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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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執着とは?(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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みなさん、供養という文字を見てみてください。

供え、養うと書きます。

皆さん自身が、誰を、何を供え、養うことができましょうか?

我々を地・水・火・風・空という五元要素すべてを

供え養っているのは、神こそではないでしょうか?

造り主である神がちゃんとみなさん自身がこの現象世界で、

体験、経験、学び、学んでその魂を高め、本当に宇宙意識に

目覚めるまで、生きやすいように、その生活で生きやすいように、

地・水・火・風・空というのを供え、養っているのは、

神こそではないでしょうか?

だから神に供養されていながら、何て愚かなるものが、死んだ人間を

供養だ、昇天だ、成仏だと。

昇天とは、昇る天と書きます。

天がどこにあって、どういう方法で天に昇るかを知らずして、

どうして天に昇ることができましょうか?

天とは、あなたがたの本質です。

つまり、我は真理なりと知ることが、それが昇天、昇る天と書きます。

それはキリスト教では、そう言います。

では仏教では、また、自らして自らを供養して、解脱することを、

これ成仏と申します。成仏は、成る仏と書きます。

では、何が仏かも知らないで、どうして仏になりようが

ありましょうか?

天とは、あるいは仏とは、神とは、皆さん自身のすべての本質で

ある宇宙真理を意味します。

真の理、宇宙真理を真の我として、目覚め生きることを、昇天、成仏。

仏教で言う悟り、キリスト教で言う解脱。

では、解脱も離脱も悟りも、真の己に目覚め生きることが、

悟りではないでしょうか?

朝に昼に晩に、洞窟や山にこもって、目を閉じて、

瞑想に明け暮れることが悟りではありません。

神社、お寺、仏閣、教会でいい声で、お経を唱えていることが、

悟りではありません。

悟りとは、生活の中で、今、与えられているこの世界、社会で、

真の自分が宇宙真理であることを皆さん自身が見失うことなく、

我真理なりと正しく生きていることが、これが絶対供養であり、

昇天、成仏の秘訣であることを知って欲しい。

これが悟りではないでしょうか?

だから、つまり悟りとは、真の我が、宇宙真理、神であることに

目覚め生きることを悟りと申します。

真の我が神であることを理解することを悟りと申します。

だから、悟りとは、あなたがたの内にあることであって、

外、外、外という結果世界から持ってくるものではありません。

真理を我が内に見いだした方々が、あなたがたに、時間を浪費させ、

多額な金を使わさせ、どこかに行ってこいなんて

いうものがいましょうか?一人もおりません。

真理は我が内にあり、いまだかって、人手に渡ったことはない。

真理を外に求むるなかれ。真理は我が内にありと訴えます。

それは何年間か前に、あのインドのサイババさんに会いに行く人間は、

数知れない人間、もう一日に何万人、何十万人と、会いに行きました。

その何十何年間では、もう、サイババさんと出会った方々は、

もう、みなさんが想像もできないほどの数の人でしょう。

で、サイババさんは、こう訴えます。

この何十年間を通して、私に会いに来たものは数知れない。

一日に何万人、何十万人。

しかし、この何十年間、かけて私に会いに来たけど、あるものは、

何十回、何百回という人間がいましょう。

しかし、私を見たもの、私と会ったものは、いまだかって一人も

いませんと語っています。

では、誰に会いに行ったのか?

ただインド人として、あの黒い人、パーマのかかった頭を持った

サイババさんを、見てきた会ってきたと自慢していること他に

ないではないでしょうか?

サイババさんが未だかってわたしに会ったことが、私を見たものが

一人もいないという意味は、本質である私、このサイババという形、

肉体を存在至らしめている本質である、宇宙真理である命としての私を

見たものは、一人もいない。相対したものは、一人もいない。

だから、みなさんにいつも言うように、今、ここで我真理なりという

境地に至ってなければ、身近にいる奥さんや旦那さんや

お子さんたちに、見ること、感じることができましょうか?

それ出きずして、また、どこに求めて見ることができましょうか?

今、ここに立ちながらも、私は、本来のあなた方を見ています。

生命の輝きであるあなた方、いつか老いてゆく、いつか死にゆく、

いつか形を崩していく、あなたがたをあなたがたとして、

見ているのではありません。

永遠不滅の命の輝きであるあなた方を見て、

あなた方とわたしは見ます。

これが本当の明想状態。

だから、明想とは、もちろんわれわれは、見るものの影響、

聞くものの影響を受けるが故に、我々は、訓練として、まずは、

見えるものから、己を解放するために、この耳から聞こえるものから、

解放されるために、静かな場所で、静かな部屋で、みなさんがたは、

まずは、その五感というものを鎮めて、本当の自分を見るために、

本当に、鏡に映し出される自分が自分なのか、触ってこの感覚で

感じ取っている自分が自分なのか、あるいはそれを生かす命として、

見えない自分が自分なのか、触って掴むことのできない自分が

自分なのか、そのためにみなさん、最初は、目を閉じます。


それを訓練して、訓練して、積み重ねて、皆さん自身が

理解したときに、とうとう、本質は、見えない命としての

自分が本当の自分であったと。

これをわたしは何十年間かけて、体験致しました。

昨日、今日に、仕上げて、我は命なり、あなたがた命なりと

見ているものではありません。

歯を食いしばって、わたしは努力して参りました。

命がけで努力してまいりました。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




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執着とは? | 【2006-02-28(Tue) 12:33:58】 | Trackback:(0) | Comments:(1)
執着とは?(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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そして磨いた心、美しく輝いた心に、愛という愛を満たす

ことが、それが、わたしは修行と申します。

ならば、みなさんたちが、その状態で、心準備して待つ

ならば、神は皆さんが見たくなくても、今までの宗教家の

ように、神よ神よ、私に姿を見せて欲しい、私を使って欲しい、

私に無限の力、知恵、愛をと言うのに、誤った修行をしている限り、

自分自身を曇らせていながら、自分は汚れていながら、心磨く

ことは怠って、だから人間は、自分に厳しく、他に寛容な心で、

己を磨けば、みんな成功するでしょうに。

しかし、今の人間は、自分に優しく、他に厳しく、全く逆の方向を

歩んでいること。

その状態で悟り得たものは、ひとりもおりません。

己自身に常に一点のゆがみもひずみもおかぬように、あるいは曇り・

汚れをおかぬように、徹底して、自らをきびしくみなさんは、

常にチェックしていかねばなりません。

本当に放つ一言一言が、誰も傷つけることはないか、誰を苦しめるこ

とはないか、誰を破壊していることもないか、思い、言葉、表現が、

そのように徹底して、正しい神の御心からなるか、神の御心が、

この肉体というこの結果を通して現れ示しますようにと。


これが本当の天下り。

今の政治家が言っている天下りは、本当の天下りではありません。

天という神の御心は、愛です。慈悲です。常に完全です。

では天という神の御心が、この肉体という結果である私を通して、

現し示して生きることが、これが本当の天下りではないでしょうか?

神が見たもうがごとく、我見ます。

では、神は、神の目で、何を見ましょうか?

破壊的な見方、消極的な見方、そのようなネガティブ、消極、破壊を

見て、破壊を感じると言いましょうか?

神が見たもうがごとく、我見ます。

神の目は、すべてに真実なる美しさを見ていること他にありません。

神の心は、常に真実なる心で、真実を受け止めていること他に

ありません。

神が見たもうがごとく、我見ます。

神が思いたもうがごとく、我思います。

神が表現したもうがごとく、我表現します。

そこにみなさんたちが、本当の天下りが理解できるならば、今の今、

即幸せ、もう、皆さんたちが、お経を唱えなくても、聖書・聖典を

読み干すことなく、今即幸せ。

では、わたしが聖書一冊、読んだことがありましょうか?

1ページ、1冊、広げたことがありましょうか?

ないと申します。

聖書・聖典・仏典にも、おそらく、あるいはお経の意味も、

読んで救われるとは説いておりません。

いい声で読めば、悟れるとは、説いておりません。

聖書・聖典・仏典・お経の意味をよく理解し、それを日々の生活

の中に生きよと。この社会が与えられているならば、この社会から

逃げ隠れることなく、すべてに愛でもって立ち向かっていき、生きる

あなたがたであれと。

ならばあなたがたも泥沼に咲く蓮の花よりも、真我という美しき花を

開花させることができるだろうと。

そう説いたのが、南無妙法蓮華経。

南無妙法蓮華経と唱えて、あなたは救われるとは書いておりません。

あの無学の人間がいつも多く生きていたという当時、お釈迦様は、

どうやって、その真理、慈悲の法則を説いてあげようか。

考えたあげく、無学の人間を泥沼に咲く蓮の花の前に連れて行って、

あなたがたよく見てみよ、あの泥沼を。

あんな泥沼の中にもあの蓮の花は、美しく咲き誇ることが

できるのではないのかと。

しかし、あなた方の肉体を見てみよ。

あなた方の肉体は、目が疲れれば目くそ、汗、大小便。

泥沼より汚い肉体ではないのか。

しかし、あなたがたの心が、宇宙真理を理解し、

宇宙真理を日々の生活の中で生きることができるのならば、

泥沼に咲く蓮の花よりも、真我という美しき花を、

あなたがたのハートに花開くことがあるだろう。

そう説いたのが、南無妙法蓮華経。

では、南無妙法蓮華経は、あえて読んで、良い声で、唱えろとは、

説いてないではないでしょうか?

そのように生きよと、どんなにみなさんが、絵に描いたぼた餅を、

一日中、肉体が朽ち果てるまで見つめていても、

お腹を満たすことはできません。

では、お腹を満たしたいならば、みなさん、それを口に

投げ込まなければなりません。

だから、真理も、救われたいならば、その真理を、実践という

実践で、みなさんは、言葉に思いに表現に、日々の生活の中に、

それを示し活かしていかねばなりません。

肉体存在の目的は、神我顕現といっているではないでしょうか?

神我顕現とは、真の我を現し示す、神なる我を現し示す、

自我の我を示すとは書いておりません。

自我の我を我として生きるとは、書いておりません。

説いておりません。

いかに、供養を誤って、できない供養をあなたがたに、

教え説いている無知、盲、迷った人間の何て多いことか。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-27(Mon) 10:11:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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本当にここに生きながらにして、そのような光を放っている

人間なんて、生まれて初めて出会いましたと。本当に生きた人間が

このような光を放つものがいたのかと?

もう、金縛り状態で、私が額を買って、帰っていくまで、

そこを動くことができません、その方は。わたしは振り返って

みてはいませんが、何時間、そこに立っていたかは知りません。

皆さん一人一人が、本当に愛という波動を放ち得るあなたがたで

あるのならば、すべてを釘付けにすることでしょう。

すべてに幸いをもたらすことができるでしょう。

我、この世の闇を照らす光なり。我この大宇宙を照らす光なり。

だから、皆さんは、我々の小さなグループがもがいてもがいて、

世界が変わるのか?

あるいはわたしがもがいてあがいてどうなるのかと言いましょうけど、

それはみなさんが、 我(が)と言う我(が)のなかで、限定した自分

であって、皆さんの本質はなんと言いましょうか?

それはあなたがたの本質を計り知ることが誰ができましょうか?

なぜならば、皆さんは、無限そのものではないでしょうか?

無限なるあなた方が、無限の光を放ち見てください。

心清きものよ、幸いなり。そのものが語る言葉、表現する言葉、

すべてを釘付けにするほど、みなさんに幸いを与えることになるでしょう。


まったく、その逆に、朝に昼に晩に皆さんに出会えば、もう苦しい、

毎日、病気、病気、病気の言葉しか放たぬのなら、いい気持ちと

言えましょうか?

気持ち、エネルギーの持ち方、エネルギーの持ち方とは、エネルギーの

使い方、言葉で思いで、表現で、どういう方法で皆さんが、

そのエネルギーを使っているのか?

それでもって、みなさんが気持ちいいものなのか、気持ち悪いもの

なのか、あるいは幸いなるものなのか、災いなるものなのか、

それで決めているではないでしょうか?

では気持ちいい人間となるために、あるいはまた幸いなるものとなる

ためには、何の修行も必要ないではないでしょうか?

神社や仏閣やお寺、教会に行って、肉体が朽ち果てるまで、動かぬ仏像

の前で、お経を唱える必要もない。山の中で洞窟の中で、肉体が

朽ち果てるまで、明想、明想と明け暮れる必要もない。

ではたとえば、山の中で、誰もが悪口で、嫌な言葉を語ってくれない。

嫌な表現も見せてくれない。

それならやすらぎでいることは、たやすいこと。

しかし、我々は、家庭を与えられ、社会を与えられ、世界を与え

生かされている限りは、どこにも逃げ隠れすることはできません。

与えられたその場所場所で、絶対なる愛として生きること他に、

わたしたちがやすらぎを得ることはできません。

そのように、皆さん自身が、常に与えられているその場所場所で、

美しくみなさんが輝いてみてください。

みなさんは、心清きものよ、幸いなり。

このものが語る言葉、思い、表現は、すべてに良い影響、

すべてに幸いをもたらすことでしょう。

それは、形あって、必ずしもそこにいなければいけないと

いうことではありません。

皆さん自身が、どこに離れていても皆さん自身の波動が、時間、

空間、壁、距離、一切のものを超えて、大宇宙にまで放ち得るほどの

あなたが、本来のあなたであることを知って欲しい。

自らして自らを限定し、自らして自らを束縛し、無力にしていることを

これ、自縛と言います。

自らの無限さを縛って自縛、自らして無知、無力に、迷い、盲に、

苦しみ生きているもの。


では、自分で自分を縛っているからこそ自縛と書きます。

本来は無限の能力でありながら、自分で自分を縛って、無知、迷い、

盲になっているものを自縛と言います。

では、その自縛は、皆さん一人一人の理解力によって、解かれていくこと

しかできないではないでしょうか?

そこで、お経を唱えて、肉体が朽ち果てるまで祈ったところで、誰もが

自縛を解き放つことはしません。またできるものでもありません。

あなたがたに変わって、あなたがたの宿題、誰が乗りこなせましょうか?

誰が乗り越えることができましょうか?

あなた方に与えられた試練は、あなた方に与えられた宿題は、皆さんが

強い意志と忍耐と努力を持って、自ら乗り越えていく以外、

方法はありません。

では私自身が今の、この無限の喜び、無限の幸福の境地は、

わたしがお経を唱えて、上から落ちてきたと言いましょうか?

どこかの宗教に籍を置いて、多額のお金をお布施して献金して、

勝ち取ったものといいましょうか?

