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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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我は真理なり(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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わたしの自慢話ではありませんが、ホテルに泊まっているときに、

かぎは一つ一つ違い、100の部屋があっても絶対にひとつしか

あけられないといわれているのが、ホテルのキー。

で、わたし自身が間違って、自分自身のかぎで、北海道のホテル

のことですが・・。

わたし自身の思いは、わたし自身が差し込むかぎは、どこでも開く

という思いしか、疑いもしないし、絶対に開くという思いしかない。

で、わたしの部屋は3階。

で、5階の部屋がいとも簡単に開いてしまったこと。

で、わたしがそう言ったならば、嘘をつけと。

ひとつのかぎで二つの部屋が開くわけがないではないかと。

絶対開くはずがないんだと。

で、わたしは305の部屋。

で、503を間違えてあけてしまったんです。

したならば、わたしはいつでも、どこに寝るにも、必ずそのベッド

と持ってきたバッグは、完璧に片付けてから、わたしは出かける

ようにしているんです。

いつどういう状態があっても、いつでもバッグは持ってかえれる

ように、小さいときからの癖でそうしているのです

いつでも、完璧に自分の部屋は、完璧に整えておくようにしておく。

いつでも、片付けておく。

しかし、503をあけてみるならば、ベッドの上は、若い女の子なのか、

散乱しており、もう下着がいっぱいになってまして、わたしは

びっくりしました。

どこに間違えてきてしまったのかと。

冗談ですが地獄にでも来たのかなと。

で、かぎの札を見てみるならば、503になっていたんです。

305が私の部屋。

503をあけてしまったんです。

だから、人間が作り上げたものは、必ずいい方向に使えるか、

悪い方向にも使える。

だから、イエス様は、心伴わない真理は、破壊の方向へ

破壊の方向へ使い下すと言われたではないでしょうか?

だから砂の上に立てた教会はもろい。

右から風がくれば左へ。左から風がくれば右へと。

いとも簡単に崩れさっていくだろうと。

で、岩の上に立てた教会は強し。

で、それは完全なる宇宙真理を世に示していくことができるだろうと。

じゃ、岩の上、砂の上と説いたのは、一番大切な基礎である心を

説いたではないでしょうか?

で、教会という窓際の教会は、砂の上に教会というのならば、

それは真理を指しているではないでしょうか?

だから、心が美しく磨かれてこそ、真理は、世のために人のために、

生かすことができるんだと。

だから、お釈迦様も安易な瞑想を与えたんではないんだと。

何日も何週間も何ヶ月もかけて、徹底して、正しく見れるあなた。

正しく思うあなた。

と、正しく生きるように、この八正道というものを与えて、

正しく見、思い、語り生きれるようになって、

それを心磨いたとき、そこに内観というものを教えたでは

ないでしょうか?

だから、今の瞑想グループは、心も伴わない、心も教わっていない、

即瞑想せよ、即内観せよと。

で、挙句の果てにつながったのはどこでしょうか?
幽界とつながって憑依を受け、気違いになったものをわたしは

いくつも見てきました。

だから、明想という大切さ。

みなさんが本当の明想を理解して、明想を正しく使うことが

できるのならば、わたしはこう言います。

明想の大切さ、明想の素晴らしさを知るでしょうと。

しかし、あらぬ方向にその明想を使いいかせば、まったく逆の方向

からみなさんは、幽界の憑依を受けて、気違いになったり、

混乱してみたりと。

だから、あくまでも明想は、世のために人のために生かし

いける自分であるために、

常に神との一体感であってもらいたい。




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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。

25:48


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我は真理なり | 【2006-03-30(Thu) 01:25:49】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
我は真理なり(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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で、過去においても、今は、大気を汚す、ガソリン、ディーゼル、

石油などの燃料を使って、今は、車を走らせます。

しかし、過去何年間では、一点の汚れも放つことのないものは、

何回か作り上げられています。

しかし、それが現れればどうでしょうか?

今の石油関係に携わる人間は、すべて、その金儲けを失うことに

よって、で、すべて、その関係の人々を抹消してきたではない

でしょうか?

