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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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真我は能動、偽我は受動(完)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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皆さんが今日明想という手段を通して、この宇宙真理という真我の

中に命の中に融合してみてください。

我が命、花々の中に生きています。

我が命、蟻一匹の中に生きてます。

我が命、万物を支配しています。

じゃあ、我の意識したところに我在り。

我が思ったところに我いる。

と我々は断言して言い切れるではないでしょうか。

共に我々は無限という大海の中に目覚め、無限というその能力を

世のために人のために知恵として力として愛として光として、

尽くし生きる一人一人であらんことを願います。

本当に来月の、まあ皆さんが今日の瞬間でも我は神なりという

ならば、キリストの目覚め。

で、来月はまた多くの方々と共にイエス様のキリスト誕生のみでは

なく、神が肉の中にあって、キリスト真我という理解力を持って、

今日から皆さん自身がこの肉の中に神があって、真我キリストなんだ

というそれを徹底して明想しながら、その時には皆さん自身がこの

来月のクリスマスセミナーでは、我はキリストなり、我は神なりと

一人一人が宣言して言えるこのクリスマスセミナーにしていきたいと

思います。

本当に皆さん一人一人がこの二十何年間ではもう一段一歩一歩、

現にキリスト真我に近づき生きているあなた方が感じ取れるでは

ないでしょうか。

あと一歩、歯を食いしばって拳を握り締めて、そのものであるという

実感を皆さんが得るまで、忍耐強く、あるいは意志と忍耐と努力を

絶やすことなく、そのものであるという自覚を持ってもらいたい。

共に助け合い、手を取り合って、来月のその宇宙真理という本質の中に

一人一人が融合し真我キリストを迎えられるその最高のセミナーにして

いきたいと思います。

今日も皆さんと共に朝に晩にまた明想を通して分かち合えた事を

心から感謝いたします。

どうもありがとうございました。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




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真我は能動、偽我は受動 | 【2006-12-05(Tue) 20:31:13】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(12)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから神の中においては万物が全く同じ能力を与えられたものでは

ないでしょうか。

しかし、使いいきれるのは動物や鉱物や植物は創造の力は表現する

ことはできません。

与えられたその能力以外に、ここに示すことはできません。

動物は本性として、鉱物は親和力として、花々や木々としては本質

として、万物の霊長たる我々には創造の力を使えます。

すべてのすべての能力を自在に使いいきることが出来ること。

だからこそ万物の霊長といわれます。

万物の霊長であるならば、何からエネルギーを奪えではありません。

与えて与えて与えつくす一人一人。

いと小さき万物の低長といわれた動物、鉱物、植物が進化さえも

手伝っていけるほどの愛のパワーをもってもらいたい。

現に皆さん一人一人は本質の中においては、無限の愛そのものの

持ち主ではないでしょうか。

だから今日も愛にて目覚め、愛で事を成し、愛で今日の一日を終えて

いけるあなた方。

愛を得ようとするものは愛を失い、愛を放つものは愛を得ると。

命を得ようとするものは命を失い、命を放つものは命を得ると。

持てる者さらに多く与えられ、持てぬ者は持っているものさえも

奪われると。

そのような我々は決して不自由として生きる、貧乏人として生きる、

この乞食であってはなりません。

乞食は乞食以上の分け前を与えられた乞食は一人もおりません。

乞食ではなく、神我として皆さん自身が姿勢を正して、常に皆さんは

与えて与えて与え尽くすあなた方になってもらいたい。

得ようとするものは奪われます。

決して皆さんは得たいという乞食で生きるあなた方ではなく、自らして

自らの不調和を作り上げて、苦しみ生きるあなた方になってはなり

ません。

愛として完全です。

皆さんの実体なる愛は今の一瞬一瞬無限としてあなた方の中に、

今注がれていることを知ってもらいたい。

じゃあ、誰彼には高き愛、誰彼には低き愛、全くその差別なく、

平等に与えられたすべての能力ではないでしょうか。

だから、我が愛ならばあなた方も愛なり。

我が神ならばあなた方も神なり。

しかし、今までのこの霊的な指導者はどうなのか。

私は高き者、あなた方は低き者。

私は神であって、あなた方はどんなにもがいても神にはなれぬと

現にその指導者はそのように説いている人間さえもいるではない

でしょうか。

どこに一体感がありましょうか。

だからキリストの名を語りながら分離を説く教祖に要注意と

申します。

我が全体であるならば、全体そのものが我であること。

我は全体であり、全体は我なり。

我はすべてであり、すべては我なり。

一体の中には一物、一点分離なるものはおりません。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-12-04(Mon) 21:01:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(11)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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すべては一つなり、一つはすべてであることを知ったとき我々は、