わたしが唯一、修行というならば、お経を唱えることでもないし、

神社、お寺、教会、お宮で動かぬ仏像を拝むことでもないし、

もし修行というならば、みなさん一人一人が、幾転生という人生の

過程を通して背負ってきた悪習、悪癖を、また様々なものに

執着している自分、その一つ一つを解き放たっていくことが、

これが唯一の修行ではないでしょうか?

価値無き修行をする必要はありません。

無駄な時間を浪費して、修行する必要はありません。

修行とは、本当に修行があるというのならば、自らの心を

磨きいくことが修行と申します。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-26(Sun) 00:46:53】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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物質というこの仮相の自分から、己を解放してみてください。

自縛から皆さん、解き放たれてみてください。

今即、無限の知恵、今即、無限の力、今即、無限の大愛を持って、

みなさんが最高な神としての人生を歩み生きることになるでしょうと。

人間意識、肉体意識、個人意識、いと小さき、いと弱きものが

あなたがたではありません。

皆さんの本質は、無限です。

皆さんの本質は、完全です。

だから、完全なる言葉他に用いて生きるが故に、病気を造って

支配されてみたり、悩み・苦しみを自らして、それを造り、

支配されてみたり。それでは造らぬものがどうして現れましょうか?

わたしはよく言いますけど、どんなに何週間、何ヶ月、何十年を、

朝に昼に晩に、もう寝る暇惜しんで、働いて働き通したところで、

疲れたという言葉を吐いたことがない。

一秒病んで、この肉体横にした体験もない、というのは、

どういう意味でしょうか?

私自身の意識の中に、破壊的なその疲れたという言葉、

破壊的なその病・病気というものを想像しないが故に、

あらわれようがない。



言葉は力なり、思いは実現の母、それをみなさん、

徹底して理解していかねばなりません。だから皆さんから、

もう今日、この瞬間から、ネガティブ、消極、破壊的な言葉、

思い、表現を取り除いただけでも、皆さんは、計り知ることの

できない幸福を喜びを、感じ生きることができるでしょう。

皆さんは、身口意という思い、言葉、表現を、みなさんは宇宙生命と

いう表現を使うという方法が与えられているというではないでしょうか?

花々は美しく咲き誇れという表現を与えられています。

動物は本性として生きよと与えられています。

鉱物は親和力として生きよとその表現が与えられています。

万物の霊長であるあなた方は、思いと言葉と、その表現、徹底して、

それを正し、生きるのであれば、今即、神の無限の喜びを

掴み生きることができるでしょう。

だから神は皆さんに、一点の悩み・苦しみ・病・不調和を与えて、

与え生かしているわけではないんだと。

神は皆さんの心の扉を叩いて、あなたがたは、幸福で生きよと、

幸せで生きよと、常に喜びに満たされて生きよと。

だから私自身が本当の成仏・昇天とは、豊かな心と申します。



今の勘違いしている人間は、豊かと言えば、金や物質や名誉に

満たされて、富に満たされているものを豊かと言います。

金持って、幸せでない人間はいっぱいいます。

肉体的な健康あって幸せでない人間いっぱいいます。

地位・名誉を与えられても幸せでない人間がいっぱいいます。

どうしてでしょうか?

金・富・物質では、本当の豊かさ・幸福は得ることができぬからと。


皆さん方一人一人が、美しい心に、愛そのもので、満たし生きたとき、

本当の幸福を体験することでしょうと。

全一体で、すべてのすべてを許し愛すあなたがたであるならば、

幸福でしょうと。みなさん、許せない許せないと無知で一日を

終えたものがいましょうか?

あのものこのものと、憎み・そしり・ねたみで生きながら、

あーいい気持ちだなんて、みなさん生きることができましょうか?

気持ち、皆さんはよく、この人は気持ちいい人間、

この人は気持ち悪い人間、気持ちいい人なら一日中でも

ひっついていたいと。あるいは全く逆に、もうこの人から

早く逃げたい、気持ち悪い。

では気持ちとは何を意味しましょうか?

人はエネルギー、人は命です。

つまり命の使い方が、間違っているのなら、人を怒り、

ねたみ、憎み、そしり、ネガティブ、消極、破壊的な言葉、思い、

表現しかできないもの。

エネルギーの使い方を間違っていることにおいて、

放つそのバイブレーション、波動がもう破壊的。

で、そこにいるとみなさん気持ち悪い、気持ちよくない、早く逃げたい。

しかし、常に愛を語るもの、常に正しい思い・言葉・表現で

できるもの。



だからわたしこれは、去年か一昨年にこのような体験をしました。

ちょうど私がお客さんから色紙をお願いされて、額を買いに

○○の方へと降りていきました。

ホームセンターで、まったく今生は、この肉体的に、

出会ったこともない男の人が、もう私の頭のこの先から、足の先まで、

じろじろ見つめています。

どうしたんだろうと?朝も何も食事していないし、食事している

のなら、口に食べ物がついているだろうに。

わたしはあまり肉体に執着していないものだから、もう鏡を

見たことがないんですよ。髪切る時間もないがゆえに、この山嵐

みたいにぼさぼさしていても、自分の顔さえも見たことが

ないものだから。

よく子供たちによーくその格好で、お客さんの前に立って、

講話ができるなーと。

たまには、鏡でも見てみろと言われます。

で、そういう状態の私ですから、もう形にはあまり、

振り回され生きることもないし。どういう訳で、頭の先から

足の先まで、じろじろ見るんだろうと。

あまりにも見つめられて、私自身の方が、どうしたの?

と反対に聞いてみると、

本や書物からは、あるいは誰彼からの話からは、本当に我々が、

真の自分が宇宙真理であること。本当に自分自身が修行して

極めていけば、そのものから放つ、その後光とか、

光とか言いましょうけど、

あるいは今はオーラとか表現しましょうけど、その光は、

太陽の光を打ち消すほどの、何万倍の光を話には聞いていたと。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-25(Sat) 00:22:53】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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いつも話をするように、ただ我々は、優雅に着飾って

威張るためではありません。

全国を旅しておいしいものを食べ歩きするためでもありません。

肉の快楽におぼれいくためでもありません。

どんなに個人的に地位や名誉を与えられて、毎日高級車を

乗り回したところで、豪邸に住んだところで、

真の自分を見失って、無知・盲・迷いの人生を終えて、

何の価値もないことを知ってもらいたい。

私は決して物質やものを、否定するものではありません。

決して、地位、名誉、物質、富、金をちり箱にゴミ箱に

ちりのように捨てよというものではありません。

本当の自分を知った生活、本当の自分を知った生き方に

皆さん方が目覚めてもらいたいと。

それがみなさんの本当のあるべき姿ではないでしょうか?

命は知恵です。

命は力です。

命は愛です。

命は光です。

では、我命なりと目覚めいかぬ限り、どうして知恵は

現れましょうか?

どうして力を示すことができましょうか?

我は神なり、我神なるがゆえに無限の知恵、無限の力、

無限の愛、光は、我が内に実在するということは、

我命なるが故に生き、我命なるが故にすべての知恵・力に

満ちていることを知って欲しい。

まさか、この肉体から命解き放されて、誰が生きるものと

して存在することができましょうか?

私から命が抜ければ、死人、死体としかならぬでは

ないでしょうか?

それではみなさん、肉体が生きていると言うけど、

これは大きな錯覚、大きな勘違い。

生きて働いているのは、生きて口を語って言葉に、

耳を使って聞き、目を通してみるのは、

命であって、肉体自らではないんだと。



肉体自らは無なり。肉体自らは、ゼロなり。

肉体自らは、一点の知恵・力も持っていないことを知らねばなりません。

まさか、みなさんは、わたしは命に生かされているのではなく、

肉体そのものによって生きているんだというのであれば、

みなさん、肉体から命を差し引いて見てください。

口から語れましょうか?

みなさん、死人に口なしといっているではないでしょうか?

口あって語らず、目あって一点も見えません、

耳あって一声も聞こえません。

そこで、皆さんは、理解することができるではないでしょうか?

命なき者は、目あっても見ない、口あっても語らない、

耳あって聞くこともしない。

生きて働いていたのは、すべて、五感を操っていたのは、

神として命であったのだと。


だから昨日は、○○さんが、行為の主人公はあなたですかと?

みなさんはこの肉体をさして私と言うけど、

あたかもこの肉体が生きているという錯覚。

行為の主人公とは、命です。命がなければみなさんは、

言葉という行為、思いという行為、表現そのもの、

何をも示すことはできません。

だから、原因という命がなければ、結果として肉体は、

結果としてこの現象世界は、存在しうることはできません。

それではすべて、原因と結果の法則ではないでしょうか?

本当に原因があって結果が存在するんだ、肉体が生きるためには、

見えざるこの命によって生かされているんだと。

それを皆さんが理解して生きることを、バランスといいます。

調和と申します。

しかし、肉体こそが生きているんだ、肉体こそが我なり、

見える物質以外は信じないと。

これは物質人間、偽物に偏って生きている人間を仮相人間、

これを私は物質の奴隷と申します。

もう朝に昼に晩に、見えるものがすべてだ、金がすべてだ、

物質がすべてだ、ものがすべてだ、これすなわち仮相人間。

その物質に支配された奴隷と申します。

あの十戒モーゼの当時に、人間が人間をムチ使ったものが

奴隷ではありません。

今日も私自身が、見える私を自分として錯覚し、

掴めるものが見えるものが、これが実在、すべてだと錯覚して

いるのならば、私こそが仮相人間、結果人間、結果しか

見えない自分、そのように結果に振り回されているものを

奴隷と申します。

それでは奴隷解放とは、肉体を同じ人間同士がムチ打って

使っているものが奴隷ではなく、奴隷解放ではなく、

我々が物質と霊的な面と、見えるものと見えないものとの

バランスを取って生きることこそが、調和して生きること

こそが、これが奴隷解放ではないでしょうか?

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-24(Fri) 13:44:41】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(2)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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かといってみなさんそれは、肉体を殺す必要はありません。

肉体を脱ぐ必要はありません。

まあ、皆さん自身が、今肉体を持ちながら幸せでなければ、

あの世で幸せがないことを知ってもらいたい。

今、皆さんが幸せでなければ、肉体を脱げば幸せが

待っているということは勘違い。

今、皆さん自身が無知であり盲であるなら、

迷って生きている限りは、皆さん自身が本当に

知恵ある自分へと、目を見開いた、本当に開眼された我へと、

皆さん自身が変えていかぬ訳には・・・・。

それを変性変生(へんせいへんしょう)と申します。

皆さん自身のこの幾転生の旅はなんのために、

無知・迷い・盲の自分から、無力の自分から、

真実なる我を神として、自らを悟り行くまで、

続きいくことをしってもらいたい。

しかし、すべて一切を克服したときに、本当に本質で

ある我は真理なり、真なり、あるいは様々な表現で神、命、

様々な表現をしましょう。

我は真理なり、と生きるまでは、真理に目覚める生きるまでは、

完成されたものは一人もいません。


どんなに地位・名誉・富・金に満たされても、この世を優雅に

終えたところで、自らが真理であることを見失って、

無知の人生、盲の人生、迷った人生として終えていっただけ。

だからみなさんが我真理なりと言えたときは、本当にそれを実感、

実際に感じなければなりません。

ただ今日は話を聞いたから良かった、本や書物を読んで

素晴らしかった。

これはただ味わうこともなく、ただ絵に描いたぼた餅信仰、

絵に描いたこのぼた餅を皆さんが肉体が朽ち果てるまで

見ていてもみなさんのお腹を満たすことはできません。


口に投げ込んで味わってもらいたい。

で、味わうことは、日々の生活の中にその真理を全うして

生きていることを私は、味わうと申します。

そのときは、皆さんは、何万年の転生させられた法則、

今ここに解けたり。幾転生という人生を過程を通して

積んできたこの業・罪・カルマがすべてみなさんの

もとから崩れ去っていくでしょう。

そのとき、完成、これを昇天・成仏と申します。

昇天とは、成仏とは、死んだ人間の前で、牧師や坊さん

をつれてきて、お経を唱えて成仏はありません。

それではみなさん、よーく、お坊さんや牧師に聞いて

みてください。何のためにお経、何のために様々な儀式

というのならば、供養といいます。

供養のためと。供養というなら、何かと聞くならば、

供養で昇天や成仏に至らしめるためと。

去年の半ばから、わたしは本当に、その供養、昇天・成仏

というものを明想を通じて、その答えを得たときに、

今、世界で、本当の供養・成仏・昇天を説いているものは

一人もいないことを知りました。

わたしはそれを断言して言い切ります。

なぜならば味わったから。実感したから。

供養というならば、皆さん自らが供養ができることを

知ってもらいたい。なぜ、誰が拝んで昇天、誰が拝んで成仏に

至らすことができましょうか?

昇天とは成仏とは、真の己が宇宙真理に目覚めることが

昇天・成仏ならば、じゃー、わたしが皆さんにどんな話をしても、

受け入れるあなた方がいなければ、それを理解するあなた方が

いなければ、誰がそれを掴み取ることができましょうか?


だから己が己を供養して、己が己を供養するということは、

真理を正しく理解することです。

真理を正しく理解して、日々の生活の中で、真理を我として

生きることです。

それが供養、そうしたときにみなさんは、いつでも喜びの中に

いること、いつでも幸せ・幸福の中にいること。

ではそれは死んでからではなく、今この肉体をもちながら

昇天・成仏ではないでしょうか?

だから、今私が味わっている昇天、今私が味わっている成仏、

みなさんにそれが理解できましょうか?


今、私は最高の境地を味わっています。

自らして自らを供養しました。

これは何十年という努力を積み重ねて、真の自分とはなんぞや、

鏡に映し見ることのできる肉体、物質が自分なのか?

私と言っている私とは、一体全体何者なのか?

何十年間追求したときに、我は真理なり、真理こそが命であり、

宗教家が説いている神・仏、我は神なり、我は仏なり、

そこに至ったときに、自らして自らを供養したこと、

自らして自らを昇天・成仏に至らしたことを知ります。

それがみなさんが、今、幾転生も幾転生も一体、

肉体の存在の目的、その意味ではなかったでしょうか?


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-23(Thu) 13:31:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(1)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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執着、それは、みなさんが小学校で教わったとおり、

「飛びだつ鳥、後をにごさず」と。

では、みなさん、なぜ幾転生も幾転生もこの人生の旅を

せねばならぬのか?

みなさんはあってあらゆるものに、執着を残して

きたからではないでしょうか?