だから、皆さん自身が見えない心で、計り知れないはずの人間が、

抹消されて埋め込まれています。

だから、心伴わない状態で、物質文明で栄えいい状態を作り上げよう

としても、そのもの抹消されてしまうほかにないんだと。

で、埋められていくほかにないんだと。

だから、いいものが作られても、いいものはあらわさない。

わたしは、そのものを作る役目のものでもないし、

科学者でもないけど、神がわたしに見せたビジョンというならば、

わずか何カラットという鉱物が、それそのものが、宇宙生命という

無限のエネルギーを受け入れて、で、日本全体がどう使っても、

余裕に供給することができるものがつくることができるという

ビジョンをわたしは見せられています。

さあ、わたしがそれを作る役目として、作る側に回ってみてください。

もう、その話をわたしがした瞬間に抹殺されていくだろうと。

だから、一番大切なことは、みなさん一人一人の美しい心と申します。

愛一元の心と申します。

慈悲に満たされた心と申します。

だから、心伴わなければ、何をここにあてられても、便利な科学と

いうものを作り上げても、また例えば、クレジットカードのような

ものをつくりあげても、そのものを自分自身が不正に使って、

関係のない人に支払わせるような事件があったりと。

だから、心が伴わない限りは、何かものが作り上げられたときは、

必ず、あらぬ方向でそのものが使われると。

で、それが出来た瞬間にわたしは読み取っていました。

だから、わたしはいまだかつて、カードを持ったことはない。

すでに読んでいたんです。

だから、皆さん一人一人が、本当に宇宙真理という大愛に目覚め生き、

すべてを変えぬ限りは、どんなにいいものを作り上げても、

必ずあらぬ方向に使うでしょう。

それにかえて、われわれが本当に石垣島で体験したことは、

山も本当に真っ暗なところで、販売機をおいていても、だれもいたずら

をしない、誰もそれをどうこうする人がいない、全く山の人通りの

ないところで、いつでも完全な状態でその販売機はあるといいます。

びっくりしました。

また、○○さんたちが、レンタカーを返すときも、さあ、その1日分

多く使った日付のレンタカー代をどうしようかといったとき、

ただその車の中に入れておいてくれと、で、かぎは

どうしますかといえば、かぎもあけっぱなし。

ここでは誰も奪うものはいない。

誰も人のものに、手を下すものはいない。

まだ、本当にこういう素晴らしい場所があったのかと。

そういう状態で全世界に広がっていくことができるならば、

みなさんの小さなときは、そうだったではないでしょうか?

カギもない家。カギなんてあったでしょうか?

今は、3重にして、4重にして、カギをやったとしても、

破壊するものは必ずいるではないでしょうか?

だから、作り上げたものは、必ずあらぬ方向に使うものがいると。

いい方向にも使えるが、あらぬ方向にも使えると。

だから、心を伴って、すべてそこを仕上げぬ限りは、必ずいたち

ごっこになるではないでしょうか?

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。


我は真理なり | 【2006-03-27(Mon) 00:18:10】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
我は神なり
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をまとめました。

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皆さん方は、一日のうち、どれだけ、神に意識を向けていますか?

あれがほしい、これがほしいと、この世の物質に目を向けているとき

は、神に意識を向けていると思いますか?

この世的なものに、目を向けているときは、あなたは、自分のことを

人間だ、肉体だ、個人だと思っているのです。

そのことを、個人意識、肉体意識、人間意識といいます。

個人と思っているわけですから、小我といいまして、小さな自分

と思っているわけです。

その意識状態では、全体を見ておりませんので、他の人とも意識は

つながりません。

自分で自分を束縛しているのです。

制約してしまっているのです。

個人として生きている限りは、隣人を他人として見ますので、

悩み、苦しみから、あなたがたは、逃れることができません。

思いは思い放題、言葉は言いたい放題、行動はしたい放題で、

どうして、全一体感を実感することができましょうか?

あなたの憎み、そしり、怒りは、必ず、あなたに跳ね返ってきます。

日常生活で、旦那さんや奥さんや子供たち、または会社の同僚に、

言いたい放題で、憎み、そしり、怒りあって、どうして、

幸せに生きることができましょうか?

自分で、悩み、苦しみを作っているのに、なんて、人のせいにする

人の多いこと。

自分の身口意をコントロールせずして、悩み、苦しみから逃れること

はできません。

あの人は、いい人なのに、なんて不幸なことが起きているんだろう、

かわいそうにという人がいますけど、勝手にその人に、悩み、苦しみ

が襲ってくることはありません。

愛で、愛一元で生きている人に、悩み、苦しみが襲ってくることが

あると思いますか?

必ず、原因は、その人の心にあるのであって、勝手に悩み、苦しみに

襲われることはありません。

原因は、すべて自分にあるのであって、人のせいにしてはいけません。

なぜ、その悩み、苦しみの状態に、自分があっているのだろうか?

真剣に、自分で解決せねばなりません。

与えられた宿題、課題から、一時的に逃げたとしても、

また、あなたにその宿題、課題は、やってくることになるでしょう。

決して、与えられた宿題、課題から逃げてはいけません。

押しつぶされそうになったとしても、あきらめてはいけません。

まずは、神の国を求めなさい。

何を得てからとか、お金をためてからとか、そのような時間は

ありません。

何はさておき、神の国を求めなさいとイエス様は言われたのです。

我は神なり、我は真理なり、我は愛なりと、その境地に達したとき、

この世のすべてはあなたに引き継がれることになるのです。

それ以外のものは、すべて幻です。

幻を得よう得ようとするのではなく、本質である神のみをもっと、

真剣に求めるべきではないでしょうか?