一命一体を通して、この世界に本当に美しいユートピア世界を

建設することが出来るだろうと。

だから皆さん一人一人が愛の伝導体となり、無限の愛の波動を

放射したときに、今までこの地球を覆ったそのネガティブな波動は、

すべてあなた方の光によってすべて解け去っていくだろうと。

だからこそ皆さん自身が光来れば闇去ると。

真実が来れば非真実は消えると。

本物が来れば偽物は消えると。

だから皆さんは偽我でもって偽我を消そうでは、偽我を打ち消すことは

出来ぬと。

偽我でもって偽我を消すことが出来るのかと。

我は真理なり。真理を我として理解力を持ったとき、偽我は自ずと

消え去っていく。

1+1という誤った答えは、1+1=2という正しい答えが来れば、

すべては消せるではないでしょうか。

だから皆さん、我は血や肉、姿、形でもない、我人間、肉体、個人

でもない、我は命なり。

一人一人が霊の道。霊道。

真の神の道を神道。愛の道を愛道。として歩み生きてもらいたい。

本来は神の道一つしかありません。

ただ我々が見える現象世界を全てだという現象世界の道を歩んで

いること他にありません。

また幽界を見つめて幽界の道を歩む人間。

我々が必要とするものは、我々が歩むべき道は、霊の道であることを

知ってもらいたい。

霊の道、霊道と申します。

我は神なり、すべては神なり、これが真実、本当の道ではないで

しょうか。

人間の道なんてありません。

幽界の道なんてありえません。

だから皆さんはどの道を求めているのか。

で、皆さん自身が求めている通りの道が与えられているではない

でしょうか。

この現象という結果の世界が全てだという者は、もう朝に昼に晩に

現象という結果に振りまわされて、これが全てだという錯覚で

生きている者。

これは現象というこの結果世界を歩んでいる道と申します。

歩む者と申します。

あるいはまたあの低級霊媒と言われたユタのように、常に幽界、

幽界、幽界というそのような道を歩んでいる者。

我々が歩まねばならぬものは、常に愛として神として霊の道で

あること。

霊は水子の霊、地縛霊、祟りの霊、悪霊、迷った霊ではありません。

霊は知恵です。霊は力です。霊は愛であり、光そのもの。

これが真実の霊道の皆さんが歩む道ではないでしょうか。

それを皆さん自身が明想という手段を通して、私は肉体でもない、

幽体でもない、我は霊的な者であるという皆さんは霊的な自らに

目覚めて、無限の富を皆さんは所有したあなたがたになってもらいたい。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-12-02(Sat) 18:07:35】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(10)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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イエス様もそれは説いたではないでしょうか。