たとえば、夫婦間で、あるいは親子間で執着しあって、

苦しみ生きている家庭がなんて多いのかと。

たとえば、我々の家族の例とするならば、家内は決して、

私の執着する所有物ではありません。

また私自身は、決して家内の所有物として執着に値する

ものではありません。それを理解できれば、

いかに幸せな家族をつくれることがあるでしょうに。

「飛びだつ鳥、後をにごさず」。

決してみなさんは、いつかこの肉体を脱いだときに、

何者にも一点も執着を残してはならぬと。

それを私自身がどのような形で教わったのかというと、

今から17年前の平成元年に、お母さんの状態をすべて

瞑想で見せられて、あなたのお母さん、今生の役割終わった、

こういう形で肉体を脱いでいくだろうと、全部手に取るように

見せられていました。

それにもかかわらず、お母さん危篤、家族のものから電話を

受けたときに、まあ、いつかは肉体を脱ぐし、

そのような執着に値するようなものでもないし、ほっておこうと

思っていたのだけど、形の上ではどうしても、身内のもの、

どうしても行かねばならぬ状況。

それで、タクシーで病院についたときに、今まで、何十名、

何百名、何千名を医者から不治の病といわれたものも、

ガンと言われた病も、原因不明という病も、計り知れない数を私、

癒した体験があります。

そのときは、肉体を癒すことが愛だと錯覚していた当時、

そのように多くの方々もそのように癒されたのだから、

どうしてもお母さんを癒したいという気持ちで、私、

お母さんの胸元に手を当ててヒーリングを始めました。

そして、内から来た言葉が、まだこの古い革袋が欲しいのかと?

まだその古い革袋にしがみつきたいのかと?

”執着”といわれました。
 
そのとき、はっと目が覚めたときに、お母さんから手を外して、

病院の待合室の方で、軽く目を閉じて座ってますと、

瞑想状態の中にいますと、私からすればおばあちゃん、

お母さんのお母さん、そのときの7年前に肉体を脱いでいたんです。

そのおばあちゃんが、お母さんの枕元に、降りてきた瞬間、

あーお母さんはもう、息を引き取るなーと、そう思った瞬間、

息引き取ってこの肉体を脱いだと思った瞬間、

看護婦が私の前に来て、

「はい、あなたのお母さん、今、息を引き取りました。」

コンマ何秒も変わりません。狂いもありません。

その状態で我々は、いつか肉体を脱いでいくことに、

決して執着、苦しみ生きていくあなたがたで

あってはなりません。


これをお釈迦様はこういう風に説きました。

ある若いお母さんが、赤ちゃんを亡くしたときに、

誰かこの子を生かして欲しい、誰かこの子を助けて欲しい、

もう泣き叫んで、苦しんでいるところに、お釈迦様が

通りかかったときに、私が生かしてあげましょうと。

私が救ってあげましょうその子をと、ただしそこに条件があると。

あなたが何十件、何百件、訪ねてもいいけど、その中からけしの種を

3つそろえて持ってこいと。

ただし、その条件は、一度も葬式を出したことの

ない家から探してこいと。

そしたらそのお母さんは、どの家を訪ねても、一度だって

葬式を出したことがない家は、ないこと。

そのときに、あー、生まれたものには死が訪れる、

はじめあるものには、終わりがある、造られしものには、

必ず破壊が訪れ来る、エントロピーの法則を悟りました。

なんだそれは、悩み・苦しみに値するものではないのではないかと。

皆さんは、生まれて、5歳、6歳、7歳、幼くして肉体を

去れば不幸、よぼよぼになっても、長く生きていることを

幸福だ、幸せだと、

勘違いするなと。
 
何が幸福、何が不幸と決めましょうか?

皆さん自身の自らに目覚めたその無限という境地が

あなたがたの幸福か不幸かと決めていることを

知らねばなりません。
 
たとえば神は、このように訴えてきます。

この世で長く生きれば幸せ、早く死ねば不幸だと思っている

人間ならそれを理解することができないでしょう。
 
神はわたしにこのように言います。

あなたは千年も万年も生きよと、あるいはまた、

他の人にはあなたは早く死ねと。では、そのように長く生きて幸福、

早く死んで不幸と、そのような錯覚をしている人間が

理解できましょうか?
 
神は、それは何を訴えているのか?

あなたはあまりにも悪すぎて、わたしには、あなたはさんざん、

破壊的な生き方をしてきたが故に、それを建設に生きれるまでに、

正しい生き方、正しい方向へ自分を変えていくまで、完全に解脱

至るまで、千年も万年も、今までの、この悪い生き方をした分だけ、

苦しみ生きるか?

それを刈り取って生きよと、刈り取ってこいと。

しかし、早く死ねといわれた他の人には、あなたに刈り取るべきものは、

もう事終われり。あなたは刈り取るべきそのカルマ、

みなさんが言われる罪・業、もうなしと、すべて与えられた分だけ、

正しいその与えられた演技を、すべて正しい演技をしたと。

それを完成、はやくわたしのもとに来なさいと。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-02-22(Wed) 18:53:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の実践
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の方々のご講話をまとめてみました。

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あなたがたに、今、悩み・苦しみ・病があるのなら、

それは、神が与えた罰ではなく、みなさんがたが、

より強きものへと、変性するために必要なものであるから

です。

決して、神を恨んではなりません。

今、あなたがたは苦しんでいるかもしれませんが、決して

その不調和に押しつぶされるあなたがたではあっては

いけません。

悩み・苦しみ・病がたとえあったとしても、それは、神への

最高の道を歩んでいるのだと、思ってください。

悩み・苦しみ・病により、苦しみを感じるあなた方だからこそ、

それを乗り越える強きあなた方だからこそ、

多くの悩める兄弟姉妹たちに、手を差し伸べることができるので

はないでしょうか?

苦しみを知らなければ、どうして、人の気持ちが分かりましょうか?

悩みを知らなければ、どうして、人をいたわることができましょうか?

今は、真の我に目覚め生きている聖者の方々も、肉体をもって、

この地上で生きていたときは、みんな、厳しい道を歩んできたの

です。

悩み・苦しみ・病は、永遠に存在するものではありません。

悩み・苦しみ・病は、愛によって、克服するがために、

あるのです。

悩み・苦しみ・病は、非実在です。幻なのです。

愛のみが、実在なのです。

幸せに生きるには、愛でもって生きよ。

愛は、すべてのすべてを克服します。

愛は、すべてのすべてを癒します。

悩み・苦しみ・病は、愛でもってしか、乗り越えることが

できません。

今日の今から、1日1日、愛の種をまいてください。

1点の曇りなき心によって、愛の種をまいてみてください。

あなたは、半年後、1年後に、驚くくらいの無限なる愛を

収穫することになるでしょう。

トマトの種をまけば、トマトを収穫します。

きゅうりの種をまけば、きゅうりを収穫します。

それと同じように、愛の種をまけば、無限の愛を収穫するのです。

どこに、愛の種をまいて、不調和を収穫する人がいましょうか?

1日1日、愛の言葉、愛の思い、愛の行動をまけば、あなたには

愛しか帰ってこないのです。

わたしが言っている愛は、恋人同士の姿、形をとらえての愛では

ありません。

万物を存在いたらしめる愛そのもののことを愛と言っているのです。

毎日毎日、針先の1点も曇りのない、言葉、思い、行動。

すべてのすべてを許し、愛し、愛しかないんだと心の底から、

愛の実践をすること、あなたがたに必要なのは、ただひとつ、

愛の実践なのです。

愛の実践、愛しかないこと、これを真のそこから、理解したとき、

あなたの細胞一つ一つが、愛に満たされることになるでしょう。

愛という言葉を使いなさい。

神という言葉を使いなさい。

今日、わたしは、愛という言葉を意識的に多く使っています。

愛という言葉は、すべてを癒すからです。

この話を聞いて、気持ちが悪いと感じるのなら、あなたがたの

心は、相当狂っています。

愛や神という言葉は、いくら使っても損はしないのです。

損しないどころか、愛だ、神だと思うだけで、あなたがたの

バイブレーションは、愛や神に満たされていくのです。

いまだに、聖書が世の中のベストセラーとなっているのは、

あの本の中には、愛や神という言葉がたくさん使われている

からなのです。

愛にて生きよ、1点の曇りもない、不調和のない心、神の愛にて

生きなさい。

神は、愛なり。愛は、神なり。

すべてのすべてに、神の愛を見なさい。

この世は、あなたの思った通りのものである。

あなたが、人の心の中に、不調和を見るのなら、あなたの心に

不調和が存在するのです。

あなたが、人の心の中に、神の愛、神の完全さを見るとき、

あなたは、神の愛の中に、融合しているのです。

全世界の人があなたを非難・批判、迫害しようとも、その人たちを

許し、愛しなさい。

都合良いものだけを愛して、何になりましょうか?

そのようなことは、罪人たちでさえもしているのではないか?

苦手な人があってはなりません。

嫌いな人があってはなりません。

あなたを罵る人、怒る人、非難・批判する人、すべてのすべてを

許し、愛すること。

愛こそ、最高の奇跡であり、最高の癒し主であることを理解して

ほしい。

あなたが、愛がすべてなんだということを理解したとき、

神はあなたの中にいます。

神が最大の祝福をします。

愛がすべてのすべて。すべてを癒す最高の道であること。

今の今から、徹底して、愛の実践をして欲しいと思います。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




未分類 | 【2006-02-21(Tue) 20:19:14】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の教育とは?
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の方々のご講話をまとめてみました。

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今の世の中は、親が子を殺したり、子が親を殺したりと、

気が狂っている時代になっています。

これを末法の時代といいます。

これらのことは、自分が何者なのか、分からぬ無知ゆえに、

このようなことがおこっているのです。

今の大人は、目が開いているでしょうか?

自分が何者なのか、分かっているのでしょうか?

神とは何なのか、分かっているのでしょうか?

今の子供たちは、大人よりも霊的に目覚めた魂が、

誕生してきているのです。

それを今までの無知な考えで、頭ごなしに、自分たちの

教えを押しつけようとするから、子供たちは、

反発するわけです。

盲が盲を導いている状況なのです。

子供たちが登校拒否をするのにも理由があるのです。

それは、今の学校が、真理を教えてくれない、この世的な

学問であるということを、心の奥深くで感じており、

学校に行っても、得るものはないと感じているからなのです。

先生たちも、真理を分かっていないのに、一方的に目上、

年上という立場から、物事を教えるために、反発を食らう

わけです。

この世の何者も、先生と呼んではならぬ。

先生と呼ばれた時点で、その人の成長は止まってしまうだろう。

真の先生は、我が内にあるわけです。

今の学校の先生や親たちは、謙虚に、幼稚園生の子供たちや、

小学校の子供たちから、学ぶ姿勢なくして、どうすると

いうのでしょうか?

蟻一匹からも、真理を学ぶことができるのではないでしょうか?

ただ、先に生まれたからといって、わたしの方が、何でも知っている

と傲慢になり、謙虚さを忘れているのです。

親も先生も、謙虚さを忘れてはいけません。

わたしの子供、子供、という気持ちは、捨てるべきです。

あなたの所有物は、この世に一切ありません。

神より預けられた子供たちから、多くのことを学ぶ、学べるんだという

ことを、忘れてはいけません。

親も先生も、この世がなんなのか?

真の自分とは、何なのか?神とは何なのか?

それを知り、悟り、教え、伝えてこそ、真の教育といえるのでは

ないでしょうか?

ただ、いい学校を卒業して、一流の大学を出て、一流の大企業に

就職して欲しいとか、真の自分を分からずして、この世を去れば、

何の価値もないことでしょう。

一流の大企業に就職すれば、幸せになれるのですか?

自分の子供をあたかも自分の所有物のように、扱ってはいけません。

謙虚に、すべてのすべてから、学ぶ姿勢、これを忘れてはいけません。

まずは、神の国を求めなさい。

あなたが、真の我が分からずして、子供たちに教えることは

できません。

わたしは、肉体ではない、人間ではない、個人ではない。

我、宇宙に遍満する生命なりと。

真の我とは、何ぞや、わたしは何のために、存在しているのか?

神とは、何なのか?

生命とは、何なのか?

徹底して、追求し、答えを自分で出さなければいけません。

この答えは、明想せずして、得ることはできません。

五感を超えたところに、真の自分はあるのです。

明想をおろそかにしてはいけません。

明想なんか必要ないんだ、もう私は自分が神であると知っていると

謙虚さを忘れ、明想の大切さを忘れている人が多いのです。

あなたがたが、明想によって、少しでも霊的な体験をすれば、

3度の食事をするよりも、明想をしたいと思うようになるでしょう。

その境地に達するまでは、忍耐、忍耐、忍耐あるのみです。

ここでわずか学んだだけで、もうすぐに神の力・知恵は、

わたしのもとにあるんだという勘違いはしないように。

何年間も何十年間も、継続し、明想することによって、

答えは出すものです。

明想するときに、何か見よう見ようとするのは、

やめなさい。

見えるものは、すべて影であり、幻であるのです。

人が明想をしたときに、何か見えたというような話を

うらやましく思わないように。

時間がある限り、明想をしなさい。

そして、日常生活で、真理を実践してこそ、その明想は

生かされるのです。

そして、皆さん方が、子供たちに、真の教育を伝えて

いってほしいと思います。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




未分類 | 【2006-02-20(Mon) 12:57:19】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
光こそ実在
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の方々のご講話をまとめてみました。

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我は世を照らす光なり。

外なる世界の闇は、我が内の光には勝てなかった。

みなさんの本質は、光です。

みなさんは、光から出てきたものであり、光へと帰るべき

存在です。

内なる魂は、光そのものであり、そこには、一点の曇りもない

光の存在なのです。

それなのに、みなさんがたは、この世の影、光の映しである影に

おぼれ、影が自分であると思いこんで生きているのです。

光の世界から見れば、みなさんがたは、毎日、影の世界で、

ドラマを演じているのです。

一人一人が主人公であり、ドラマや映画の役者のように、

この世で演じているわけです。

泣き叫んでみたり、悲しんでみたり、苦しんでもがいてもがいてと、

光の世界から見れば、皆さん方は、何て演技力のある役者なのか

と思うわけです。

この世で自分たちがドラマを演じていることを忘れ、またテレビの

ドラマに夢中になったりするわけです。

影の世界は、非実在です。

影の世界は、幻です。

影の世界は、仮相の世界です。

偽物である影に振り回され、影を得よう得ようと必死になり、

いつかは消えゆくことになる影に精一杯に生きている人の

なんて多いこと。

みなさんの本質は、光そのものです。

みなさんの本質は、太陽の光さえも打ち消すほどの光の存在なのです。

その光に帰るべきではないのですか?