みなさんがたが、どれだけ、1日のうちに、神への想いを割いて

いるのか、もう一度、自分自身に問いかけてほしい。

中途半端で、生半可な気持ちでは、到底、到達することはできない

のです。

この永遠の宝をみなさんには、つかんでほしい。

永遠なる力、知恵、愛を知ってほしい。

私の思いは、ただそれだけです。

あなたの内なる神は、兄弟姉妹同士で、けんかしたり、殺しあったり

している姿に悲しんでおられます。

そのハートをノックしている内なる神に気づきなさい。

それ以外に、幸せに生きることは不可能です。

あなたが、愛に生きるとき、悩み、苦しみ、病気、その他一切の苦悩

から、開放されます。

あなたは、愛です。

あなたは、神です。

あなたは、すべてのすべてです。

常に、神を意識しなさい。

仕事をしているときも、食事をしているときも、車を運転している

ときも、常に神への想いを忘れてはいけません。

あなたが、我は神なり、と思っているときは、神の意識です。

神意識なのです。

神という高いバイブレーションを放っているのです。

それが、何よりもの、貢献になるのです。

1日24時間、常に神への想いを貫き通しなさい。

それを辛抱強く続けることによってのみしか、あなたが神を

見ることはないでしょう。

あなたは、神なのです。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。








未分類 | 【2006-03-23(Thu) 12:49:02】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
我は真理なり(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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それを日々の生活の中に、活かし、皆さん自身が、生きてこそでは

ないでしょうか?

今のように、金がすべてだ、物質がすべてだ、富がすべてだ、

もちろん、わたしはそれを否定するものではありません。

肉体という衣装を与え生かされていくわけには、いい食事を決して、

粗末に扱うことはできません。

しかし、今までの我々の教育というならば、ただいい食事を

するための教育でしかなかったではないでしょうか?

もう、子供たちが学校から帰れば、今度は何時から何時まで、

どこの塾だ、今度はどこだ。何のために。

いい高校、いい大学を卒業してもらいたい。

ただ、それだけならばいい。

じゃ、いい大学を卒業して、どうするのかといえば、いい職に就け、

多額な給料を得るように。

では、それは子供たちに、無所得、無条件の愛では、

ないではないでしょうか?

我々は、子供たちを本当に教育していくためには、無所得、

無条件の愛で、我々は育ていかねばなりません。

その一人一人の役割は違います。

必ずしもいい大学を卒業して、いい職について、多額な給料を得る

ための肉体存在の目的ではありません。

神が創造した以上に、素晴らしい住みよい地球という環境に導くために、

一人一人が様々な役割を与え生かされていることを知ってもらいたい。

だから、どんなに地位、金、名誉、物質に満たされても、

愛のない心で、だから、この1ヶ月か前に、神はわたし自身に、

あなたがたが、どんなに美しい花々を祭壇に整えたところで、

高価な果物を供えたところで、いっこうに嬉しくないと言われました。

なぜならば、愛のない心で、どんなに着飾ったものを、

供え上げられても、嬉しくもないと言われます。

あなたがたが、わたしに供えてほしいのは、一点の汚れ、曇りのない、

愛の心から、供えてほしいと言われてました。

もちろん、あなたがたが、真実なる愛をわたしに供える中に、

花々をというならば、わたしはそれは喜びます。

しかし、どんなに美しい花々や高価な果物を供えられても、

愛のない心、慈悲のない心、で、一点の愛のない心で、

一向にうれしくないと言われます。

あなたがたが供えてほしいのは、真実一点の偽りもない、嘘のない、

絶対なる愛の心から、愛をささげてほしいと。

で、その愛を万物に供えてほしいと。

ならば、この世界や社会は、今、即素晴らしい、ユートピア世界が、

今、築かされていくことになるだろう。

だから、今のように、我々が、どんなにいい大学を卒業したところで、

ほーれ、みなさん、見てください。

あのオウム真理教の麻原教祖の下で働いて、動いた方々が、

いとも簡単に人を殺しあったのも、あの方々は、医学の面にしても、

科学の面にしても、本当に大学を優秀なトップの成績で、

卒業した方々ではなかったではないでしょうか?

じゃ、学問とそれが、心とは、何の関係もないことを知ることが

できるではないでしょうか?

もちろん、学問もあって、心もあるというならば、その学問を

世のために、人のために、最高にいかしきれるのならば、

それは最高に素晴らしいこと。

だから、神がわれわれに原子とか電子とか、様々なものを与えたのも、

わずかな小さなもので、莫大なエネルギーを放出し、世のためにも

人のためにもいかせるといったにもかかわらず、それを愚かなる者は、

その力を、地球の破壊のために、目に見えるもの同士の破壊のために、

原子爆弾とか、電子爆弾とかを作ったりして。

だから、わたしは、常に言います。

心が伴っていない物質文明の栄えは、世を滅ぼすんだと。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。








我は真理なり | 【2006-03-21(Tue) 14:52:01】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
我は真理なり(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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わたしがちょうど、7、8年前、明想してますと、様々な花に

群れている蜜蜂が、本当に散っていく姿を見せられました。

で、その蜜蜂たちの意識を見たときに、どこに蜜蜂たちはみなさん、

たかりましょうか?

蜜を提供してくれるから、蜜蜂たちは、花にたかっているでは

ないでしょうか?

では、花が蜜蜂たちに、蜜を提供しないのであれば、

散っていってしまうではないでしょうか?

これが、今の宗教を表し示しています。

だから、その蜜蜂たちが、どこに本物の蜜を成してくれる花は、

どこに存在するのか?

それは、今までの宗教から、飛び立っているのを見たのは、7、8年、

で、その姿を○○ちゃんが、はっきり、明想してつかんだんです。

石垣島の最後の明想の中で。

もう、蜜蜂たちが、あるいは、黄金の玉でもいいし、どんな色の玉でも

いいんですが、○○ちゃんが見たその玉は、紫の美しい玉を抱えていく

蜜蜂、では、それは何を意味しましょうか?