私だけが神の一人子ではないんだと。

動物も鉱物も植物も人間六十何億、すべてが神の中には、すべてが

神の一人子と言ったではないでしょうか。

ただ神から分離しているのか。

神との一体感を実感して生きているのか。

その差はあっても、誰しも平等で神の一人子である事実は、

誰がも崩せぬと言ったではないでしょうか。

だからその神の一人子である自分を認めて、すべてがそうで

あることを実感して、そうあることがキリストの誕生ではない

でしょうか。

だから十二月のキリストの誕生は皆さん一人一人の誕生を迎えて

もらいたい。

神が肉の中にあって、真我キリストであることを知るならば、六十何億

一人一人がキリストそのものと言えるではないでしょうか。

イエス様のみがキリスト、御釈迦様のみが仏陀というのならば、

それは大きな過ちを犯していること。

で、それをキリスト教が仏教が誤った説き方をしているが故に、

世の中を混乱していること。

東洋ではこの神そのものが肉の中にあって仏陀と言います。

真我、仏陀。

で、西洋においては、神が肉の中にあって真我、キリストと。

表現を用いていること他に何も変わりません。

だから神は真我、キリスト。

神は宇宙真理、神は皆さん一人一人の中にあって、仏とかそのような

表現をしていること他にありません。

だから一なる神はこの大宇宙に遍満する唯一の宇宙生命、真理

そのものと申します。

神は形作った中に自らの命を留めて生かしているが故に、すべてのすべて

あってあるものは神の化身と言うではないでしょうか。

で、すべては神の御姿を持った仮の姿と言えるではないでしょうか。

動物も鉱物も植物も人間六十何億、すべては神の仮の姿。

しかし、本質はどうなのか。

本質は即神との一体。

神との一つ。

大海にしみる一粒の滴。

一粒で皆さん自身が錯覚してはなりません。

一粒一滴なる我、あなた方はその大海なる本質は、即一体。

よく私こう言います。

皆さんが大海という海から、いろんな器を持って皆さん自身が容器

を持って海水を汲み取ってきたと。

一人一人の器は違います。色も形も大きさも。

しかし、汲み取ってきた海水が、あなた方の本質と大海の本質が

違いましょうか。

私が汲み取ってきたその海水とあなた方が汲み取ってきたその海水、

本質が違うことはないことを理解できるではないでしょうか。

だからすべてはこの大海の中においては宇宙の中においては

すべては一つなり。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-12-01(Fri) 21:00:43】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(9)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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自らの手で努力して勝ち取って欲しいと。

常に私、それを訴えてきたではないでしょうか。

ただ即幸せ、ただ即健康、ただ即喜び、それは与えるものでは

ないんだと。

どんな厳しさにも皆さん自身が振り落とされないあなた方、

どんな宿題、試練にも勇者として、喜び、微笑み、立ち向かって

いける皆さんの真の力強さ、そのような一人一人を作り上げて

見てください。

今生の私の役割は、もう大成功と言えるではないでしょうか。

だから皆さんはただ私の前に来れば、何もせずに喜びに満たされる、

幸せを得れる、大きな勘違いをしてはならぬと私は申します。

私とて、何者にも振りまわされない自分であるまでの、その努力は

どうだったのか。

もう皆さん自身が想像も出来ぬほどの努力で勝ち取ってきたこと他に

ありません。

明想という明想も十何年間、雨の日も台風の日も天気のいい日も

一日たりとも欠かすことなく、十何年間もあの真栄田岬に座りこんだ

と言うではないでしょうか。

で、様々な試練にどこに逃げよう、どこに隠れようではなく、常に

愛で持ってすべてに立ち向かってすべてを克服してきたではない

でしょうか。

だから今振り返ってみれば、もう六十何億の人間が私に宿題を与え

きれるものはいないといいます。

誰がも私を振りまわすことは出来ぬと申します。

誰がも私をそこに混乱させることは出来ぬと言います。

そこまで皆さん自身が自らを高め生きてもらいたい。

だから今日の一日二十四時間は皆さん自らを低くするための今日の

一日ではありません。

一歩でも一段でも無限という高みに自らを拡大するために今日の一日、

意識の高揚と申します、意識の拡大と申します。

だから皆さん自身が拡大した意識状態から見れば見るほど、すべて

容易くすべてを乗り越えることができるだろうと。

今までは一の宿題も乗り越えきれなかった。

しかし、皆さん自身が意識を高揚すれば、意識を拡大すれば、

千夜一万というその宿題を一瞬にして、皆さんそれを超越する

ことが出来るではないでしょうか。

だから私はこう言います。

今までは皆さん自身が容易に与えられた宿題やその厳しさを

乗り越えることが出来なかった。

しかし、今、私の体験はどうなのか。

皆さん自身が一回、目を閉じて開くまで、一回のまばたきと言います。

一回のまばたきする間には、すべての宿題を私は乗り越えるその力強さを

私は訓練を受けてきたんだと。

だから皆さんも如何なる試練も一回のまばたきで超えていける力強い

あなた方。

皆さんに与えられたその力も私に与えられた力も私、命、神として、

全く同一ではないでしょうか。

だから神は人の上に人を作らず、神は人の下に人を作らず。

全く無所得、平等であって、誰彼は誰彼よりも特別に創造されて、

誰彼は誰彼よりも特別な能力を与えられているものは一人もいない

こと。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-11-30(Thu) 23:07:31】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(8)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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あの金持ちがイエス様に天国に入るにはどうしたらいいのかと。