光から出てきたものは、光に帰るべきです。

天なる父は、皆さん方が、光の存在であることを、教えたくて

教えたくて仕方がないのです。

それなのに、影の世界におぼれている皆さんを見て、心を

痛めています。

疲れたものは、わたしのもとへ来なさい。

わたしが休ませてあげよう。

影の世界に、振り回された人は、疲れているでしょう。

光の世界に、本来の世界に、自分の本当の住みかに、帰りましょう。

永遠なる久遠の世界へと、久遠のホームへと、帰るべきなのです。

今、この迎え人が、案内人がいるときに、光へと歩むべきです。

わたしは、天なる父の計画に対して、自我で、10年以上も、

みなさんに教えを説くのをさぼってきてしまいました。

それを何とか、取り戻そうと、毎日、1年365日、欠かすことなく、

皆さんの前に立たせてもらってきました。

今日も、本当は、今年最後になりますのでと、娘夫婦に夜の食事に

誘われたのですが、わたしは、真理を伝えなければいけないと、

あなたたちだけで行ってきなさいと、誘いを断ってきたのです。

皆さんに、真理を伝えなければいけない。

一人でも多くの人が、真の我に、光に帰ること、それができなければ、

わたしが来た意味がない。

わたしが使命を果たしたことにならない。

そんな思いだけで、今日もすでに4回目の話をさせてもらっているのです。

なかなか、皆さん方が、分かってくれない。

どういったらよいのか、もうこのような話をするのは、やめた方が

よいのではと、何度も何度も挫折しそうになったのも事実です。

ただ、そんなとき、夢の中で、神に、一人一人の心の状態を見せられ、

1年前と今では、これだけ違うのだ、あれほど曇っていた心の状態が、

ここまで綺麗になるのかというものを見せられ、何度も何度も、

踏みとどまってきたのです。

イエス様の時代もそうでした。あれほど、偉大な魂が、教えを説いたにも

かかわらず、天に帰る人は、ほんのわずかでした。

その教えが、人間の概念や観念で、誤った解釈をし、私たちの兄弟姉妹に

誤った教えをしているのが、現在です。

その誤った教えをただしに、わたしは参ったものなのです。

みなさんがたは、光なのです。

みなさんの本質は、光そのものなのです。

わたしたちは、血や肉、姿、形に、影に属するものにあらず。

わたしたちは、光なり、愛なり、生命なり。

光とは、大調和のことです。

陽というプラスと、陰というマイナス、霊と水の大調和が、

愛があってこそ、わたしたちは光の存在となるのです。

霊肉のバランスを取りなさい。

陰陽のバランスがあってこそ、大調和があってこそ、皆さん方は、

光の存在となれるのです。

霊肉のバランスがとれていなければ、まったく後光がさすことは

ありません。

わたしは、個人だ、肉体だ、人間だと生きている限りは、光が

さすことはないのです。

影に生きているからです。

わたしは、光だ、光そのものだ、光あるのみだと常に常に意識

してほしい。

事実、みなさんがたは、光そのものであるわけですし、昔から、

今の今、そして、未来永劫に、光そのものなのです。

真の我に、光そのものに、帰るあなたがたになってほしいと

思います。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




未分類 | 【2006-02-19(Sun) 23:13:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
聖なる愛の星へ
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の方々のご講話をまとめてみました。

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世の中のグループでは、あと何年で、地球は黄金時代に

入るとか、地球は高次元に入るとか、地球が素晴らしい

時代に入るのだから、自分もそれに乗っていこうという

ような考えを持っている人がたくさんいますが、

あなたがたは、他力本願でしょうか?

地球が素晴らしい波動の中に入るので、我々人類も

高次元へと導かれるのだと、言っていますが、地球頼みの

あなたがたなのでしょうか?

この地球が輝く星となるためには、皆さん方一人一人が、

真の我に目覚め生き、多くの方々が、神我顕現をし、はじめて、

地球が、愛の聖なる星となるのではないでしょうか?

それが、皆さん方は何もしないで、地球は素晴らしい黄金

時代に入るのだからと、何て、他力本願の人たちの多いこと。

今、多くの高い意識を持った魂が、この地球に誕生してきている

ことは間違いないでしょう。

多くの人たちが、真の我に目覚め生きるようと、高次元の魂が、

舞い降りてきているのです。

ただ、それでも、皆さん方が、自力で、自分を救世主とし、

真の自分に目覚めなければ、何の意味があるというのでしょうか?

仮に、地球が愛の聖なる星になったときに、あなたがたのバイブ

レーションが、その愛の波動を持っていなかったとしたら、

あなたがたは、この地球で生きていくことは難しいでしょう。

なぜなら、波動が合わないからです。

波動が合わないところには、おれないからです。

これは、たとえば、憎しみや怒りでいっぱいの人が、愛のグループ

に入ったとき、気持ち悪くて、すぐにそこから出て行ってしまいます。

これは、波動の問題なのです。類は類を呼ぶの格言通り、

愛の人には愛の人が集まってくるのです。その逆に、悪い波動を

持った人たちは、悪い波動を持った人同士で集まるのです。

その方が、気持ちがいいからなのです。

ですから、皆さん方が、愛の波動、一点の曇りのない愛の波動を

持たぬ限り、愛の聖なる星には、住むことができないのです。

以前、サイババ様は、地面に円を描き、

「愛に自信のあるものだけ、ここに入りなさい。」と言って、

円の中に、強烈な愛のバイブレーションの地場を作り上げるのです。

一点でも曇りがその人の心にあれば、その円内からはじきとばされて

しまうわけです。

皆さん方一人一人が、愛のバイブレーションを、あげる

ことによってのみ、地球は、聖なる愛の星とし、黄金時代に入る

ことができるのです。

そのために、皆さん方は、真の我とはどこにあるのか、この肉体、

個人、人間が自分なのか、それとも、愛、神、霊が真の自分なのか、

徹底して、内観して、明想して、答えを出すしかないのです。

その答えを、内観して、臆念して、明想して、自分の内から、

答えを出したとき、我、宇宙に遍満する生命なりと。

ぜひ、皆さん方も、この境地を味わって欲しい。

一度でもその境地を味わって欲しい、そうすれば、わたしが感じている

この至福、幸せが、皆さん方にも理解できるようになるだろう。

味わったものにしか、理解はできないのです。

そのために、人の何十倍、何百倍、何千倍という努力を重ねて欲しい。

努力なくして、神の国に入ることは、できないだろう。

努力せずして、神のもとへ帰ることは、できないだろう。

一点の曇りのない意識に到達するには、努力と忍耐は欠かすことが

できないのです。

努力と忍耐が、あなたがたが、今生、学ばなければいけないもの

なのです。

先日、わたしに、こういう質問をする方がおられました。

「あなたは、すべては神ですというのならば、今のままで神で

あるのなら、今のままでよいのではないのか?」と質問されました。

今まで、何万回という幾転生の間、私は、肉体だ、個人だ、

人間だと言って、人を罵り、非難・批判し、悪習・悪癖が

ついてきた皆さん方が、あなたは神ですよ、個人ではありませんよ、

生命ですよと言っても、すぐに、また、肉体だ、個人だ、人間だと

生きるのがあなたがたではないのかと?

そこに努力無くして、どうして、生命として、神として、生きられ

ましょうか?

私自身も、無我の境地を体験している、味わっている私自身も、

今の今、人を罵ったり、非難・批判したり、悪口を言ったりすれば、

個人、肉体、人間に墜ちていくことになるでしょう。

ですから、何度も味わっている私自身でさえ、毎日、毎日、歯を

食いしばり、拳を握りしめ、努力に努力を重ねている一人なのです。

神の愛は、努力によって、無限に広がる、無限に高まる意識では

ないでしょうか?

そこに、制限がありましょうか?

そこに、終点がありましょうか?

無限なる命は、無限に成長することができるのではないでしょうか?

努力せずして、神の国に入ることはできないのです。

お釈迦様もイエス様も、あなたがたが想像もつかないほどの努力を

重ねてきたのです。

簡単に手に入るものなら、真理は、価値のあるものではなくなって

しまいます。

簡単に手に入らないからこそ、真理は、尊いのです。

神への道は、細く、長く、遠いのです。

忍耐と努力、これしかないのです。

みなさんがたが、一日でも早く、真の我に目覚め生きることによって、

この地球を聖なる愛の星へと、導いて欲しいと思います。

努力と忍耐、この言葉を、忘れることなく、歩んで欲しいと思います。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




未分類 | 【2006-02-18(Sat) 23:56:11】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
光の戦士たちよ
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の方々のご講話をまとめてみました。

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(指導霊の方々より)

ここに集まる光の戦士たちよ。

ここに集う愛の戦士たちよ。

今、神の表現体として、愛の表現体として、我々の兄弟姉妹の

お手本となれるよう、愛を示すときです。

皆さん方は、本物と偽物の区別、識別がもうできている

偉大な魂です。

あと、もう少しです。前だけを見て、この中から、

落伍するもの無く、手を取り合って、歩みなさい。

わたしたちもあなたがたと同じように、転んでも転んでも

立ち上がり、何度もくじけそうになったが、神への思いを

忘れず、ようやく、自己解放をしたものたちなのです。

誰も平坦な道を歩んではいません。

誰も楽に、道を歩めたものはいません。

誰もが厳しい道を歩んでいます。

イエス様やお釈迦様は、あなたがた以上に厳しい道を

歩まれました。

歯を食いしばり、拳を握りしめ、前だけを見て、歩んできた

ものたちなのです。

ですから、皆さん方が、厳しい道を歩んでいることは、

わたしたちは、よく分かっています。

痛いほど、その気持ちが分かります。

苦しいとき、挫けそうになったときは、わたしたちの

ことを心に強く、思い浮かべなさい。

転びそうになったとき、道を外れそうになったときは、

わたしたちのことを、強く意識しなさい。

わたしたちが、手を差し伸べよう。

わたしたちが、サポートしてあげよう。

みなさんがたは、決して一人ではありません。

みなさんがたは、決して孤独ではありません。

みなさんがたを指導する目に見えない存在がいることを、

みなさんがたをどれだけ愛してやまない、目に見えない存在が

いるということを、忘れないでいて欲しい。

わたしたちは、あなたがたを最大限に愛します。

わたしたちは、あなたがたに最大限の愛を送ります。

愛おしくて愛おしくて、早く天に帰って欲しくて、

たまらないものたちなのです。

皆さん方と、共に晩餐する日を楽しみにしているものたちなのです。

皆さん方、2000年前を思い出して欲しい。

イエス様の時代、真理を説きに、愛を説きに、この地上界へと

舞い降りたイエス様が、どれだけ、この世の人々から、迫害を

受けたか?

どれだけ、人々から、罵られ、非難・批判されたか、皆さん方が

想像もつかないほどの迫害だったのです。

それでも、自分を十字架にかけようとするものたちにさえも、

「おー、神よ。このものたちを許したまえ。このものたちは、

神を知らぬが故、あなたのことを知らぬが故に、このような

ことをするのです。」

とそのものたちを許し、祈りを捧げたのです。

自分を殺そうとするものにさえも、祈りを捧げたのです。

それに比べれば、今の時代は、とても学びやすい環境にあります。

みなさんがたが、このような話をしても、殺されるという環境

ではないのです。

わたしたちは、このものを、みなさんが真の我に、天に帰るよう、

真理の道を伝えるようにと、送ったのです。

イエスの時代から、2000年経ち、あなたがた人類が、確実に、

霊的成長をつげているものと確信して、自らかってでて参ったもの

なのです。

このものも、色々な試しにも、転んでも転んでも、立ち直り、

ここまでやってきたものなのです。

神の永遠の泉がここから湧き出ると言われれば、掘って掘って、

何ヶ月も掘って掘って、掘りまくりました。

それでも、何も出てこなかった。

周囲から、気違い扱いされようとも、

「いや、わたしは神を信じているんだ。これは、何かの手違いだ。」

と言って、神を疑うことをしませんでした。

そのとき、大勢の人がいましたが、神を利己的に考えていたもの、

自己欲のために考えていたもの、多くのものが、わたしたちのもとから、

去っていきました。

神はそのようなものではなく、一人一人の欲望達成のためにあるのでは

なく、すべてを愛するものにのみ、あるものなのです。

今、多くの兄弟姉妹が、誤った神の教えに、足かせをしています。

偉大なる魂である皆さん方が、この世に、光を示し、愛を示し、

本物の神を示し、多くの魂が、わたしたちの兄弟姉妹である魂が、

真の我に目覚めいくよう、手を差し伸べてあげてほしい。

今、愛を示しなさい。

今、光を示しなさい。

今、神を顕現しなさい。

あなたがたは、肉ではなくて、愛なのです。

あなたがたの本質は、愛なのです。

あなたがたの本質は、霊なのです。

あなたがたの本質は、神なのです。

あなたがたなら、必ずできます。

あなたがたは、必ず還れます。

このものが使命をはたすよう、あなたがたも使命を果たしなさい。

多くの魂が、この世に、愛を神を顕現し、地上に天国を、聖なる地球へと

導いて欲しい。

皆さん方は、手を取り合い、多くの兄弟姉妹のお手本となるよう、

神の表現体として、歩んで欲しいと思います。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




未分類 | 【2006-02-17(Fri) 15:58:14】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
奴隷解放とは?
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の方々のご講話をまとめてみました。

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唐突な言い方ですが、皆さん方は奴隷です。

奴隷と言いますと、皆さん方は、遙か過去に、歴史上、人が人を

ムチ打って、使用していたのを思い出すかもしれません。

今の世の中には、奴隷なんて一人もいませんよ。

と思うかもしれません。

わたしが言っているのは、そのような奴隷ではなく、

皆さん方は、肉の奴隷なのです。

このいつかは朽ち果てる、この肉体を、わたしわたしと

生きている限りは、肉の奴隷なのです。

真の実相である自分をこの肉体に閉じこめている、真の主人を

この肉体に封鎖している、奴隷そのものなのです。

いくらわたしは、経済的に自由人ですよとか、時間的に自由人

ですよと、言ったところで、その人たちから経済的なもの、

そして時間的なものを取り上げたら、その人たちは、

自由人とは言ってられなくなるのです。

決して、永遠的に、わたしは自由人と言えるものではないのです。

皆さん方が、真の自己を、無限なる生命にお返ししてこそ、自由人と

なれるのです。

それこそ、真の奴隷解放なのです。

奴隷解放は、団体で民衆が立ち上がってするものではなく、

一人一人が、自分の中で、真の自己とは何ぞや、真の我とは何なのか、

これを徹底して追求することによって、奴隷解放がなされるのです。

真の我は、この肉体、人間、個人が、自分ではなく、

無限なる生命こそが、真の我であったと。

真の我に目覚め生きることによって、皆さん方は、肉から解放され、

真の自由人となるのです。

無限なる意識に融合してこそ、無限なる生命として生きてこそ、

自由となれるのです。

ですから、真の自分に目覚められた覚者の方々は、自由そのものです。

無限なる意識ですから、我思うところに、我有りと。

いつでも、どこでも、意識するところに現れることができるのです。

真の我である無限意識で生きることで、テレポート能力などが

発揮できるのです。

長年閉じこめてきた、この実相である真の我をどうか解放してください。

みなさんがた、それには、すべてを愛するしかないのです。

愛で持ってしか、真の解放はできないのです。

そんなに難しいですか?皆さんの隣人を愛することが。

わたしが、汝、自分を愛するがごとく、汝の隣人を愛せよと

言われたことが、なぜ難しいのですか?