そこに集った皆さん一人一人が、確実に、高い意識状態へと進みいく姿。

本当に、その我が玉という真我を掴んで、飛び立っていく姿が

そうではないでしょうか?

まったく、7、8年前に、わたしが見たそのビジョンと、○○ちゃんが

見たビジョンと、本当に重なります。

まったく同じこと。

で、それは、またちょうど、わたしが、2005年に明けるその瞬間、

今年からは、霊的な面でも、物質的な面でも、すべて、偽者が崩壊

するときが、これからの時代だと言われました。

だから、どんなに我神なり、我真理なり、どんなに口先で語ったと

しても、その本人が、真にそこに生きていない限りは、

必ずそのものは、崩壊していくだろう。

で、同じその品物も、本当に体によいものを、地球にいいもので

ない限りは、必ず、そのものも崩れ去っていくだろうと。

物質的な面でも、霊的な面でも。

すべて、偽者が崩壊する年になるだろうと。

で、我々の学ぶグループは、天心無我という境地で生きていけと

言われました。

天心とは、天の心と書きます。

無我とは、無限の我と書きます。

天の心は、愛にして、知恵にして、力にして、光にして、

無限であるということを自覚して生きよと。

じゃ、みなさんは、小さな宿題も、小さな試練にも、耐えられない

ような小さき、弱き存在ではないではないでしょうか?

みなさん一人一人の本質は、無限の愛です。

すべてのすべてを許し愛すあなたがたが、本来のあなた方では

ないでしょうか?

だから、今は、愛分かち合うことができぬ結果、親子同士で、

人間同士で、兄弟同士で、毎日、傷付け合い、毎日でも殺し合い、

それは何と言いましょうか?

末法の世というではないでしょうか?

まさに末法の世。

愛で生きるべく万物の霊長である人間が、ともに、足りないものに

振り回されて、で、傷付け合ったり、殺しあったり、奪い合ったり、

今、まさに末法の世でないでしょうか?

じゃ、それを超えていくためには、みなさん一人一人が真理に

目覚め生く他に、方法はないではないでしょうか?

真理は愛です。

真理は知恵です。

真理は力です。

真理は光です。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。








我は真理なり | 【2006-03-20(Mon) 12:24:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
我は真理なり(2)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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この地球というわれわれが学び、色々な体験をして、魂を磨き、

本当に解脱へと道を歩みいく、この地球という学びの場を、

破壊させてはならぬと。

本当にこれ以上、傷つけてはならぬと。

これ以上、破壊おいやってはならぬと。

で、その全一体という宇宙意識から、みなさん一人一人の目覚めを

うながしていることを知ってもらいたい。

だから、みなさんの心の扉を神は叩いて、常に、訴えているでは

ないでしょうか?

自らに目覚めよと。

自らの心を開きなさい。

小さな自分を捨てなさい。

神の偉大なる光に目覚めよ。

じゃ、光とは太陽の光ではなく、この太陽の光以上の、みなさん

一人一人には、真理として、無限の光が内在していることを

知ってもらいたい。

だからこそ、我、この世の闇を照らす光なり。

我、この大宇宙を照らす光なり。

で、そのとき、みなさん、なんていいましょうか?

天照大神。

だから、みなさん自身が、何者にも振り回されない、

不動明、不動の心を仕上げてもらいたい。

どんなにこの現象という結果の世界で、どう移り変わろうが、

どういう現象が現れようが、振り回されないあなたがた。

悪しきものにも、決して混乱せず、楽なものにも、決して有頂天に

なることなく、本当に自分自身の宇宙真理をしっかりと、

みなさんには一歩一歩歩んでもらいたい。

で、そのときこそ、皆さん自身が、何者にも振り回されない、

混乱しないあなた方になったとき、これをみなさん、不動心、

不動明というではないでしょうか?

で、みなさんが不動心になったとき、いかなる試練、いかなる宿題に

ぶつかっても、もう知恵や、力で、愛や光で、すべてを乗り越え

られるあなたがたになったとき、どんなにきびしくても乗り越え

られる知恵が、我が内から昏々とこみあげたとき、これを

文殊菩薩といいます。

で、我は知恵なりとみなさんが理解したとき、もう自ら自分だけ

幸せで喜びであってはならぬ、混乱して生きる気の毒な兄弟姉妹に、

千人にも万人にも手を差し伸べたい、これを千手観音。

で、みなさん、千人にも万人にも手を差し伸べて、手伝える

あなたがたになったとき、我、この世の闇を照らす光なり、

我、この大宇宙を照らす光なり、これを天照大神といいます。

じゃ、動かぬ仏像を奉って、健康にしてください、幸せにして

ください、金持ちにしてくださいではなく、すべてのすべて、

あってあるもの、愛という器で抱擁できるあなたがたあって

こそではないでしょうか?

みなさん一人一人の真我そのものがすべてであることをしって

もらいたい。

それが、文殊菩薩であり、千手観音であり、天照大神であることは、

みなさん一人一人の中に即、内在しており、だから、みなさんは、

拝むとき、手はどこに持って行きましょうか?

自分自身の愛のチャクラである、愛のハートセンターであり、

胸元にみなさんは、手を添えるではないでしょうか?

