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Author:諒
■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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執着とは?(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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本当にここに生きながらにして、そのような光を放っている

人間なんて、生まれて初めて出会いましたと。本当に生きた人間が

このような光を放つものがいたのかと?

もう、金縛り状態で、私が額を買って、帰っていくまで、

そこを動くことができません、その方は。わたしは振り返って

みてはいませんが、何時間、そこに立っていたかは知りません。

皆さん一人一人が、本当に愛という波動を放ち得るあなたがたで

あるのならば、すべてを釘付けにすることでしょう。

すべてに幸いをもたらすことができるでしょう。

我、この世の闇を照らす光なり。我この大宇宙を照らす光なり。

だから、皆さんは、我々の小さなグループがもがいてもがいて、

世界が変わるのか?

あるいはわたしがもがいてあがいてどうなるのかと言いましょうけど、

それはみなさんが、 我(が)と言う我(が)のなかで、限定した自分

であって、皆さんの本質はなんと言いましょうか?

それはあなたがたの本質を計り知ることが誰ができましょうか?

なぜならば、皆さんは、無限そのものではないでしょうか?

無限なるあなた方が、無限の光を放ち見てください。

心清きものよ、幸いなり。そのものが語る言葉、表現する言葉、

すべてを釘付けにするほど、みなさんに幸いを与えることになるでしょう。


まったく、その逆に、朝に昼に晩に皆さんに出会えば、もう苦しい、

毎日、病気、病気、病気の言葉しか放たぬのなら、いい気持ちと

言えましょうか?

気持ち、エネルギーの持ち方、エネルギーの持ち方とは、エネルギーの

使い方、言葉で思いで、表現で、どういう方法で皆さんが、

そのエネルギーを使っているのか?

それでもって、みなさんが気持ちいいものなのか、気持ち悪いもの

なのか、あるいは幸いなるものなのか、災いなるものなのか、

それで決めているではないでしょうか?

では気持ちいい人間となるために、あるいはまた幸いなるものとなる

ためには、何の修行も必要ないではないでしょうか?

神社や仏閣やお寺、教会に行って、肉体が朽ち果てるまで、動かぬ仏像

の前で、お経を唱える必要もない。山の中で洞窟の中で、肉体が

朽ち果てるまで、明想、明想と明け暮れる必要もない。

ではたとえば、山の中で、誰もが悪口で、嫌な言葉を語ってくれない。

嫌な表現も見せてくれない。

それならやすらぎでいることは、たやすいこと。

しかし、我々は、家庭を与えられ、社会を与えられ、世界を与え

生かされている限りは、どこにも逃げ隠れすることはできません。

与えられたその場所場所で、絶対なる愛として生きること他に、

わたしたちがやすらぎを得ることはできません。

そのように、皆さん自身が、常に与えられているその場所場所で、

美しくみなさんが輝いてみてください。

みなさんは、心清きものよ、幸いなり。

このものが語る言葉、思い、表現は、すべてに良い影響、

すべてに幸いをもたらすことでしょう。

それは、形あって、必ずしもそこにいなければいけないと

いうことではありません。

皆さん自身が、どこに離れていても皆さん自身の波動が、時間、

空間、壁、距離、一切のものを超えて、大宇宙にまで放ち得るほどの

あなたが、本来のあなたであることを知って欲しい。

自らして自らを限定し、自らして自らを束縛し、無力にしていることを

これ、自縛と言います。

自らの無限さを縛って自縛、自らして無知、無力に、迷い、盲に、

苦しみ生きているもの。


では、自分で自分を縛っているからこそ自縛と書きます。

本来は無限の能力でありながら、自分で自分を縛って、無知、迷い、

盲になっているものを自縛と言います。

では、その自縛は、皆さん一人一人の理解力によって、解かれていくこと

しかできないではないでしょうか?

そこで、お経を唱えて、肉体が朽ち果てるまで祈ったところで、誰もが

自縛を解き放つことはしません。またできるものでもありません。

あなたがたに変わって、あなたがたの宿題、誰が乗りこなせましょうか?

誰が乗り越えることができましょうか?

あなた方に与えられた試練は、あなた方に与えられた宿題は、皆さんが

強い意志と忍耐と努力を持って、自ら乗り越えていく以外、

方法はありません。

では私自身が今の、この無限の喜び、無限の幸福の境地は、

わたしがお経を唱えて、上から落ちてきたと言いましょうか?

どこかの宗教に籍を置いて、多額のお金をお布施して献金して、

勝ち取ったものといいましょうか?

わたしが唯一、修行というならば、お経を唱えることでもないし、

神社、お寺、教会、お宮で動かぬ仏像を拝むことでもないし、

もし修行というならば、みなさん一人一人が、幾転生という人生の

過程を通して背負ってきた悪習、悪癖を、また様々なものに

執着している自分、その一つ一つを解き放たっていくことが、

これが唯一の修行ではないでしょうか?

価値無き修行をする必要はありません。

無駄な時間を浪費して、修行する必要はありません。

修行とは、本当に修行があるというのならば、自らの心を

磨きいくことが修行と申します。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




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執着とは? | 【2006-02-26(Sun) 00:46:53】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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