なぜできないのですか?

すべては一体なんですよ。

すべては、見えないところでつながっているのですよ。

すべては、あなたなんですよ。

あなたが、99人まで愛することができたけど、どうしても、

残りの一人が嫌い、許すことができないというのならば、

あなたは、落第生です。

愛なる調和の世界では、99点というのは、ありません。

100点か0点かだけなのです。

なぜなら、すべては、一体だからです。

今、あなたの中で、嫌いな人、許せない人がいるのなら、

今即、許して愛してあげてください。

今の今です。

あなたを憎む人、罵る人がいたとしても、どうか愛して許して

あげてやってください。

その人も真の我に目覚めることなく、苦しんでいる魂なんですよ。

慈悲の心で、「どうか、真の我に目覚めいきますように。」と

お祈りしてあげてください。

苦しんでいる人に、あなたは罵りあい、まだ苦しめるのですか?

不調和は、不調和で消すことはできないのです。

不調和は、愛で持ってしか克服することができないのです。

闇は、光を持ってしか、消すことができないのです。

どうか、皆さん方は、すべてのすべてを愛する心、すべてのすべてを

思いやる心、この愛によって、兄弟姉妹のお手本となってほしい。

我々の兄弟であるイエス様が、お手本を示してくれた愛を見習い、

愛によって、神のすべてのものが、あなたに受け継がれることを、

わかってほしい。

皆さん方が、肉の奴隷から、真の我へと目覚め生きるには、

全一体感、すべてを愛する心でしか、できないことをわかってほしい。

愛と調和以外は、一切不必要です。

いろいろなあなたの自我の思いは、必要ありません。

あなたがたに、ただ足りないのは、愛することなのです。

愛があれば、おのずと神があなたをサポートし、あなたの人生は、

すばらしきものとなるでしょう。

愛あるものには、高次元の方々から、愛ある想念が、あなたのもとに

届けられます。

見えない世界から、あなたがたをサポートしている存在がいることを。

見えない意識の世界から、あなたがたを導いてくれる偉大なる方々が

いること。

そのような方々に、意識を向けなさい。

そのような方々に、波長を合わせなさい。

愛あるもののみ、波長が合うもののみ、全知全能である神のものが、

授けられます。

どうか、誰かと不調和を起こしながら、「おー、神よ、わたしは

あなたを愛してます。」というような偽物信者にならぬよう、

気をつけてもらいたいと思います。

皆さん方が、肉体の奴隷から、すべての創造主である主人である神に、

お仕えになるよう、努力してほしいと思います。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。





未分類 | 【2006-02-16(Thu) 19:46:07】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
表面意識と潜在意識
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の方々のご講話をまとめてみました。

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よく皆さん方が使われる言葉の中で、潜在意識という

言葉があります。

潜在意識を使って豊かになろうとか、成りたい自分になるとか、

夢を叶えようとか言いますが、

そのような使い方は正しいのでしょうか?

潜在意識は、物質的に豊かになるために使うものなのでしょうか?

わたしからすれば、みなさん、潜在意識のことを、何て人間の

概念、観念で誤った受け取り方をしているのかと

言いたいのです。

まず、潜在意識の前に、表面意識のことをご説明いたします。

表面意識とは、自我意識のことをいうのです。

これは、私は肉体だ、個人だ、人間だという意識のことです。

この表面意識のままでは、私たちは、力を出すことができません。

知恵を出すこともできません。

なぜなら、小さな我を自分として生きているからです。

私は、人間だという意識で、どうして力が出ましょうか?

無限なる意識につながらずして、知恵・力もありません。

潜在意識とは、神意識のことをいうのです。

潜在意識の開発をするということは、神意識の開発を

するということなのです。

わたしは、生命だ、霊だ、宇宙だ、という意識により、

全一体感、宇宙とつながることにより、

無限の力、無限の知恵が、あなたに備わるのです。

神のものは、わたしのもの。

神のものは、すべて、あなたに受け継がれるだろう。

あなたの思いは、即、成就されるのです。

それが、潜在意識、神意識です。

この世の物質、富、金、肉の快楽をむさぼるために、

潜在意識の開発をするというものではありません。

それは、潜在意識と思っているようですが、自我意識、

表面意識です。

どうでしょうか、みなさんがた。

個人意識は、表面意識ではないでしょうか?

神意識こそが、潜在意識ではないでしょうか?

その潜在している意識を、この世に顕現すること。

神を表現することこそが、私たちの肉体存在の目的

なのです。

神意識、このとき、皆さん方に、無限なる力、無限なる知恵、

無限なる愛が、与えられるのです。

わたしは、こうして、毎日、毎日、みなさんがたの前で、

話をさせてもらっていますが、私自身、この世に生を受けて

から、本の一冊も読んだこともない。

で、あるのに、みなさんの前に立たせてもらえれば、

神より、テーマが与えられ、1時間でも2時間でも、

こうして、皆さん方に、真理を愛を、無限なる知恵の

宝庫より、取り出し、話をすることができるでは、

ないでしょうか?

わたしが、講演をするときに、前もって、準備するとでも

思いますでしょうか?

前もって、準備するのは、個人意識だからです。

無限なる知恵につながっていないからです。

神意識で、無限なる知恵につながれば、いつでも、どこでも、

即座に答えがでます。

あふれんばかりに、わたしの口から、言葉が出てきます。

皆さん方もどうか、潜在意識とは、神の意識であると、

このことを徹底して、学んで欲しいと思います。

人間意識、肉体意識、個人意識、いと小さき、

いと弱きものがあなたがたではありません。

皆さんの本質は、無限です。

皆さんの本質は、完全です。

この世のものをおいかけるのをやめなさい。

この世のものは、幻であることを知りなさい。

お釈迦様は、この世は、無常と言われました。

無常とは、常に無きもの、永遠なるものではなく、

いつかは朽ち果てるものです。

その幻を欲しがり、豪邸がほしい、高級車がほしい、

海外旅行をしたい、高級な服、ダイヤがほしい、

と、潜在意識を開発するんだと、言っているものの

なんて多いこと。

今、この世は、光と闇に向かっているもの、

これがはっきりと分かれてきています。

光とは、霊的なもの。

闇とは、物的なものです。

みなさんがたは、光に向かう列車に乗るのか?

それとも闇に向かう列車に乗るのか?

今、もう一度、自分自身に、問い直して欲しい。

潜在意識、神意識の開発は、愛であること。

調和であること、それしかないのです。

愛であること、調和であること、これ以外で、

開発することはできないのです。

いくら何十万、何百万のセミナーを受けたり、

機械を買っても、開発できるものではないのです。

それは、自我意識、自分の欲望を満たして、

自己満足で終わるだけなのです。

みなさんには、潜在意識とは、神の意識であること。

これを徹底して、開発して頂きたいと思います。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




未分類 | 【2006-02-15(Wed) 12:59:47】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
神は完全意識
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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皆さん方に、わたしが言いたいことはたったひとつなんです。

それは、すべては神ですよ、すべては愛ですよ、

すべては霊ですよ、すべては生命ですよ、すべてはひとつですよ、

と言いたいのです。

神や愛や霊と言った言葉を使っていますが、すべて同じもの

なのです。

ただ皆さん方は、なかなかそれが分かってくれないものだから、

わたしは、色々な言い回しで、言い方を変えてみたり、

色々な方向から、話をしてみたりしているだけなんです。

すべては、ひとつですよ。と言いたいのです。これだけなんです。

ただ神の愛を、いくら説明しても、頭で分かるものではないんです。

愛は、頭で理解するものではない。

愛は、実践して、自分で感ずるしかない。

愛は、いくら説明されても話で分かるものではない。

愛は、直接感ずること、直感するしかないのです。

愛は、直接知ること、直知するしかないのです。

みなさんがたには、是非、それを食して欲しい。

味わって欲しい。いくら、砂糖が甘いと言っても、

それを食したことがなければ、どうして、その甘さが

分かるでしょうか?

甘さを頭で考えて、理解できましょうか?

砂糖の甘さは、食したものにしか分からないのです。

それと同じで、神の愛は、食したものにしか、

分からないのです。理解できないのです。

その理解は、自分の内から出てきたとき、本物となるのです。

まだまだ、皆さん方は、神を理解していません。

まだまだ、神の完全さを理解していません。

わたしが、神は完全だよと、言っても、まだまだ、

不完全も信じている。両方を信じることはできませんよ。

完全意識と、不完全意識、この違いは、何でしょうか?

完全、この言葉がまだまだ皆さん方には、

理解が難しいようです。

完全意識、皆さん方は、徹底的に、完全意識を学ぶ必要

があります。

こないだ、私は、瞑想を通じて、聖者の方から、完全意識に

ついて、徹底的に学ぶことがありました。

ある聖者が、わたしに、この泥ドロの田んぼを歩いて渡ってみよと

言われたのです。

わたしは、言われたとおりに、歩いて渡ったのです。

その後を、白い衣服をまとった聖者の方が、歩いてきます。

わたしは、渡り終わると、当然、服がドロドロになっています。

その後ろをついてきた聖者の方は、まったく、服が汚れず、

渡る前と同じ、真っ白のままでした。

これは、どういうことなのだろうと?とわたしが、意識の中で、

考えていると、聖者の方は、

「完全のみを意識しているわたしに、不完全があらわれ

ましょうか?」と。

「汚れるという不完全な意識がまったくないわたしに、

どうして、不完全が現れましょうか?」と。

「認めないものが、現れようがないではないのか?」と。

偉大なる意識に、完全意識に到達されている聖者の方々は、

「我意識するものが、現れる。」

ということを完全に理解されています。

わたしは、自分自身にまだまだ不完全意識があることを

痛感させられました。

皆さん方、この奥深い意味がお判りになるでしょうか?

この偉大なる真理が、理解できますでしょうか?

皆さん方の中に、まだまだ、病、死、老、闇、悩み、苦しみ、

不調和が、不完全が、意識の中にあるから、現れるのです。

汝意識するものが、現れる。

認めるものが、現れる。

信じるものが、現れる。

意識から徹底的に、不完全なものを排除していくべきでは、

ないでしょうか?不完全は、非実在なのですから。

キリスト教では、「わたしの罪をお許し下さい。」と

天なる父に、お祈りします。

そのようなものたちに、天なる父は、「あなたがたを、

わたしはまったく知らない。」と言うでしょう。

わたしは罪を造った覚えはないと、完全のみを造ったのだと。

それをあなたがたが勝手に罪を造っておいて、許してくれとは

どういうことかと?

天なる父は、完全のみをお造りになられました。

そして、あなたがたを自分の姿に似せて、お造りになられたのです。

神が完全であるがごとく、そなたたちも完全であれです。

人の病をヒーリングで癒すときには、その人の完全のみを

意識するのです。「神よ、この人の病を癒したまえ。」

では、神は祈りを聞かないでしょう。

病という不調和を、不完全を認めていて、どうして、

不完全が消えましょうかと。完全のみを想うことです。

イエス様は、完全のみを見ておられましたから、祈りが

即成就したのです。

イエス様の癒しは、完全のみを意識されておりますので、

即座に不調和が消え、癒されたのです。

闇は光によって、消えるのです。

皆さん方も神にお祈りするときは、完全なる意識で、

祈りなさい。

今の世の中には、ヒーラー養成だとか、いろいろなヒーラーが

いるようですが、どれだけ、完全意識で、ヒーリングしているのか

と。

完全意識でいるもののみが、本物のヒーラーであることを

ご理解頂きたい。

皆さん方も、意識するものが現れる、このことを徹底的に

理解して頂きたいと想います。

神は、完全意識です。

完全意識に到達したとき、神意識なのです。


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感謝




未分類 | 【2006-02-14(Tue) 12:39:51】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
昇天・成仏とは?
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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我々人類は、未だに、人が死ぬと、成仏しますようにと、

天に帰りますようにと、お坊さんがお経を唱え、戒名したりと、

子供のお遊びのようなことをしているのです。

意味も分からないお経をみんなで唱えて、肉体を去った魂も、

そのようなお経の意味も分からないでしょう。

意味の分からないお経を唱えて、何の意味があると

いうのでしょうか?

また、名前を変えて、成仏するのなら、みんなこの世に

いるときに、名前を変えて、成仏することになるでしょう。

しかし、生きながらにして、生きているときに、成仏せずして、

昇天せずして、どうして、死んでから、成仏・昇天できましょうかと?

お坊さんも、真理を悟っているのなら、お布施やお経を唱えて、

人様からお金をもらうようなことをしないでしょう。

イエス様は、このことを次のように強烈に言い放ちました。

「死人は死人に葬らせよ。」と

死人とは、真の自分に目覚めることなく、この肉体を

我として生きている人のことを、死人と言ったのです。

死人は死人に葬らせよと。

みなさんがたも真の自分に目覚めることなく、この肉体を去れば、

成仏・昇天に至らず、また迷いの世界へと、舞い戻るでしょう。

成仏とは、仏に成ること。

昇天とは、天に昇ること。

それは今の今、我無限なり、我神なり、我仏なり、我宇宙に遍満する

宇宙生命なりと、思うこと。

それは今の今、皆さん方、可能なんですよ。

今の今、成仏、昇天することが、可能ですよと、私は言いたいのです。

実は、皆さん方には見えませんが、この私の話を聞きに、

幽体を持った方々、肉体を去り、天に帰ることができなかった方々が、

幽体をまとい、ここに集まってきています。

この話をいかに、肉体をまとっているときに、肉体を去る前に、

聞きたかったかと、涙を流しながら、私の話を聞きに

集まってきています。

肉体を着て、生きているときに、この話が聞ければと、

私の肉体の父親もここに集まってきていますが、

もう顔を上げることもできません。

彼らは、また幽体に寿命が来れば、この世に生を受けることに

なるのです。

また、この厳しい地上界で、一からやり直すことになるのです。

この地上界がいかに厳しいものなのか、皆さんもご存じだと思います。

こういった話をするのは、わたしは本当にいやなのですが、

わたしは、この世に、道を示すために、やってまいりました。

天上界から、この地上界へと、私が、先生役をしてきますと、

かって出て、参ったものなのです。

そうでありながら、私自身、40年間も、この見える肉体、物質、

個人に惑わされ、使命を忘れ、自我で生きてきてしまいました。

いかに、この見える世界を打ち破ることが難しいか?