今あなたの財産をすべて売り払って、気の毒な方々のために

すべて与え尽くせよと。

それから私についてこいと。

しかし、この金持ちは錯覚でこの現象という見える世界でしか、

計算をしていないが故に、私には出来ませんと。

あなたには出来ぬけど人間には出来ぬけど、神には出来ると

イエス様は説いたではないでしょうか。

だから金持ちが天の国に入るのはらくだが針の穴を通るが如し。

らくだが針の穴を通るよりも難しい。

なぜならばらくだは針の穴を通るのは不可能と申します。

ということは、金持ちが天の国に入るのは不可能という意味。

だから皆さんは悩めるものよ、幸いなり。

苦しきものよ幸いなり。

そのものはわが天という国を見るであろうと言われたのはその意味。

だから皆さん今まで悩みを通して苦しみを通して病気を通して、

様々な不調和を通して、なぜなんだ、なぜなんだ、と皆さんは

ここまで追求し、魂をここまで皆さん磨き上げてきたではない

でしょうか。

だから今、私、もう皆さんと共に学んで、トータルすればやがて

30年近く。

今、私自身が北海道から沖縄まで至るところを講演させてもらって、

一番嬉しいことはもう皆さん一人一人が今まではいと小さき試練や

宿題に苦しみ生きたあなた方が、もうある程度大きな試練や宿題を

皆さんの前に積まれても、喜び微笑んでこれを超えていこうというする

あなた方の姿。

これが真の真理を生きている姿ではないでしょうか。

だからただ、困っているものに衣食を与えて、これが愛ではないんだと。

どんな厳しさの中からもどんな苦しみの中からもどんな不調和の中

からも、不調和を調和に変え、厳しさも喜びに変え、そのいと強き

あなた方をここに作ってあげてこそ、これが我々の目的の完成では

ないでしょうか。

だから私が救ってあげましょうという宗教に本物はいないという意味。

こういうことも訴えています。

例えば皆さんを導いて下さっている守護霊の方々。

守護霊が即あなた方を幸せにと言うのならば、神の法則を犯したこと

他にないんだと。

守護霊の目的は決してそのようにただ何もせず、何もしない

あなた方に幸せを与えるものではないんだと。

どんな厳しさにも耐えられる力強いあなた方。

闇の中にいて闇の影響を受けないあなた方。

悪の中にいて悪に染まらないあなた方。

迷いの中にいて迷うことのないあなた方。

無知の中に無知の影響を受けぬあなた方。

力強いあなた方として、完成させ、導いてあげて、守護霊の役割は

完成と申します。

だから我々は自らの足で努力して歩んで欲しいと。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-11-28(Tue) 22:54:52】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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これ、私が二十何年前、沖縄の具志川という場所で、従兄弟同士で

