかと。

それは小学校から追求してまいりました。

ただ、大人が言うから真に受けて、信じたものでもありません。

ただ、そういうからそうという受け止めでもありません。

皆さん一人一人も死の恐怖というものがあるのならば、

死というものはは何ぞや。

年老いていく不安があるのならば、年老いていくというのは、

何を意味しているのか。

病み苦しいというのならば、その病というものは、不調和と

いうものは、何を教えているんだろう。何を意味しているんだろう。

で、私、小学校2、3年に、我々の家の近くに幽霊が出ると

言われます。

で、友達はそこに近づくこともしない。

もう怖い、で、恐怖と言います。

そのような意識状態を持っているものは、いまだかってそれに不安、

恐怖に怯えているだろうと。

しかし、私は今日は、この正体を何をさておいても見つめてみようと。

で、そこに歩み寄っていったのならば、どこかの家庭から真っ白い

シーツが飛ばされてきて、きれいにソテツの上に乗っかっていただけ。

あー、幽霊の正体はシーツだったのか。

じゃあ、私はその答えを出したではないでしょうか。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-18(Sun) 20:18:43】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(8)
愛を言葉に、思いに表現に、現し示す大切な道具。

だから、無視してもいけません。

だから、大切に扱わねばなりません。

しかし、必要以上にこの肉体を甘やかしてもならぬと。

で、また、その肉体に執着をおいて振り回されてもならぬと。

だから、いつもバランス。

見えるものと見えないものとは、常に一体だよと。

それ、イエス様は天地一体と説かれました。

見えない原因が存在しなければ、見える結果は存在することは

できぬと。

科学は、ミクロとマクロを用います。

見えないミクロなくして、見えるマクロ世界は存在することは

できぬと。

様々な形を我々は見て、これが実在だという錯覚をしている

ではないでしょうか。

実在するものは、唯一ただ一つ。

この大宇宙に遍満する唯一の神が実在。

病気も悩みも苦しみも、それは我々がそれが本物なのか、

偽物なのか、それが実在なのか、非実在なのか、それは見極めて

みなさんが、本当の愛というものを知るまでのただ宿題として

与えられていること他にないんだと。

まさか、病気が永遠不滅の実在であるのならば、誰がその病気、

癒すことができたでしょうか。

どんな病でも皆さんが、正しいその薬を用いたり、で、正しい

また本当の医者にめぐり合ってすれば、その病気は癒えていく

ではないでしょうか。

なぜ?本物ではなかったがゆえに。

偽物であったがゆえに、消え去ったこと他にないんだと。

実在ならば消えることはありません。

皆さんの命そのもの、実在。

それは火の中に投げ込まれて焼けることないではないでしょうか。

水の中に投げ込まれて濡れることないではないでしょうか。

風にさらされて、乾くことないではないでしょうか。

世界の武器を向けても破壊することはできぬではないでしょうか。

だから、真理は久遠にして常在。

不滅にして絶対実在。

時代の新旧において変化することもない。

で、人間の観念、概念で作りかえることも崩すこともできない。

絶対なる法則ではないでしょうか。

それをない法則を作り上げて、輪廻転生、転生輪廻の法則、カルマ

の法則。

それはもちろん、我々が過ち生きる限りは、何回でも何十回でも

真の自分を理解するまでに、チャンスは与えられています。

で、それを繰り返していることが、これを輪廻転生と皆さん、

言うではないでしょうか。

そうでなければ、私自身が一命一体という境地を体験したときに、

何万年の転生させられた法則、今ここに説けたり。

幾転生という人生の過程を通して、背負ってきた業や罪やカルマは、

崩れ去ったりという境地を味わうことは出来たでしょうか。

だから、皆さん一人一人が、宇宙真理は言葉で聞いたり、ただ本や

書物を読んで、議論、討論するのではなく、本当にそのもので

いるか、皆さん一人一人が常にこの現象という結果に振り回される

ことなく、誰が非難しようが、誰が罵ろうが、また誰が誉めようが、

それに振り回されることのない、本当のやすらぎを得ているのか。

掴んでいるのか。これが一番大切なことではないでしょうか。


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多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらっています。