もうすでに、以前に、その体験をしているものでも、

再び、この地上界で、やり直すことは、本当に厳しいものなのです。

私自身も体験をしておりますので、よく分かっています。

今、神への道が示されているときに、皆さん方には、真剣に

学び歩んで欲しい。

今、天なる父へのもとへ帰る道が、案内人によって、示されている

ときに。

今、迷う羊たちを、正しい方向へと導く羊飼いがいるときに。

難しいことは、よく分かっています。

やるのかやらないのかは、みなさんの選択です。

神は、その自由意志を犯すことはできないからです。

個人なのか、生命なのか?

肉体なのか、霊なのか?

物質なのか、エネルギーなのか?

皆さん方は、徹底して、自分に自問自答してほしい。

よく、わたしのもとへ来て、質問をする人がいますが、

わたしは、一切、質問を受け付けません。

わたしが言ったことを、うのみにして、答えにして

ほしくないからです。

答えは、どこにありますか?

答えは、人から聞いた答えが、本当の答えですか?

人に言われたことを、自分のものにするのですか?

答えは、汝の内にあり。

真理は、汝の内にあり。

神の国は、汝の内にありです。

皆さん方は、神への思いを、四六時中、神を想うことです。

認めるものは、現れます。今すぐにです。

神を認めるものには、神が現れます。

霊を認めるものは、霊が現れます。

愛を認めるものには、愛が現れます。

1日1時間の瞑想をするだけではなく、

皆さん方は、四六時中、神への思いを貫き通して欲しいと

思います。

四六時中、神への思いです。

それが成就したとき、皆さん方は、聖者、大師となるのです。

そして、兄弟姉妹に手を差し伸べる偉大なる魂となるのです。




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感謝




未分類 | 【2006-02-13(Mon) 12:51:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
悟空とは?
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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皆さん方、空とは、一体全体なんでしょうか?

空とは、見えるものでしょうか?見えないものでしょうか?

空とは、見えないものです。

しかし、この見えない空がなくして、

万物の存在はありえましょうか?

皆さんがたから、この見えない空がなくなったとしたら、

その瞬間に死人、死体となるでしょう。

この肉体は、空なくして、見えないものなくして、

存在は不可能だということが分かるでしょう。

このことをお釈迦様は、色即是空、空即是色と

言われたのです。

色と空は、一体である。見えるものと見えないものとは、

一体であると、言ったわけです。

この肉体から、命がなくなれば、肉体が語りましょうか?

肉体自らが話しましょうか?死人に口なしです。

そのいつかは朽ち果てる肉体が自分なのか?

それとも永遠不滅の命が、空が、自分なのか?

皆さん方は徹底的に追及せねばなりません。

たとえでいうならば、ここに氷があります。

この氷は、皆さん方には見えますね。

この氷は固体ですが、バイブレーションをあげますと、

水という液体になるわけです。

それをまたバイブレーションをあげますと、水蒸気という

気体になるわけです。

氷、水、水蒸気と変化しますが、そこに何の違いがありますか?

氷は、水蒸気、すなわち見えないものの現れではないでしょうか?

すべての固体、物質は、見えないものなくして、

存在は不可能ではないでしょうか?

あなたがたも、この肉体が固体ですが、この肉体は、

空、すなわち見えないものの現れではないでしょうか?

まさか、氷と私たちとは、違うというのでしょうか?

この世の鉱物、動物、植物、人間、すべてのすべてが、

見えないものの現れではないでしょうか?

だから、神はすべてのすべて、あってあるもの。

神がすべてを造り、神がすべてに宿りたもうなのです。

今の今も墓場に向かっているこの肉体を、我として生きるのか?

それとも永遠不滅の空、命を、我として生きるのか?

皆さん方は、選択していかねばなりません。

瞑想、内観、臆念を通じて、永遠不滅の空こそが、我であったと、

永遠不滅の生命が、我であったと、あなたがたが悟ったとき、

悟空となるのです。悟空です。

孫悟空が、どこまで行っても、三蔵法師の手の中にいたというのは、

あながたがは、いつどこでも、神の中にいるという

象徴ではないでしょうか?

いつでも神の大愛のなかにいるわけです。おるわけです。

ただ、それに気づかないあなた方。

神の中におりながら、無知・迷い・盲の人生を歩むあなたがた。

そろそろ目を覚まして欲しい。

皆さん自身のこの幾転生の旅はなんのために、

無知・迷い・盲の自分から、無力の自分から、真実なる我を神として、

自らを悟り行くまで、続きいくことをしってもらいたい。

しかし、すべて一切を克服したときに、本当に本質である我は真理なり、

真なり、あるいは様々な表現で神、命、空という表現をしましょう。

我は真理なり、と生きるまでは、真理に目覚める生きるまでは、

完成されたものは一人もいません。

どんなに地位・名誉・富・金に満たされても、

この世を優雅に終えたところで、自らが真理であることを見失って、

無知の人生、盲の人生、迷った人生として終えていっただけ。

みなさんがた、あの世に行って、私はこの世では、大統領を

してました、または総理大臣をしてました、または世界一の

大富豪でしたと、威張れるものは一人もいないんだと。

天なる父は、そのようなものに対して、それであなたがたは、

真なる我として生きたのか?すべてのすべてを愛したのか?

と問うでしょう。

それができていなければ、またこの世へ舞い戻ることでしょう。

それは、課した宿題をやり残したからにすぎないんだと。

この世で大きいものは、あの世では一番低いものである。

皆さん方は、わたしの話を聞いて、それを自らが実感せねば

なりません。

どんなに話を聞いて、または本や書物を読んで、素晴らしかったと、

言ったところで、それは絵に描いたぼた餅信仰ではないでしょうか?

その絵に描いたぼた餅は、みなさんがたのお腹をいっぱいにする

ことはありませんと。

ぜひ、皆さん方は、それを味わって欲しい。

実感して欲しい。瞑想を通して、体験してほしい。

そのとき、皆さん方は、我神なり、我空なり、我命なりが、

自分のものとなり、悟空そのものとなるのです。

多くの悟空が、誕生されんことをお祈りして、この話を

終わりにしたいと思います。



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感謝




未分類 | 【2006-02-12(Sun) 07:17:48】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
神は完全
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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決して、これは皆さん方に、自慢するわけではありませんが、

私の家族の中から、未だかつて、病院に通ったものが

いませんと。

愛と調和で満ちている家族の中から、病気のものが

現れましょうか?

愛と調和で満ちている家族の中から、事故・災難が

現れましょうか?

皆さん方に、まだまだ、病・事故・災難が

現れるのは、まだまだ不完全なものの見方をしているからです。

神は完全です。

神は完全者であられ、その中には、病・事故・災難が

ございません。

あなたがたは、まだまだ、その思いの中で、

病気を受け入れたり、事故を受け入れたり、

災難を受け入れたりしているのです。

それを不完全というのです。

たとえば、小さなお子さんがいる家庭では、

お父さん、お母さんは、我が子が可愛くて、

寒い冬に外に出れば、風邪を引きややしないか

と心配するのです。

風邪というものを思いの中で、受け入れている

わけです。

そうして、子供が風邪を引けば、やっぱり、

私の思ったとおりになってしまったと

いうわけです。

自分で子供に風邪という思いを与えておいて、

何ということをしているのでしょうか?

汝、殺すなかれという言葉があります。

これは、決して、人を殺すなということだけを

言っているわけではありません。

このように、子供に思いで風邪をという波動を

出していれば、それは、子供を思いで殺している

ことになるのです。

思いを完全にするべきです。

言葉を完全にするべきです。

行動を完全にするべきです。

汝、殺すなかれ、この言葉をしっかり、

自分の胸に刻み込みなさい。

また、他の例でいえば、この冬になりますと、

みなさんがたは、インフルエンザの予防接種を

子供にするわけです。

そのとき、あなた方は、インフルエンザという

ウイルスを受け入れています。

あなたの思いの中に入り込んでいるのです。

神は完全です。

インフルエンザというウイルスを受け入れません。

聖者が、インフルエンザの予防接種を受けましょうか?

神に、インフルエンザの予防接種が必要でしょうか?

あなた方は、そのようなウイルスに冒されるような

存在でしょうか?

あなた方は、そのようなものの見方をしているうちは、

到底、完全意識、普遍意識に融合することは

できないでしょう。

二兎を追う者は一兔をも得ず。

完全のみを思いなさい。

神のみを思いなさい。

愛のみを思いなさい。

信じるものは、救われるでしょう。

あなたがたの信仰心が問われているのです。

完全なる意識の中には、事故・災難が入り込む

余地がありません。

私は、ずいぶん前に、このような体験をさせて

いただきました。

それは、昼と夜の講話をさせていただき、

そのあと、皆さん方と話をしているうちに、

愛のバイブレーションにより、意識が高まり、

この肉体を感じられないくらいに、バイブレーションが

高まったときでした。

ホテルでシャワーを浴びようとすると、私の肉体から

熱いバイブレーションにより、いくらシャワーを

浴びようとしても、シャワーの水が私の肉体に

かからないわけです。

この2~3日前に、オウム真理教による地下鉄サリン

事件があったばかりでした。

わたしは、シャワーの水がかからない体験により、

完全なる愛の調和の中に融合しているものなら、

どうして、サリンが毒ガスが、わたしに降りかかる

ことができましょうか?と

神は完全という意識の中に融合しているのなら、

絶対に事故・災難が襲いかかることはありませんと。


あなたがたは、完全のみを見るべきです。

事実、あなたがたは、完全のみが実在で、その中に

いるわけです。おるわけです。

不完全は非実在です。

完全のみが実在です。

この人は、ここが悪い性格だなと見ているときは、

不完全を見ています。

この人は、ここが悪いから病気になるんだな~と

見ているときは、不完全を見ています。

神は、完全です。

神は、完全のみをお造りになられました。

あなたがた人間が、不完全を造っているのです。

完全のみを思いなさい。

完全のみの世界に融合しなさい。

完全のみの意識に融合しなさい。

そのとき、あなたは、今即完全です。

今即天です。今即無限です。今即神です。

神が完全者であられることを理解しなさい。




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感謝




未分類 | 【2006-02-11(Sat) 12:03:43】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
原因と結果の法則
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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みなさん、特に女性の方に多いのですが、

占いを見て、あー今日は、運がいいわとか、

あー今月は、運が悪いだとか、言っていますが、

皆さん方は、占いに左右される存在なのでしょうか?

または、今年は厄年だとか、今年から何年も大殺界だとか、

そのようなものに、皆さん方は、支配される存在なの

でしょうか?

みなさんがたの今の状態、またこれからおこる状態は、

みなさんがたが、放った思い、放った言葉、放った行動の

結果を刈り取るだけなのです。

今、不調和、苦しみ、悩み、病があなたに

降りかかっているのなら、

それは、過去にあなたが放った不調和が、あなたに戻って

きているだけではないでしょうか?

病が勝手にあなたを襲いましょうか?

悩み・苦しみがあなたに偶然襲いかかりましょうか?

不調和の状態は、他人の責任でしょうか?

あの人は、本当にいい人なのに、こんな病にかかるなんて、

という人が言いますが、本当にその人は、調和がとれた人

なのでしょうか?

愛で、調和が取れた人なら、病が襲うはずがないでは

ないでしょうか?

あなたが放つ思い、言葉、行動が、愛で満たされているなら、

悩み・苦しみがあなたに跳ね返ってくるわけがないでは

ないでしょうか?

あなたの思いは、すべてあなたに帰ってきます。

あなたの言葉は、すべてあなたに戻ってきます。

あなたの行動は、すべてあなたに向けられます。

あなたの今の結果は、あなたに原因があるのであって、

他人にあるわけでないのです。

そうであるのなら、1日1日、愛で心をハートを

満たすべきではないでしょうか?

完全なる調和の世界で過ごすべきではないでしょうか?

それができたとき、あなたがたは、病知らずと

なります。

それができたとき、悩み・苦しみは幻だったと、

完全なる調和のみが実在であったと、

神のみが実在であったと、悟るでしょう。

神は、自ら助けるものを助くです。

他人によって、あなたがたの状態が変わるわけではないのです。

あなたがた、幸せになるには、自分自身でやるのですよ。

他力本願で幸せになった人はいませんよ。

完全なる自力です。

良い結果をうみたいのなら、良い原因をつくるべきでは

ないでしょうか?

良いものを収穫したいのなら、良い種を蒔くべきではないでしょうか?

みなさんがたは、完全なる宇宙の法則、原因と結果の法則の中に

いるのです。

占いごときに支配される存在ではありません。

人間の概念や観念でつくられたものに支配される存在ではありません。

あなたはすべてを造ってすべてに宿っている無限なる存在では

ありませんか?

この世は、死人がごろごろしている墓場のようなものであると

イエス様は言われました。

愛にて生きていない、不調和だらけ、私は、個人です、

肉体です、人間ですと言って生きているもののことを、

死人というのです。

この世は、死人だらけではないでしょうか?

その逆に健康なるものは、我愛なり、我神なり、我生命なり、

我無限に遍満する宇宙生命なりと生きているもののみが、

健康なのです。

なんて、健康に生きているものの少ないことか?

皆さん方は、心も体も、健康に生きるべきです。

それには、愛と調和が、ただ必要なだけなのです。

今日も一日、誰とも不調和を起こさなかったか、

誰かに思いで、傷つけなかったか、誰かに言葉で、

悪口を言うことがなかったか、あなたがたは、

毎日、毎日、神が与えてくれた夜に、内省、内観

すべきではないでしょうか?

あなたがたが天なる父、神に会えないのは、

あなたがたに原因があるのであって、

神に原因があるのではないのです。

この世の見えるものに惑わされないように、

気をつけなさい。

この世の見えるものは、すべて幻です。

その幻を追いかける人のなんて多いこと。

わたしは、今生、ヒーリングという癒しで、

盲であったものを3名、治した体験があります。

目が見えないときには、真理に夢中で、熱心に

講話を聞きに来ていたのに、この目が見えた途端に、

この世の見えるものに、惑わされ、金儲けに走り、

わたしのところには、戻ってこなくなりました。

目が見えないときは、心の目で真実なるものを

見ていたのに、目が見える途端に幻を見て、

本物と思いこみ、偽物をかき集めるのに、必死。

みなさんは、そのような愚かなるものに

なってはいけません。

原因は天、結果は地であることを、内観、内省を

通じて、今一度、自分の心に落とし込んで欲しい。

神の国は、汝の内にあり、

これは、瞑想を通じてしか、得ることはできない

ということをご理解頂きたいと思います。


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感謝



未分類 | 【2006-02-10(Fri) 12:57:17】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真のメダルを
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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みなさん、この世の中では、もうすぐ、オリンピックが

始まりますといって、テレビでも何でも、オリンピック

一色に染まってきています。

選手たちは、すべての選手たちは、その頂点に立とうと、

金メダルを取ろうと、必死になって頑張っています。

あなたがたも、その姿に感動し、釘付けに

なったりしますが、あなたがたが一生懸命になるものは、

この世の金メダルであってはなりません。

その証拠として、金メダルを取った人のその後を

見れば、歴然です。

わたしは金メダルを取りました。

ですから、一生、幸せですという人は、絶対皆無です。

真の金メダルとは、あなたがたのハートが、心が、

幾転生の間にこびついた汚れが、錆が、きれいに

磨き磨かれ、落とされたとき、あなたがたのハートが、

心が、黄金の輝きを放つのではないでしょうか?