全くもう助け合って協力しあって、その畑やその田畑を使えば

いいのに、わずかなその小さな田畑を私のものよ、誰のものよと

必ずそこに白黒をつけたい、で裁判まで持ち上げたこと。

裁判を起こした側が負けて、その従兄弟のものにその土地を

奪われたが故に、それでもまだ耐えられない、まだ我慢が出来ない。

で、このまだ譲れないという憎しみで、あのわら人形を作って、

五寸釘を打ちこんだ瞬間、その瞬間、打ち込んだそのものが、

もう半身不随。

あれほど見事にやった瞬間、自分自身に跳ね返っていく姿も

もうまれに見せ付けられたこと。

だから我々は言葉も思いも表現もいいも悪いも正しきも悪しきも

必ずや我々は自らが背負って生きていくことを知ってもらいたい。

喜ばしきものに興奮せず、悪しきものに我々は妨げられることなく、

叡智を持って生きるあなた方になってもらいたい。

だからどんなに我々は相手の物を奪った、誰から何を奪ったのか、

己自身から奪っていることを知ってもらいたい。

これは私が真栄田岬で一番最初に宇宙意識を体験したときに、

目を見開いてこの形世界を見たときに、すべて我なり。

今まで誰かを憎んだ、憎んだ相手は我であった。

誰彼から何かを奪った、奪った相手は我そのものであった。

それが一番最初の私自身の一体感の体験と申します。

だから一人とて我々はこの宇宙大愛から分離して生きれたもの

はいないが故に、すべてやることなすことはすべてあなた方が

背負って生きねばならぬこと。

これ皆さんは原因と結果、カルマとも言ったではないでしょうか。

人を恨んだが故に恨みかえされる。

人を傷つけたが故に傷つけ返される。

これ、皆さん、カルマと言いました。

しかし、皆さん自身が神が完全であるが如く、我完全なりという

その境地に至ったならば、もうカルマそのものが実在ではないことを

知るでしょう。

善悪は人間の心と申します。

我々は二つ目を持ってして見るが故に、これは善だ、これは悪だ、

しかし、皆さん自身が一なる一つ目を開いて見てください。

叡智の霊眼と言われたすべては完全なり、すべては愛なり、

すべては宇宙真理なり、そこには善悪も見る自分がいないことを

しれば、だから今、私の目には、善悪なるものは見ることは出来ぬ

と言います。

決して差別することはないと言えましょう。

一つ目を持ってして皆さん自身が無限という大海の中に融合さ

れたあなた方であってみてください。

すべては美しい、すべては素晴らしい、もうそれ以上にそれ以下に

何も感ずることも出来ない、何も見ることも出来ない、その時、

はじめて皆さん自身は神のゆりかごの中に、無限の至福を実感している

自分を体験するでしょう。

遊び疲れた者よ、我が元へ来なさいと。

今まで色々なものに執着した自分。

すべてこの現象という見えるものが本物と錯覚してきた自分。

すべてそれは皆さん自身が捨てていかねばなりません。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-11-27(Mon) 20:21:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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じゃあ、今までの我々はもう破壊的な言葉を平気で使い生きて

きたではないでしょうか。

とうとうその波動が今の世の中を作り上げたこと。

天候異変、もうおかしいことではないでしょうか。

12月もせまってこの暖かさ。

みなさん、18年前我々が沖縄から山梨へ引っ越してきた当時、

真夏でもこの水は使えなかったほどの冷たさ。

今は今の状態でも冷たい水でももう浴びることができるほどでは

ないでしょうか。

だからここまで人間という愚かなる者が言葉から放つ波動が、

思いからは放つ波動が、表現一つ一つから放つ波動が、狂ったが

故に、ここまで事件、事故、災害、様々なものを作り上げて、

それを悪しき末法の世と言われます。

じゃあなぜ我々はともに愛の伝導体となって明想するのか。

少しでも世の中に今まで我々が勝手な思いで言いたい放題、

思いたい放題、やりたい放題で放ったそのネガティブな波動が

崩したその波動、愛で持ってすべてを克服せんがために、一人一人

がここに集い、またその会場でともに明想という手段を通して、

伝導体となる努力はその意味ではないでしょうか。

だからそれを我々は人柱と申します。

一人一人が伝導体を通して愛の波動を放ち、愛の波動を放射して

いることが、これが本当の人柱。

言いかえれば、あのイスラムで言われているジハードと申します。

聖戦争、聖なる戦い、どうして聖なる愛に戦いがありましょうか。

どうして聖なる中に殺しあうことがありえましょうか。

だからジハードというものは、まさに皆さん一人一人が愛の伝導体

となって愛の波動を放射していることそのものが、これが本当の

伝導、本当のジハード、本当のその人柱であることを知ってもらいたい。

人というその愛の伝導体を通して、愛の放射をしていることが、これが

最高な我々の伝導明想であり、最高目的を果たしているその使命の姿

ではないでしょうか。

使命は人を傷つけるためのものではありません。

決して使命は人を憎むためではありません。

使命は愛生きていることそのものが最高使命と申します。

使える命、命は愛です、命は知恵です、命は力です、命は光です。

じゃあ、我々がいずれかここで放っているとき、愛でも力でも知恵でも

光でも、我は光なり、我は愛なり、我は知恵なり、我は力なり。

その時こそ、我々は神の偉大なる使命を果たしている姿そのもの。

だから決して一人とて憎しみを持ってはなりません。

憎しんだものは必ずその憎しみは己自身に跳ね返ってくることを

知ってもらいたい。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-11-26(Sun) 08:59:24】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから我々は何ものにも支配を受けない一人一人。