今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-17(Sat) 15:09:36】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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あなた方自身の中に、私を呼べば、そこに私はいるのではない

のかと。

それは神は我が内にありというその示しではないでしょうか。

まさか、誰彼には特別な神が宿って、誰彼には低い、誰彼には

高き、誰彼には、で分離したものはありえぬではないでしょうか。

だから、あなた方があなた方の内に、私を呼びさえすれば、

そこにいるんだというのが、神は手よりも足よりもはじめから

我が内にあったと。

真理は我が内にあり。

いまだかって人手に渡ったことはないと。

真理を外に求むるなかれ。

真理は我が内にあり。

真理を見出した聖人の方々は、常に我々にそのように訴えかけて

きたではないでしょうか。

イエス様は、父なる神と私とは一つなり。

お釈迦様は、自灯明・法灯明、我が主とせよと。

外という結果世界にもちろん我々が我が内に見出すことが出来た

のならば、外にも遍満し、遍在していることは感じ取ることは

出来ましょう。

目の向けるところ、で、皆さん自身が感じ見ているところ、

すべてそこに内在の神を見きれるではないでしょうか。

そのための我々のこの一転生という人生は与えられていることで

あって、これ昨日の晩に話をさせてもらったように、人生の旅とは

何ぞやと。

ただ口においしいものを投げ込んで、ああこれはおいしかった、

これはまずかった、ただそのように食に振り回されるためでは

ないんだと。

じゃあ、またその肉体という衣装に優雅に着飾って、自慢するため

でもないんだと。

あのマネキンでもあるまいし、どんなに我々がいいものを着飾った

ところで、死後の世界までこの肉体というこの器も持ち帰ることは

出来ない。

上に着飾っているその衣装とてまた持ち帰ることは出来ない。

持ち帰ることが出来るのは、どれほどこの一転生という人生を

通して、一歩でも神の愛に自分が近づくことが出来たか。

それ以上にそれ以下に持ち帰ることは出来ぬと申します。

何を持ち帰ることが出来ましょうか。

皆さんも一円、一物、死後の世界まで持ち帰ったという話を

聞いたことがありましょうか。

いつか我々は、この世この世と見ているこの世さえも、すべて

おいていかねばならぬではないでしょうか。

だから、この世は仮の宿。

で、この肉体という物質もこの衣装は、いつか脱ぎ捨てねばならぬ

がゆえに、死に肩を叩かれれば、いつかはこの肉体という物質は

脱ぎ捨てねばならぬが故に、仮の衣装ですと。

仮の姿です。そういうではないでしょうか。

かといって、わたしはこの仮の姿である肉体を無視せよでは

ありません。

決して、粗末に扱いなさいではありません。

これは神を現し示す大切な媒体です。

だから、イエス様はキリストの伝導体と言ったではないでしょうか。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-15(Thu) 22:47:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、皆さんの本質は愛です。