我は真理なりと皆さんが理解したとき、手をみなさん、

開いてみてください。

泥沼に咲く蓮の花よりも真我という美しい花は、

もう、我が内に開花したと。

それが、悟りを象徴としています。

解脱を象徴としています。

だから、みなさん一人一人は、決して、無知、盲、迷い、

小さき弱き存在ではありません。

だから、本当に、一段一段、一歩一歩、昨日よりは今日、

今日よりは明日、明日よりは明後日と、一段一段、高き我へと

高揚していってほしい。

そのとき、我は真理なり、すべては真理なり、一人一人、

そう言えた時、今の社会は、今の世界は、何をなさずとも、

即平和であることをしるでしょう。

どんなに多額な金や富を積んだところで、我々一人一人が、

すべてを許し愛することができぬ限り、平和なんてありえぬ

ではないでしょうか?

だから、無力なる我から力ある我へと。

無知なる我から知恵ある我へと。

迷った我から悟った我へと。

今までは、仮相という結果しか見えなかった我が、すべての原因、

すべての中に、原因である宇宙真理、愛を、神をすべてとして、

感じ取れるあなたがた。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。








我は真理なり | 【2006-03-18(Sat) 23:55:42】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
我は真理なり(1)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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みなさんが、自分自身の聖地を守って、我は真理なりとそういえる

あなたがたとなってもらいたい。

人間意識、肉体意識、個人意識では、どの聖地も見ることは

できぬだろう。

なぜならば、聖地はあなた方のうちにあり。

決して、己の聖地をこの世のものや物質で、見下ろしてはならぬと

申します。

で、そのためにはみなさんが、自分自身の本質が、宇宙生命であり、

神こそであると理解したとき、我は真理なり。

だから、誰も厳しい道を歩まずして、真理に到達したものはいません。

われわれは、与えられた試練から、あるいは与えられた宿題から、

厳しければ逃げたい、どこかに隠れたい。

では、いつ真理に到達することができましょうか?

イエス様もお釈迦様もあなたがたよりも優しい道を歩んで、

我真理なりと到達したんではないんだと。

どんな厳しさもいかなる苦しさもすべてを乗り越えた上で、

我真理なり、我悟りなりと。

そう言えたのであって、だからみなさんも一瞬一瞬、今皆さんに

与えられている苦しみも、今皆さんに与えられている試練を

すべて愛でもって克服してもらいたい。

みなさんひとりひとりには、愛という剣が与えられている

ではないでしょうか?

愛に勝る剣、愛に勝る力、愛に勝る知恵は、どこにも存在しません。

だから、わたし、この何十何年間、我は神なり、我神なるがゆえに、

無限の知恵、無限の力、無限の愛、光、泉は、我が内にあり。

それを見出してから、外なる人間が、わたしを振り回すことが

できたでしょうか?

誰に混乱させられることがあったでしょうか?

毎日が喜び、毎日が計り知れぬ至福を。

あまり、現象的なことを言うのは、あれですが、

ちょうど、石垣島のセミナーを終えてから、色々な奇跡が起きています。

この現象という形の中で。

歩けないおばあちゃんが杖を捨てて歩いてみたり、色々な現象を

起こされています。

しかし、わたしはその見える結果という現象の世界よりも、

本当の現象、本当の奇跡とは、みなさんひとりひとりが、

すべてのすべてあってあるものを、無限に許し、無限に愛することが、

これがみなさんへのプレゼントと申します。

これがわたしにとって、最大の奇跡と申します。

だから、昨日から、朝方まで、明想状態でソファに座っていますと、

麻原教祖はぴょんぴょん跳ねなければ上に飛べない、

それもわずか瞬間。

しかし、私自身が明想を終えて、意識をこの肉体に戻すまで、

2,30センチ浮いた状態で、明想している自分。

でも、それは何も自慢するものでもありません。

自慢できるものでもありません。

じゃ、たとえば私自身が、瞬間移動、で、この日のような状態で、

何十センチ浮いた状態で明想して、あるいはまた物品移動、

あるいはまた様々な物質化現象。

じゃ、わたし自身が、わたし自身の心が汚れ、曇っているならば、

愛のない自分自身で、そのような現象を弄んで、何の価値もない

ではないでしょうか?

だから、一番大事なことは、で、わたしがみなさん自身に、早く

勝ち取ってほしい宝物は、すべてを許し、すべてを愛するあなた方で

あることを、わたしは最高に望むこと。

だから、神の愛に生きられるあなた方になってもらいたい。

決して、様々な現象に、物質の現象が奇跡ではなく、すべてを愛し

生きられるあなたがたが、わたしにとって、最高の喜びと申します。

あなた方の愛は、すべてのすべて、あってあるものを超越する愛

であるから。

じゃ、今もテロというああいう事件、拉致というああいう問題、

いろいろな現象、いろいろなことを抱えて、さあ、偉い人間は、

どう解決しようか、どうしようかと言います。

答えはただひとつ。

一人一人が、我は真理なりという真理に目覚めいけば、一瞬にして

すべては解決するであろう。

そこに多額な金を使って、高価なホテルの会議室に集まって、

どうこう議論する必要もありません。

どんなに世界の富をかき集めて使ったところで、真の我が宇宙真理で

あることを理解できぬ限り、で、我が真理であり、すべてが真理で

あると一体感に目覚めぬ限り、どこに、解決方法がありましょうか?