すべてを超えたあなた方。

それが皆さん自身が幾転生という人生を通して求めてきた解脱

ではないでしょうか。

すなわち悟りではないでしょうか。

だから悟りとは山や洞窟にこもっているでもないし、今与えられている

社会で今与えられている皆さんの家庭の中で、真の自分は宇宙真理と

して正しさを見失うことなく、真理を我として一瞬一瞬、生きている

ことそのもの、それを私は悟りと申します。

悟りは全一体ですべてのすべてあってあるものの中に、自らを

感じていねばなりません。

じゃあ、自らとは神としての我、宇宙真理としての我、愛としての我、

それを我々が自らと言えねばなりません。

私と言えねばなりません。

だから私、私と言いながら、真の私も見えない。

盲人と申します。

私、私と言いながら、真の私を知らない。

無知と申します。

私、私と言いながら、本当の私が理解出来ない。

迷いと申します。

じゃあ、今ほとんど無知の人生、盲人の人生、迷いの人生を歩んで

いるのがほとんど大半ではないでしょうか。

だからこそ我々はこの見える物質、肉体を背負って生きながらも、

決してその物質、肉体に支配受けない自分。

我は神なり、我は真理なり、我は道なりとそう言える一人一人。

これが絶対なる悟りと申します。

じゃあ、悟ったものが分離であの人は嫌い、この者は許せない、

都合いいから愛します、都合悪いから愛せない、都合いいものは

仲間、都合悪いものは仲間はずれ、どこに愛がありましょうか。

その愛は偽愛と申します。

偽りの愛。しかし、我々の真の愛であるならば、都合よかろうが

悪かろうが全く同じ同一なる宇宙真理を大愛としてすべてに見て

感じていることではないでしょうか。

だから我は愛ならば、あなた方も愛なり。

まさか我は愛なり、あなた方は悪と見えましょうか。

我は真理なり、あなた方は人間なりと見えましょうか。

我が真理ならば、すべては真理。

我が愛ならば、すべては愛。

我が神ならば、すべては神。

じゃあ、神が、神が見たもうがごとく我見ますと言ったならば、神は

すべてを通して神を見ています。

その境地に至らなければなりません。

神が思いたもうが如く我思います、神はすべてを人間だ、肉体だ、

個人だとただ一人とて分離で見ているではありません、思っている

ではありません。

神が見たもうが如く我見ます。

神が思いたもうが如く我思います。

神が表現したもうが如く我表現します。

それはすべてに愛を見、愛を思い、愛の表現という意味であって、

決して肉的な我が表現しているものではありません。

だからイエス様はたかが子守り女ではないのかというその言葉で

愛の律法を犯して大きな罪を背負ったというその言葉も理解して

いかねばなりません。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-11-25(Sat) 08:56:09】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真我は能動、偽我は受動(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、何をさておいても神に酔うあなた方になってもらいたい。

一日24時間四六時中、常にあの赤子がお母さんを想うように、

寝ても覚めても常に神を想うあなた方。

目を見開いた瞬間にもう神を見失ってはなりません。

24時間四六時中、だからイエス様は心を尽くし精神を尽くし

魂を尽くし力を尽くして、汝の主である神を愛せよというのは、

24時間四六時中、神と共に生きているあなた方を感じて生きよ

という意味ではなかったでしょうか。

叩いて叩いて叩きつづけよと。

探して探して探しつづけよと。

求めて求めて求めつづけよと。

それは外という結果世界ではありません。

内なる皆さん自身が意識の中に融合し生きることではないでしょうか。

どこに真理は、どこに宇宙真我は。

だから、浅瀬を潜って真珠という宝物は見付け出すことは

出来なかったという愚かなる者となってはならぬと。

で、真珠を見つけ出すことが出来ずして、海のせいにしてはならぬと。

深く潜るとは、それは皆さん自身がこの観念、概念を超えた深い

意識状態の中に融合していくことが、これが深く潜るという明想という

手段で皆さん自身が潜り生きたならば、皆さん自身の一人一人の

中に真珠という宝物は真我として見出すことが出来ましょう。

だから浅瀬を潜って浅瀬を泳いで真珠という宝物は見出すことは

出来なかったと。

すべてこの現象という結果を克服しいかねばなりません。

だからよく言います。

よくあそこに悟り人がいる、ここに悟ったのがいると言いましょうけど、

悟りというものは、一聖人が仕上がるというものは、そのような

容易く仕上がるものではないんだと。

幾転生という人生を通して今まで心の中に詰めこんできた悪習、

思い癖、すべてを我々は調和しいかねばなりません。

すべてを磨きいかねばなりません。

だからこの世のペーパーテストに100点を取って、さああなたも

合格したから学校の先生だ、あなたも100点取って弁護士だ、

あなたはそのようなものと、その状態でそのような類で、一聖人

が仕上がるものではないんだと。

幾転生という人生を通してすべてのすべてをこの現象という見える

世界を超越した中に悟りがあることを知ってもらいたい。

それは金を捨てなさいという意味でもないし、この肉体という我を

粗末に扱いなさいという意味でもありません。

それなりに皆さん自身が自覚して、すべてを理解した中に、すべてを

正しく用いるあなた方になってもらいたい。

今の人間は道具に使われている姿ではないでしょうか。

もう今の子供たちから携帯を取り上げてみてください。

もう一日たりともいい状態でいることは出来ぬと言います。

気違いみたいに混乱することがオチと言います。

まさに道具の奴隷とされている姿ではないでしょうか。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真我は能動、偽我は受動 | 【2006-11-23(Thu) 22:50:22】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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