皆さんの本質は知恵です。

皆さんの本質は力です。

決していと小さき、弱きあなた方であってはならぬと。

皆さん一人一人に与えられたその試練を通して、宿題を通して、

どこに逃げよう、どこに隠れようではなく、徹底して皆さん自身が

その愛という剣でそこに立ち向かって、昨日も話をさせていただいた

ように、勇者とは偽我そのものを克服したものが勇者であって、

先ほどの話の通り、自分自身のこの心というジャングルに潜んでいる

幾転生という人生の過程を通してこの汚してきた、染めてきた、

悪習、思い癖、それを克服しいけるものが勇者であって、

戦争に行って何十名、何百名の敵を倒したからといって勇者では

ありません。

じゃあ、倒した相手は誰なのかと。

我そのものではないでしょうか。

これはわたしがこの宇宙真理という一命一体を体験したときに、

わたしも今までは分離で差別区切って生きていたときは、

誰彼を罵れた、罵った相手は自分であることを知りました。

誰彼から何かを奪えた、奪った相手は我そのものであることを

知りました。

そのとき、私の内から涌き出てきた思いは、一命一体。

愛するは愛されるよりも美しく、全てを幸せにすると。

そのように我々は、すべてのすべて、あってあるものと、全く

同一なる宇宙真理をともにするものであって、じゃあどこに、

差別して、神は人の上に人を作らず、神は人の下に人を作らずで

あって、初めからあの者、この者、役割は違います。

表現の方法は違います。

顔、形が違うが如く、で、その皮膚が違うが如く、しかし、

インドのサイババさんも、神も訴えているではないでしょうか。

神は一にして多神。

姿、形、形体は異なっていても、表現の方法は異なっていても、

生まれ出てきた環境は違っても、皮膚の色が黒かろうが白かろうが、

本質、その宇宙真理には全く変わらぬ、同一なんだと。

例えば皆さんが、海から、さあここに今日、学びに集った一人一人に

で、海から海水をくみ上げてこようと。

で、力あるものは大きなバケツ、また一人一人、持っていく器は

違います。

ある者はコップ、ある者はビン、ある者は様々な入れ物を持って

行きましょう。

形も違います、大きさも違います、色も違います、それは我々の

この体と全く同じ。

皮膚の色も違い、形も大きなものから小さきものと、様々な形、

そのように様々な器を持ってきて、汲み上げてきたその海水を

ここに揃えて大海なるその本質の海水と我々が汲み上げてきた

ものとそこに差がありましょうかと。

入れ物は様々異なっていても、汲んできた海水というその本質は

全く同一ではないでしょうか。

それを神は一にして多神。と訴えたではないでしょうか。

サイババさんも、私だけが神の化身ではないんだと。

あなた方が即そのもの、神の化身なんだと。

なぜ、あえて、私を、命という本質をサイババさんの中に

見きれればそれは最高、しかし、なぜ、あなた方は私にあえて、

ここまで私のその現象我である肉体を見に来ようとするのかと。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-14(Wed) 15:24:17】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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すべては愛の中に創造され、で、すべては愛を与えられ、