物質の金メダルをもらって喜ぶのではなく、

真のまぶしいばかりの黄金色のメダルが

あなたがたのハートに、心にあるのではないでしょうか?

今までさんざん、悪習、悪癖がついていたのですから、

少しずつ、少しずつ、磨きに磨いて、心を純真に

していかなければなりません。

それには、ほんのわずかな時間では、無理です。

あなたがたは、忍耐、辛抱を学ばなければ

いけません。

本当に少しずつ少しずつ、これでもかと歯を

食いしばり、拳を握りしめ、磨いて磨き上げなければ

いけません。

今、世の中は、天災だ、天変地異だ、異常気象だと

いって、地震や洪水などがおこっています。

しかし、天災ということがありえるのでしょうか?

天が災いを起こすとでもいうのでしょうか?

また、天が異常をきたすとでもいうのでしょうか?

すべては、あなたがたの不調和が、愛の不足が、

この事態を引き起こしているのではないでしょうか?

すべて、天災ではなく、人災ではないでしょうか?

あたたがたの心が、災いではないでしょうか?

あなたがたの心が、異常ではないでしょうか?

この状態を立て直すには、あなたがたのハートを

心を、黄金色で輝くまで、磨き上げること、

これ以外にはないのです。

あなたがたは、よっぽど、身・口・意に気をつけて

ほしい。

だから、イエス様も、

あなたがたの口に入っていくものは、

あなたがたを汚さないであろうから。

しかし、あなたがたの口から出てくるものは、

あなたがたを汚すものであると言われたのです。

この世に天災は存在しません。

そうであるならば、万物の霊長であるあなた方人類が、

この状態を救わねばいけません。

すべてのすべてをいたわり、思いやる心を

養っていこうではありませんか?

万物の霊長である我々人類に与えられた特権が、

瞑想を通して、我神なり、我愛なりということを

実感できることなのです。

鉱物、植物、動物には、そのような特権は

与えられていません。

その万物の霊長であるあなた方が、植物や動物の

叫びを聞けず、このような世の中にしてしまった

のではないでしょうか?

今、立ち上がりなさい。

今、愛を示しなさい。

今、無限なる神へと融合しなさい。

あなたがたが発信するものは、すべて神・愛の

意識としなさい。

そうすれば、受信するものは、すべて神・愛と

なるでしょう。

神・愛の種をまきなさい。

しっかりしたところへ蒔いて、神・愛を刈り取る

皆さん方になってほしいと思います。


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感謝


未分類 | 【2006-02-09(Thu) 12:51:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ふるさととは?
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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日本の童謡には、故郷(ふるさと)という童謡があります。

子供から大人まで、誰もが知っているこの歌、

誰もが何度も歌っているこの歌、

歌ってはいるが、この歌の歌詞の本当の意味に、

気づいている人の何て少ないことか?

「いかにいますちちはは」

「こころざしをはたしていつのひにかかえらん」

みなさんの父母(ちちはは)は、どこにいますか?

この肉体を産んでくれた父母が、本当の父母ですか?

志をはたし、還るふるさとは、あなたの肉体が生まれ育った、

どこかの場所ですか?

みなさんの父母(ちちはは)は、ただひとつ。

創り主である、創造主である神のみです。

神がすべてを創りたもうです。

みなさんの父母は、違う父母ではありません。

みんな同じ親、神そのものではないでしょうか?

親が神であるならば、その子供もすべて神ではないでしょうか?

神がすべてを創って、神がすべてに宿っているのです。

あなたがたが還るふるさとは、どこでしょうか?

あなたがたが還るふるさとは、天なる父が首を長くして

待っている場所。

生命の住処、神の天国ではないでしょうか?

天なる父が、放浪息子、娘であるあなたがたを、いつか

還って来るであろうと、首を長くして長くして、

あなたの還りを待っているのです。

どこかを彷徨い、迷い、還ってこないあなたがたを

天なる場所で、優しく見守ってくれている天なる父の

存在を忘れてはいけません。

ふるさとに還る道を示すために、天なる父は、あらゆる手を

使い、あなたがたに還ってくるよう呼びかけています。

試練・苦しみ・悩み・病などをあなたに与え、違う道を

歩もうとしているあなたがたを正しい道へと、導いてくれる

天なる父。

偉大なる意識である魂をこの地上へと送り、あなたがたに、

道を、真理を示してくれているのです。

我は道なり、我は真理なりと。

今、還る道が示されているとき、あなたがたは、力強く

歩まねばなりません。

道を示す人が現れた。神への道を示す人が現れた。

それこそ、神の伝道です。

道を伝えているのです。神への道です。

真理への道です。

歩むのは、みなさんがたです。

神の国は、汝の内にあり。

真理は、汝の内にあり。

幸せの青い鳥を探して探して、全国、全世界に旅したけども、

どこに行っても見つからず。

結局、家に戻ってきて、なんだ、幸せの青い鳥は、

どこかにいるものではなく、我が内にあったと。

わたしのふるさとは、我が内にあったと。

天国は遙か彼方にあるのではなく、手よりも足よりも近い

我が内にあったと。

もう何年も前にインドに神の化身が現れたといって、

サイババさんのところへ全世界から、1日に何万という人が、

神の化身を見に、また物質化現象による宝石を欲しがり、

人が集まりました。

神の化身は、サイババさんだけなのでしょうか?

神の化身は、あなたの家にも、職場にも、会う人すべてが

神の化身ではないでしょうか?

いつでも神の化身を見ているのに、わざわざ、インドまで、

高い旅費を払って、神の化身を見に行く人のなんて多いこと。

だから、サイババさんは、

「わたしに会いに、毎日何万人の人が訪れるが、物質化現象した

ビフーティーや指輪を見て喜ぶ人はいるが、

本当のわたしを見に来た人はいまだかつて、

一人もいない。」と

みなさんがた一人一人が神の化身です。

毎日、あなたが目にしているすべての人々が、神の化身です。

その神の化身に、あなたがたは、悪口を言ったり、避難・批判を

したりするのですか?

すべてに神を見なさい。

あなたの中に、天なるふるさとを見いだしなさい。

天なる父が、あなたの帰りを待っている、

早く還ってきて欲しいと、待っているのです。

その声を、五感を静め、聞きなさい。

その声を聞けるあなたがたになりなさい。

その声を聞けるよう努力しなさい。

その声を聞けるよう意識を高めなさい。

波長を合わせなさい。波長を合わせたものにのみ、

その声を届けるだろう。

天なる父がいるふるさとへ、

皆さん方は、道を外すのではなく、しっかり、前を向いて、

歩んで欲しいと思います。


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感謝




未分類 | 【2006-02-09(Thu) 00:47:42】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
魂の光輝
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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みなさん、イルミネーションとは何でしょうか?

あのきれいな光そのものが、イルミネーションなのですが、

みなさんがたは、光をどのように捉えているでしょうか?

皆さん方は、夜になれば、夜景の綺麗なところへと、

出かけていき、あー、本当に綺麗だねと感動する。

そのような外の世界の光を見て綺麗だねと言っている

のではなく、皆さん方のオーラの光はいつ光を

灯すのでしょうか?

皆さん方が、個人でもない、肉体でもない、物質でもない、

我、宇宙に遍満する大霊なり、生命なり、愛なりと

悟られたとき、皆さん方のオーラは、まぶしいばかりに

光輝くものとなるのではないでしょうか?

それを真の魂の光輝、イルミネーションというのです。

電灯が光っているのを見て、喜ぶのではなく、

自分自身の灯台に光りを、灯そうではありませんか?

悟った人から見れば、皆さん方のオーラの光は一目瞭然です。

そこには、隠し事はありません。

私は悟っていますと言ったところで、そのオーラはどれだけ

光っているのか?

そのオーラを光りを見れば、皆さんの意識状態は、自我で

生きているのか、真我で生きているのかは、

私にとっては、お見通しです。

みなさんが、我光なりと光を意識することにより、

四六時中、光を神を意識することによってしか、

皆さん方は、光の存在にはなれません。

今の地球に住む人類の意識の低さよ、

地球上に住む人類がどれだけの光を放っているのか?

本当に今は、暗い地球になっているのではないでしょうか?

皆さん方は、それでは、どのようにしたらよいのか?

それは、今、あなた方が、何に夢中に、何に忙しいのか?

自分自身、徹底的に、厳しく追及しなければいけません。

子供たちは、ゲームに遊びに忙しく、

10代、20代の若者は、恋愛に一喜一憂し、忙しく、

30代の青年は、金儲けに、そして心配事に忙しく、

40代以降の大人は、健康面の心配事に忙しくと、

どの年代も、神に、夢中に、神に忙しい人がいないのでは、

ないでしょうか?

どこに、神に夢中に、神に忙しい人がいるというのでしょうか?

みなさんが、目を閉じて、自分の本質を見つめる時間として、

与えられた夜に、神が与えてくれた夜に、

テレビのドラマや映画に夢中、おいしい食べ物や飲み物に夢中、

歓楽街での遊びに夢中と、

そのようなものたちが、真の我に目覚めることが可能だと

思いますか?

わたしは、もう何十年も、そのようなことに時間を費やすことなく、

この世の贈り主である神よ、

神よ、あなた以外のなにものも、わたしは欲しくありません。

どうか、あなたの、神の姿を、神とはなんぞやと、私に

教えて欲しいと。

周りの人からは、気違い扱いされようとも、罵られようとも、

悪口を言われても、神にとことん夢中になり、神に忙しく過ごして

来た結果として、贈り主である神は、わたしに最高のプレゼントを

くれました。

それは、この世の恋愛関係などから得られる幸福感などとは、

比較にならない、最高の至福、最高の境地を体験させていただきました。

我は神なり、我は宇宙なり、我は生命なりと。

私と神とは一体一命であると。

皆さん方もいつかは朽ち果てるこの世の快楽、富に惑わされるのでは

なく、永遠なる神の宝を求めたらどうでしょうか?

わたしがこれだけ、神に夢中に、神に忙しくした結果として、

神が贈ってくれた最高のプレゼント。

それは、私だけに与えられるプレゼントなのでしょうか?

皆さん方も、私のように、最高のプレゼントを受け取ることが

できるのではないでしょうか?

ぜひとも、この最高のプレゼントを受け取るあなた方に

なってほしい。

今、皆さん方は、自分自身が何に忙しいのか、何に一番時間を

取っているのか、もう一度、自分自身を見つめ直し、

考えて欲しい。

神は、求めるものをあなたに与えるだろう。

求め方が足りなければ、与えようがないのではありませんか?

神は、与えたくて与えたくてうずうずしているのに、

それに気づかないあなたがた。

宝の真珠を浅瀬で見つけた人は、いません。

宝の真珠を大海の深く深くにもぐって探す必要があるのでは、

ありませんか?

神に夢中に、神に忙しく、神、神、神への一心集中で、

魂のイルミネーションを灯して欲しい。

それができる皆さん方です。

ここに集まった魂は、生まれてくる前に、今生こそは、

使命を果たしますと、神と約束したことを思い出して欲しい。

今生こそは、神に喜ばれる存在として、精一杯、愛の表現を

してきますと、真の自分に目覚めますと、神を表現しますと、

天なる父と固い約束をして、固い誓いをして、

地上に降りてきたことを、どうか皆さん方思い出して欲しい。

偉大なる魂である皆さん方が、手を取り合い、兄弟姉妹の

お手本となれるよう、努力して欲しいと思います。

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感謝




未分類 | 【2006-02-08(Wed) 12:53:53】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
八正道とは?
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

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お釈迦様が説いた八正道とは、どのような意味なのでしょうか?

「正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定」

とあります。

今の仏教徒は、八正道を正しく理解していると、

いえるのでしょうか?

また、今のキリスト教徒は、イエス様の教えを

正しく理解していると言えるのでしょうか?

お寺のお坊さんも教会の牧師さんも、真理を悟られて、

教えを説いている方は、一人もいません。

悟った人は、宗教を造りません。

悟った人は、宗教に属しません。

すべてが神であるのであれば、宗教を造る必要が

ないからです。

今の宗教は、わたしたちの兄弟姉妹の足かせと

なっているだけではないでしょうか?

盲信・狂信・偶像崇拝しているだけではないでしょうか?

正見とは、正しく見ること。

正しく見るとは、すべてが生命であると、見ることです。

正思とは、正しく思うこと。

正しく思うとは、すべてが神であると、思うことです。

正語とは、正しく語ること。

正しく語るとは、生命より語ることなのです。

汝、嘘つくなかれ。

わたしは、うそはつきませんよと皆さん方は、

いうかもしれませんが、この世のほとんどの人が、

嘘つきです。

自分が個人・肉体・人間と思っているのなら、

嘘つきです。

嘘をついています。

毎日、皆さん方は、嘘をついて、生きているのです。

生命である事実は否定できないのに、

わたしは、個人です、肉体です、人間です。

とほとんどの人が言っているのです。

それは、正しく見ているのでしょうか?

それは、正しく思っているのでしょうか?

それは、正しい行動なのでしょうか?

自我の行為は、無に等しいのです。

自我で皆さん方が、何をやっても価値あるものでは、

ありません。

いくら、ボランティアをしようとも、平和運動を

しようとも、全く価値あるものではありません。

お釈迦様は、このことを強烈に次の言葉で

表現しました。

「3000名に飯を盛るよりも、5分間、霊性、神性

でいなさい。」と。

5分間でも、我神なり、我霊なり、我愛なりと思うだけで、

皆さん方は、地球に貢献していることになるのです。

光を、愛の波動を、地球全体に放つことになるのです。

自我の行為では、地球に貢献することはできないのです。

光を放ちなさい。

それは、正しく見ること、正しく思うこと、正しく行動することに

よってできることなのです。

みなさんがたは、いくら、お経を唱えても、真我に目覚めることは

ありません。

お経を唱えて、成仏、昇天した人は、いまだかつていないことを

理解する必要があります。

戒名して、成仏したとか、なんていう誤った、間違ったことを

われわれはしているのでしょうか?