だから今の状態では、みなさん一人一人が真理に目覚め、真理に

生きることができぬ限りは、この世はもっと末法の世と変わって

いく他にないんだと。

だから、わたしは焦ります。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。








我は真理なり | 【2006-03-16(Thu) 12:32:23】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛一元
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の方々の講話をまとめてみました。

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今の世の中の政治家の方々は、本当に、世のため、人のためを

考えているといえるのでしょうか?

人の揚げ足を取ったり、人を責めることばかり、考えていて、

誰一人として、すべてのためにとは、考えていないのが、

現実ではないでしょうか?

愛があれば、すべてがひとつであることを知っていれば、

あのように、人を非難・批判、あざ笑ったりはしないでしょう。

人を責めようとして、結局は、自分自身が、一番、苦しんでいる

という愚かなことをしているのではないでしょうか。

不調和、悩み、苦しみは、すべて、自分で勝手に作り出している

ものなのです。

この幻である、仮相の世界をあると見るから、また、自分が個人、

肉体、人間と見ているから、他との差別、分離間があり、人を

非難、批判したりするのではないでしょうか?

人を非難、批判すれば、必ず、その分だけ、その人はお荷物を

背負うわけです。

必ず、その分、苦しみます。

あなたが、放つ言葉、放つ思い、放つ行動は、すべて、あなたに

帰ってくるからです。

なぜなら、すべてはひとつだからです。

あなたが、他の人にしていることは、すべて、

自分にしていることなのです。

人を責めるという、愛のない行為、隣人を自分として見れない行為、

すべて、自分であるということが分からないがゆえに、このような

罪を犯すわけです。

この不調和、悩み、苦しみは、今即、消すことができるのです。

不調和、悩み、苦しみからは、あなたがその気にさえなれば、

今即、開放することができるのです。

なぜなら、不調和、悩み、苦しみは、幻であり、非実在であるから

です。

この不調和、悩み、苦しみは、愛で持ってしか、超越、克服することは

できません。

不調和、悩み、苦しみで、苦しんでいる人は、必ず、人のせいにします。

うちの旦那が、または、奥さんが、または、両親がと・・・。

誰彼がこのようなことをするから、わたしはこんな風な目に合っていると。

だから、イエス様は、

他人の目の中に小さなちり(木片)を見つけるが、自分の目の中に

大きな梁があることに気づかない。と言われたのです。

あなたの不調和、悩み、苦しみは、あなたが作り出したものである

ということに気づけば、即、愛でもって、克服することができる

のです。

それには、もちろん、勇気が要ります。

愛で持って、すべてを許すのです。

すべては、ひとつなのですから、すべては、あなたなのです。

愛で持って、許しなさい。

どんなに人から迫害されようが、笑われようが、非難、批判されようが、

あなたの愛は、すべてを超越することができます。

愛一元であれば、あなたの中には、不調和、悩み、苦しみは、

存在することができません。

愛こそが、偉大なる力なのです。

愛こそが、偉大なる知恵なのです。

愛こそが、偉大なる神のご意志なのです。

あなたが、愛の想いに満たされたとき、何を見ても愛を感じる

ことができたとき、

神の愛を、天なる父の偉大なる愛を感じたとき、

この世のなにものとも比較することができない、至福感を感じる

でしょう。

そのとき、あなたは、涙せずにいられないでしょう。

なんだ、わたしは、神の愛の中にいたのに、自分がその意識に

あわせなかっただけではないかと。

神の愛は、手よりも足よりも、なによりも近くにあったことに

気づくでしょう。

神の愛は、あなたのハートにいます。

神の愛は、あなたのハートを叩いて叩いて、常にノックして

いるのです。

神の愛に、気づきなさい。

神の愛に、波長をあわせなさい。

神の愛に、常に意識を向けなさい。

そのとき、あなたが神を見たくないと思っていたとしても、

神を見ることになるだろう。

我は、真理なり、我は、神なり、我は、愛なりと。

偉大なる愛に、到達しなさい。

愛こそが、すべての癒し主であり、すべての超越者なのです。

愛に勝るものはありません。

全身の細胞ひとつひとつが、愛に満たされるまで、そのコップを

手からおろしてはなりません。

愛こそが、偉大なるすべての癒し主であることをご理解いただきたいと

思います。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。








未分類 | 【2006-03-15(Wed) 19:27:02】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(完)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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エネルギーの低いものが触ったら、高くなりますか?

たとえば、病人がこのパンに触ったら、パンのエネルギーを

奪いますよ。

なぜかというと、エネルギーは高いところから、低いところに

流れるんですよ。

自分がエネルギーが低いということは、全部、エネルギーを盗んで

歩いているということになりますよ。

だから、汝盗むなかれというのです。

今、みなさんは、与えているの?盗んでいるの?

エネルギーの盗人?与え人?