生かされているではないでしょうか。

花々が咲き誇っている表現は、愛そのものではないでしょうか。

誰が見ていようが、誰が見ていまいが、花々は、私はこの南米の

ジャングルで育って体験するがゆえに、それが非常に理解できます。

ジャングルの中で、誰一人、何ヶ月何年何十年でも何百年でも

人の入ってこないジャングルのあの山奥でも、与えられている

限り、生かされている限り、その花々は常に精一杯美しく

咲き誇っています。

さあ、ここは通りもないし、人も見てくれないし、誰がも見て

くれないところに、半分花開こう、半分花咲かせよう、そのような

表現はいたしません。

また、その町のど真ん中に植えられて、人通りがいいから、常に

人が見るから、精一杯花開こう、そのようなこともありえません。

だから、花々は見ていようが、見ていまいが、与えられて生かされて

いる限りの精一杯の表現を、愛として現し示しているではないで

しょうか。

で、また、鉱物においては親和力として、動物において本性として、

花々や木々において本質として、じゃあ、万物の霊長たる我々は

どうなのか。

出来る限り、神の愛に近づき、出来る限り、神の愛を現し示すために、

万物の霊長と言えるではないでしょうか。

一言とて我々は、ネガティブ、消極、破壊的な言葉を放っては

なりません。

すべてをいたわり、すべてを思いやり、すべてと愛分かち合って、

最高世界を作らんがために、万物の霊長として、ここに創造おか

れていることを知ってもらいたい。

じゃあ、神は、何の役割も与えずに、ただ、そこに誰かを作って

おいたと言いましょうか。

神はそこに創造し、で、生かしたことにおいては、必ず一人一人

それなりの役割、表現の方法、与え生かされていることを

知ってもらいたい。

だから、神は一にして多神。

で、その多神なるものは、顔も違います。

で、肌の色も違います。表現の方法も違います。

しかし、その本質である宇宙真理はどうなのかと。

真理はこの大宇宙に、ただひとつの真理しかないではないでしょうか。

じゃあ、その真理を神と例えるならば、その神をあなた方の神や

我々の神はで、神を争って戦争、闘争、対立で、苦しみ生きている

人間がいっぱいいるではないでしょうか。

神は一にして多神。

すべては神の化身。

花々に命を与えることがなかったのならば、花々は咲き誇ることが

出来たのかと。

蟻一匹、皆さんの足元を這うことができたでしょうかと。

すべてのすべては全く同一なる命という、その力、知恵、愛を

与え生かされていることを知ってもらいたい。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-13(Tue) 22:02:39】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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一歩でも神の愛に近づけるように、日々に歯を食いしばって、

努力に努力を重ねていること他にありません。

じゃあ、私悟った、で、その人を皆さん見てみてください。

表現、言葉を、言葉も人を裁きながら、どこから受信しましょうか?

正しい方向からの受信であるためには、常にその受信を受ける

そのすべての面を美しく、で、輝かせてなければなりません。

今日も一日与えられたその時間は、出来る限り己のそのすべてを

磨き上げることが出来るか、そのための今日の一日ではなかった

でしょうか。

無駄にその一日を、恨んだり、ねたんだり、怒ったり、そしったり、

嫉妬をしたり、裁いたり、そのような時間のために、神は我々に

与えてはありません。

常に己を磨けよと。

それは私が、6、7年か、7、8年前に、意識でもってヒマラヤを

訪れたときに、1メートル間隔をおいてわたしを迎えてくれた

その聖人と言われた方々が、なぜ、同じ場所に

いながら、我々の姿を見ることが出来ぬのかと。

なぜ、同じ場所にいながら、同じ位置にいながら、我々の言葉を

聞くことが出来ぬのかと。

一人一人の汚れが、本当に美しく磨かれて調和であるならば、誰をも

同じ条件で同じ位置で語り合ったり姿を見たり、すべて同じ条件にいる

といえるではないでしょうか?

誰を変えようではありません。

誰をどうしようではありません。

今日も一日、我々は誰を裁くことなく、誰の非難、批判ではなく、

誰を傷つけようではなく、常に宇宙真理という愛そのもので、

己をみたし、すべてを包める我々になってもらいたい。

だから、ガンを退治しよう、何を殺そうではありません。

皆さんが大愛として、すべてのすべてを包み込めるあなた方に

なってもらいたい。

だから、お母さんたち、母と書きます。

母の上に聖という文字をつければ、聖母と言います。

じゃあ、聖母というものは、何を象徴としているのか。

すべてを愛という波動で包める、で、一人一人を聖母というでは

ないでしょうか。

汝、裁くことなかれ。

汝、殺すことなかれ。

あのインドでも、一撃で、鈍重なトラやライオンやヒョウを

叩き倒せるほどのこの力、パワーを持った聖人の元に、若い青年が

訪ねて、聖人よ、私にもあなたのように、鈍重なトラやライオンや

ヒョウを倒せるほどの力を持つことが出来ぬのかと。

神は人の上に人を作らず。

神は人の下に人を作らず。

あなたが使いたいという意識さえあれば、今にでもその力を使い

活かすことが出来るだろうと。

しかし、私があなたに使って欲しい力は、トラやライオンやヒョウを

倒すための力ではなく、なぜならば、汝殺すなかれ、どんな小さな

生き物でも殺し殺しの積み重ねは、大きな罪を背負うと言います。

そのように、トラやライオンを殺したところで、霊的な妨げとは

なっても、霊的な成長をつげることはないんだと。

だから、あなたにこなしてほしいのは、あなた自身の心という

ジャングルをさまよっている、人を恨んだり、ねたんだり、

そしったり、怒ったり、裁いたりするその我そのものを

超越できるあなたでありなさいと。

ならば、あなたは、神からも天使方からも本当に喝采を受ける

あなたになるだろうと。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-12(Mon) 21:02:32】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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