皆さん方一人一人が、そのような愚かな考えを捨て、

本来の自分に目覚め、愛ある地球にしようではありませんか?

この素晴らしい地球を、この素晴らしい学びの場を

この素晴らしい愛の具現の場を失ってはいけません。

今、地球は非常にバランスを調和をくずしています。

このくずれた状態を救うには、皆さん方一人一人が

正しく見ることによって、正しく思うことによって、

光を、愛を、放つことによってしかできないのでは、

ないでしょうか?

神の具現の場、愛を表現する場所、この素晴らしい、

美しい地球を失うのではなく、立て直し、

愛ある聖なる光の星にしていくために、

立ち上がろうではありませんか?

目覚めようではありませんか?

愛ある光を放つ地球にしていくためにも、

皆さん方一人一人が、嘘をつくのではなく、

お釈迦様の八正道を正しく理解し、愛の実践を

していただきたい。

みなさんに望むことは、ただひとつ、

愛することなのです。

あれがこうだ、これはこうだとか、今一人一人の悩み事を

言っているとき、聞いているときではないのです。

ただ、愛することだけなのです。

ただ、調和することだけなのです。

皆さん方に必要なのは、愛、愛、愛、愛だけだということを

ご理解して頂き、この話を終わりにさせて頂きます。

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感謝

未分類 | 【2006-02-07(Tue) 18:31:49】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
キリスト誕生
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめました。

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皆さん方は、この肉体が生まれた、お母さんのお腹から、

出てきた、地上に誕生した日、誕生日のお祝いを

します。

この仮相である肉体の誕生日を祝うことは、

忘れずにするのに、真の誕生日、真の自分は、

生命であり、霊であり、神であったということを

悟ったときこそ、真の誕生日であるのに、

真の誕生日のお祝いは、いつするというのでしょうか?

また、毎年、12月になれば、25日がイエス・キリストの

誕生日といって、世界中でお祭り騒ぎ。

イエス様の誕生日をお祝いするのに、皆様方の真の誕生日の

お祝いはしないのでしょうか?

皆さん方が、真の自分に目覚め、わたしは肉体でもない、

人間でもない、個人でもない、物質でもない、

我、宇宙に偏満する大霊なりという意識に到達したときこそ、

キリスト真我、キリストの誕生ではないでしょうか?

仏陀の誕生ではないでしょうか?

皆さん方一人一人が、キリストであり、仏陀なのです。

イエス様だけがキリストではありません。

お釈迦様だけが仏陀ではありません。

皆さん方のキリスト誕生を祝おうではありませんか?

この肉体が生まれた日ではなく、真の我に目覚めた日こそが、

真の誕生日、キリストの誕生日なのです。

キリスト誕生、皆様方が、イエス様や聖者の方々の姿、声が

見えない、聞こえないのは、愛の意識、神の意識、波長が

合わないという、ただひとつの理由です。

わたしは、何十年も、今日一日、私の放つ言葉で、

誰かを傷つけはしなかったか、また、私の思いで、

誰彼を批判・避難することはなかったか、

また、私の行動によって、誰彼に嫌な思いをさせなかったか、

一日一日、徹底的に言葉・思い・行動を管理します。

コントロールします。

愛にて生きよ、幸せに生きるには、愛にて生きる以外に

ないのです。

愛にて生きること、誰とも不調和を起こさないことによってのみ、

皆さん方は、平安の心をつくることができるのです。

わたしは、誰彼に避難・批判されようが、

悪口を言われようが、罵られようが、

わたしの心は、平安そのものです。

誰彼によって、わたしは不幸せです、誰彼がこのようなことを

するから、わたしは悩んでいます。

というようなことは絶対ありません。

まず、皆さん方は、自分自身の心を磨き上げる必要が

あるのではないでしょうか?

この世のダイヤ、宝石は、磨くけども、磨いても磨いても、

必ずや限界が生じましょう。

ただ、本物のダイヤ、宝石である、皆さん方の心・ハートは、

磨いて磨いて、限界がありましょうか?

磨けば磨くほど、綺麗になり、無限に広がるダイヤでは

ないでしょうか?

わたしは、小学生の子供であろうとも、おまえのここが悪い

と言われれば、その子供に感謝をし、徹底的に、わたしの

悪い心を直す努力をいたします。

その子供によく言ってくれた、それにより、わたしは、

また心をハートを磨くことが出来る、このうえない

喜びを感じます。

そうして、毎日、毎日、無限なる我にとどまるよう

努力しているのです。

よく、あの人は口は悪いけど、人はいいんだよね。

というような話を聞きますが、口が悪い人が心がきれいな

わけはありません。

心が綺麗なら、言葉も綺麗でしょう。

そのように、言葉は言いたい放題、思いも思い放題、

行動もやりたい放題と、みなさん、自分自身、好き放題

やっていてはいけません。

まず、思いで誰かを批判していないか、言葉で傷つけていないか、

行動で誰かを苦しめていないか、徹底的に管理する必要が

あります。

あなたのハートを心を、磨いて磨いて、完全なる調和の世界を

見たときこそ、キリストの誕生です。

一日も早く、皆さん方のキリスト誕生をお祝いする日が来る日を

楽しみにしております。

今生こそは、多くのキリストが誕生されんことを、

お祈りしたいと思います。

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感謝



未分類 | 【2006-02-07(Tue) 00:25:49】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
聖なる戦い
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめました。

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よくイスラム圏の人たちは、聖なる戦い、ジハードと

いい、自爆テロを繰り返したりしていますが、

彼らは、神を知っているのでしょうか?

それは、本当に聖なる戦いなのでしょうか?

兄弟姉妹の血を流し、我々こそが、神の子、

神に選ばれたものである、と言っていますが、

そのようなことで神は喜んでいるとでも

思っているのでしょうか?

彼らは、神がどこにいるのか、知らない。

アラーの神とか、何々の神とかいっていますが、

神は、どこどこにいるとか、そのようなものでは

ありません。

この世の世界各地で戦争をしていますが、

それはすべて、神を知らないから

おこっているものなのです。

真の聖なる戦いとは、みなさんの中で、

おこっているもの。

真我と自我の戦い、これこそが、

ジハード、聖なる戦いなのです。

聖なる戦いは、みなさんの中で、毎日、

行われているものなのです。

わたしは、生命だ、霊だ、愛だ、神だと

思っているときは、真我。

わたしは、個人です、肉体です、人間です、

と言っているときは、自我です。

みなさん、わたしの話を聞いているときは、

あー、わたしは、個人ではなく、生命なんだ

と思っていますが、いざ、家に帰り、

日常生活に戻れば、わたしは、個人です、

肉体です、人間です、として生きる。

毎日、毎日、日常生活の中で、個人と生命の

戦い、真我と自我の戦いが行われているのです。

真我が勝っているのか、自我が勝っているのか、

これは皆さん自身がよく分かっていることだと

思います。

真我が自我に勝ったとき、みなさん方は、

キリスト真我になるのです。

勝利者となるのです。

今生、皆さん方が、勝利者となるのか、

敗北者となるのか、わたしの話を聞いて、

選択するのは、皆さん方です。

長年、幾転生もの間、自我に振り回されていたものが、

真の我に目覚めるのです。

真の勝利者となりなさい。

これは、わたし自身ができたことを、皆さん方に

教えているのです。

わたしだけがみなさん、特別なのですか?

わたしにだけしか、できないことなんですか?

わたしだけが、神なのですか?

神は、不平等なのですか?

神は、不公平なのですか?

そんなことはないはずです。

神は、公平です。

神は、平等にわたしたちを

造られたのです。

神は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

みなさん方も、当然できることなんです。

毎日の聖なる戦いに、勝利しなさい。

もう、何年も前に、オウム真理教という教えの

中に、ハルマゲドン、最終戦争というものが

ありました。

みなさん、ジハード、聖なる戦いこそが、

ハルマゲドンなのですよ。

真我が勝つか、自我が勝つか、

皆さん方は、それこそ、毎日真剣勝負をしなければ

なりません。

皆さん方は、追求心が足らないのです。

もっと、神を求めて、求めて、

探して、探して、叩いて、叩いて、

追求せねばなりません。

大海の奥深くにこそ、真我はあるのです。

真理は、奥深くにあるものなのです。

簡単に得られるものならば、真理は価値

あるものではありません。

みなさん、毎日、毎日、聖なる戦いに

勝利して、真の克服者となってほしい。

真の勝利者となってほしい。

使命をはたしてほしい。

使命とは、生命に使わらされるもの。

真の我で生きるよう、努力して欲しい。

真の勝利者となり、天なる父のもとへ

還る皆さん方になってほしいと思います。

聖なる戦いは、もうすでに始まっているのです。

真我が勝つか、自我が勝つか、

皆さん方の中で、行われているのが、

聖なる戦いです。

厳しい戦いです。

勝利しなさい。

すべてに神を見ることによって、勝利しなさい。

未分類 | 【2006-02-06(Mon) 12:10:33】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
救世主とは
覚者の方々のご講話を自分自身への戒めとし、まとめました。

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よくテレビなどで、あなたの過去生は、ここで生まれ、

このような性格で、こんな死に方をしたんで、

今生は、何々ですよ、と言っている人がいますが、

それは真実を語っているのでしょうか?

過去生を自慢そうに教え、またそれを教わり、

どうなると言えるのでしょうか?

その人たちは真理を語っているのでしょうか?

真理を知っているのでしょうか?

わたしたちは、今までに何万回という転生を

繰り返しているのに、そのうちの1回や2回の

過去生を聞かされて、どうなるというのでしょうか?

わたしたちは、自分の過去生を知るのではなく、

自分が何者なのか知ることが一番重要ではないでしょうか?

いつまで輪廻転生を繰り返せばいいのでしょうか?

私たちがもっと真剣に真理を学んでいれば、

イエス様の時代に、またお釈迦様の時代に、

とうに天に還ることができたでしょう。

ただ、その時代に、お迎え人がいる時代にもかかわらず、

真の教えに真剣に学ぶ人が少なく、天に帰る人は、

わずかでした。

わたしたちは、真理を説く人がいなくて、

お迎え人がいなくて、自分だけで悟ることが、

できるのでしょうか?

教える人がいなくて、自分だけで、悟ることは、

この物質の、肉体の壁を破ることは、とうてい

できることではありません、。

今、お迎え人がいるときに、歩むべきではないでしょうか?

天の扉は、今、2000年ぶりに開かれています。

我は道なりとイエス様は言われました。

道を示す人が現れたのです。

天への道を示す人が現れたのです。

ただ、道は示すけど、それを歩むのは、みなさん自身

でやらねばなりません。

この世に、救世主たるものは、いません。

イエス様が救世主ですという、嘘つきの指導者からは、

離れなさい。

誰々によって、救ってもらう皆さん方なのでしょうか?

この世の救世主は、自分自身が、真我に気づくこと、

それこそが、救世主ではないでしょうか?

我は人間でもない、肉体でもない、物質でもない。

我は、宇宙に遍満する大霊なり、生命なり。

常に霊である、生命である、神であると意識しなさい。

意識するものは、現れます。

信じるものは、救われます。

神を疑ってはいけません。

我々は、神への信仰心がどれだけのものなのか、

それによって、神があなたに近づくでしょう。

我々の宗教に入らなければ、救われないとか、

言っている偽物の指導者にだまされないように。

わたしたちは、すべてのすべてが、神であること、

すべてのすべてに神を見ること、

これができなければ、救われることはないでしょう。

それには、中途半端で達成することはできないでしょう。

真剣勝負です。

神への思いを、精神をつくし、心をつくし、魂をつくし、

行わねばいけません。

あなたが今生しなければいけないこと、

そのために、今生生まれてきたこと、

自分の使命を果たしなさい。

今、試練・悩み・苦しみをかかえていたとしても、

神への道、最高の道を歩んでいること、

常に、神への信仰心を忘れないように。




未分類 | 【2006-02-04(Sat) 17:20:57】 | Trackback:(0) | Comments:(1)
欲望を捨てよ
覚者の方々のご講話を自分自身の戒めとし、まとめてみました。

欲望を捨てなさい。

皆さん方は、欲望を持つから、苦しむのです。

欲望を持ち、すべてその欲望がかなえられたとしても、

次から次へとあなたの欲望は大きくなり、

心満たすことはないでしょう。

心充ちることはないでしょう。

この世の富、名誉、金、権力をほしい、ほしいと

かき集める魂は、未熟な魂です。

この私の話を聞く皆さん方は、この世のものが

欲しくて、ここに集まったわけではないはずです。

何か物足りない、物質で心を満たすことは出来ないと

感じた魂が集ってきているはずです。

私が呼ばなければ、誰もここへくることはできない。

私(神)が呼んだ魂は、霊的なものを求める熟した

魂です。

ここで、霊的な学びをした皆さん方は、

この世の新聞や週刊誌、またテレビなどに

興味を持たなくなるだろう。

株価の上下に喜んだり、悲しんだりとすることは

ないだろう。

なぜなら、それは本物ではなく、偽物であるからだと。

わたしは、何年も何十年も神に

このように祈ってまいりました。

「わたしはこの世の富、金、名誉、権力、物質は、

一切欲しいとは思いません。

わたしが欲しいのは、その贈り主である神、

あなたそのものをわたしに見せて欲しい。」と。

「富めるものが神の国に入るのは、

らくだが針の穴を通るがごとく難しい。」

「この世で一番偉いものは、あの世では一番低いものである。」

と聖書には記してあります。

旅行に行きたい、どこのおいしいお店に行きたい、

素敵な洋服を着たい、豪華な家に住みたいなど、

皆さん方は、肉の快楽、いつかは朽ち果てる

この世の快楽に溺れてはいけません。

皆さん方は、あの世に行って、わたしは大金持ちでした。

わたしは偉大なる権力者でしたと。

いばれるものは一人もいないんだと。

あの世に持っていけるものは、ただひとつ。

みなさんの霊的な成長・進歩だけなのです。

そうであるならば、霊的なものだけを求めなさい。

ただみなさん、ひとつ気を付けなければいけないのは、

わたしは、みなさんの財産を捨てよと言っているのでは、

ありません。

霊的なものと物的なもののバランスをとりなさい。

財産に執着するなということを言いたい。

みなさんが、霊的な成長をしていくと、

あれがほしい、これがほしいといったことがなくなるはずです。

欲望があるからゆえに苦しむので、

お釈迦様も、「欲望を捨てなさい。」と言われたのです。

あのサイババ様は、

「わたしにたった一つの欲望があるとすれば、

それは、皆さん方の欲望を捨てさせることだ。」

と言われたのです。

皆さん方は、この世の富ではなく、永遠なる宝をつかんでほしい。

神の願いは、ただそれだけです。

感謝

未分類 | 【2006-02-01(Wed) 22:51:10】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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