盗んで歩いていると思いますよ。

こっちから盗もうかな、あっちから盗もうかなといって。

エネルギーは与えるものであって、盗むものではないんです。

だから、命を得ようとするものは、命を失い、命を放つものは、

命を得ると。

エネルギーを得よう得ようと思う人は、エネルギーを失いますよ。

エネルギーを放つものは、エネルギーを得ますよ。

与えよ、さらば与えられん。

だから、エネルギーは得るものではなくて、与えるべきものであると。

これが、与えよ、さらば与えられんなのです。

盗もうか盗もうかと思っていれば、作用・反作用の法則ですから、

ごそっともっていかれますよ。

だから、みなさんがたは、エネルギーそのものなのでしょ。

生命そのものであれば、なにそのもの?

では、エネルギーそのものであるのならば、どこからエネルギーを

得ようとするの?

与えるしかないでしょ、もう。

エネルギーがエネルギーを得ようと思いますか?

しないですよ、与えようとすると思いますよ。

貢献しようと思うと思いますよ。

だから、わたしは一人でも多くの人にエネルギーを与えたくて

うずうずしているわけです。

このエネルギーは減るんですか?

わたしは、与えることによって、損しますか?得しますか?

奉仕の場を設けさせてもらったわけですよ。

だから、誰かを触って、エネルギーを流させてもらうことが、

わたしの生きがいなんです。

盗むことが生きがいではないんです。

与えることが生きがいであるべきですね。

盗むことが生きがいでは大変ですよ。

だからみなさんがたは、この世の食べ物をあちこちであさって

生きているんですよ。

このエネルギーは高いとか、低いとか言いながら。

これを放蕩息子のたとえで言っているんですね。

外から得ている食物は、豚小屋から得ているようなものですよと。

で、宇宙から得るものは、有機物が混ざっていませんから、

純粋無垢のエネルギーとなるわけですね。

だから、天より下る生命のパンを食しましょう。

どんどん与えてくださいと。この人にも、あの人にもと。

エネルギーは与えれば与えるほど、多くなるんですね。

ちょうど、お天とさんも同じこと。

与えているから、光っているんですよ。

あの人、嫌いだから、与えないというのであれば、太陽も曇りますよ。

光るためには、与えなければならない。

好き嫌いがあってはならない。

わたしにとっては、私を迫害するものであろうが、罵るもので

あろうが、エネルギーを与えたくて仕方がないんですよ。

分かりますね?

ですから、罵っても安心ですから、心配しないでください。

私が怒り狂うことはありませんから。(笑)

ばかやろうと言われても、平気ですから。

平気というのは、平たい気と書きます。

皆さんも何があっても平気な人になってほしいと思います。

ありがとうございました。


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今回は、わたしが、十数年前に学んだ講話について、掲載させて

いただきました。

何が思い出深いかというと、先生は、人の意識を確実に、読み取る

ことができるんだということを実感させられたのです。

多くの方が体験されているかもしれませんが、

講話中に、わたしが、ぱっと浮かんだことを、即時に話をされたと

いうことがありました。

しかも、かなりありえないことをわたしは思い浮かべたのにも、

かかわらずです。

まさに、意識はひとつであるということを実感させられたのです。

先生に隠せるものは、何一つない。

神に隠せるものは、何一つないということを、教えていただいた

私にとっては、素晴らしい学びの一日でした。



今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。








生命は天、肉体は地 | 【2006-03-13(Mon) 20:55:40】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(9)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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その生命は、いかなるものの制約、制限、束縛もない。

すなわち、無碍自在、観自在であると。

これを真の自由というのであると。

みなさんがたは、肉我で生きる限りは、自由ですか?不自由ですか?

自縛しているわけですから、不自由ですよ。

生命は、いかなるものの制限がありませんから、自在ですよと。

時空間を越えて、存在していますね。

生命に、距離がありますか?時空間がないですよ、生命には。

だから、瞬間移動も可能になってくるわけです。

で、瞬時にその力をあらわすことも可能ですね。

だから、生命を注ぐことと、エネルギーを注ぐことは、

同じことですね。

一番、大事なものを与えなさいと。

自分は、人間だ、肉体だと思っている人は、エネルギーの低下を

引き起こしていますから、そういう人にエネルギーを注ぐと

いうことを、命を注ぐというのです。

で、肉体という物質に、生命を注ぎますと、エネルギーに満たされる

わけです、命に満たされるわけです。

すなわち、天に満たされるわけです。

で、そのエネルギーに満たされると、落ち着いてくるんですか?

イライラしてくるんですか?

これは、あなたの性格から、肉体細胞まで変えてしまいますよ。

で、この生命エネルギーに満たされますと、自分の犯していた罪に

対しても、カルマの刈り取りも可能ですよと。

では、命に満たされている人は、病気になるの?

生命力が弱いというんでしょ、病人は。

だから、病気というのは、エネルギーの欠乏ですよ。

病は、気から、エネルギーからですよ。

物質主義になればなるほど、あなたのエネルギーは、高くなる?

低くなる?低くなりますよ。

物質がすべてであると思っている人に、エネルギーの高い人は

いませんよ。

すなわち、トランス状態というのは、エネルギーに満たされた

状態なんですよ。生命に満たされた状態ですね。

で、このエネルギーをどうしたら、自分のものとすることができるか?

それは、今日から、今からできますよと。

どうしたらいいか?

それは、わたしは、地や肉や、姿、形に属するものにあらず、

我は生命なりと。生命の自覚に応じて、このエネルギーは現れます。

自分は物質ではないと。

宇宙生命、宇宙エネルギーそのものが自分だという絶対なる自覚が

ないとなりませんよ。

まだまだ、みなさんには、人間という、個人という、肉体という思いが

ある限り、絶対にエネルギーは現れませんよ。

天下りというのは、天が下るということは、生命が肉の中に下って

くることを天下りというのです。

この生命はマクロですか?ミクロですか?ミクロですよ。

すなわち弥勒ですよ。

弥勒菩薩というのは、生命には姿、形がない。

だから、ミクロの世界なんですよ。

弥勒菩薩というのは、このミクロがマクロという肉体を通して

現れることを弥勒菩薩というのです。

生命は、ミクロエネルギーですから。マクロではありませんから。

だから、ミクロが、このマクロを支配する、支配して生きて

いるわけですね。

これを真性エネルギー、宇宙エネルギーというわけです。

ミクロエネルギーなんです。

だから、どんなに科学が発展しても、この生命エネルギーを、

科学という道具で見ることはできない。

だから、ないから信じないとか、測れないからないんだとか。

では、わたしが何も触らないで、動かす力は、信じないですか?

魔術だとでも思っているのですか?

現にあるわけですから。今の科学が否定するならば、今の科学者

の頭は、石頭ですよ。

もし、そのような考えであるならば、今の科学はこれ以上、

前に進むことはないだろう。

今の科学は、化学(ばけがく)なんですよ。

生命科学ではないんですよ。

生命科学は、エネルギー科学なんですよ。

だから、物理学というのは、物理学で生命科学を否定することは

できない。

肉体が生命を否定することはできない。

これと同じことだということをご理解いただきたい。

だから、みなさんがたが、もう物体だ、肉体だと思っているかぎりは、

このエネルギーを得ることはないだろうと。

認めるものは、現れるわけですから。

物質を認めていて、エネルギーが現れることはないと。

だから、わたしを受け入れなさいと言ったんです。

宇宙エネルギーを受け入れなさいという意味なんですね。

今の今、受け入れることができますよ。

そうすると、あなたの肉体細胞はこの宇宙エネルギーに満たされると、

肉体細胞は、エネルギーの放射体となりませんか?

あなたは、どこにいてもエネルギーを放射して歩いていることに

なりますよ。

これが無言の奉仕というものなんです。

本当は、ものを言う必要はないんですね。

無言の奉仕、あなたが触ったものは、みんなエネルギーが

高くなりませんか?

エネルギーをチャージしているわけですから。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-12(Sun) 09:29:47】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(8)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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この人間という肉体は、宇宙生命の働く場にしかすぎませんよ。

媒体にしかすぎないんですよ。

生命なしで、肉体が何が出来るの?

生きているのは、人間なの?宇宙生命なの?

宇宙生命のみが生きているんですよ。

人間は、生きているものではなくて、生かされているものなんですよと。

あなたがたは、この肉体が生きているものだと思っているから、

死にはしないか死にはしないかと恐怖におびえているではないですか?

では、生命とは、死ぬもの、死なないもの?死なないものです。

肉体は、死ぬものです。

なぜ、死ぬ我に生きて、死なない我に生きないの?

あなたは、永遠の生命として生きたとして、死の恐怖感におびえると

思いますか?

生命は年を取るんですか?病気になるんですか?

あなたは一度だって、病気になったことがないんですよ。

風邪だってひいたことがないんですよ。

真のあなたというものは、風邪を引くんですか?引かないんですか?

あのね、わたしが、一度だって、風邪を引いたことがない、

病気になったことがないというと、「おー、めずらしいねー。」って。

何が偉いんだろうと?

あなたも同じ事でしょといいたいんですよ。

真のあなたという生命は、風邪を引くんですか?

風邪を引いた生命なんて、聞いたこともないし、見たこともない。

ガンにかかるの?

ガンにかかっているのは、あなたではないんですよ。

あなたの衣装しか、ガンにはかからないのですよ。

真のあなたは、肉体ではないわけですから、生命がガンになった

なんていうことはないんです。

では、あなた、病気になったことがあるの?

そこをよく、今の言葉を聞き逃してはだめですよ。

一度も病気になったことのない自分がいることを知らねばなりません。

完全なる自己がいることを知らねばなりません。

生命は、風邪も引きませんし、ガンにもかかりませんよ。

あなたのまとっている衣装は、ガンにかかるかもしれない。

しかし、あなたという真のあなたは、ガンにかかったことは一度もない。

生命の世界では、生老病死という四苦は、まったく存在しない。

あなたは肉我を自分として生きるから、生老病死という四苦に

取り憑かれているのであると。

だから、生命の我に生きたとき、すべてが平安ですよ。

まったく、恐怖がない。

しかし、あなたがたは、観念や概念で、肉我の世界を自分だと

考えている限り、いろいろな恐怖に怯えなければなりませんよ。

だから、生命という天国には、無恐怖の世界ですから、

これを極楽浄土といいますよ。

肉我に生きるのであれば、毎日、恐怖と不安に怯えなければならない。

ただ、この肉体を無茶にしてはいけませんよ。

神の宮ですから、生命の働く場ですから、宮ですから。

大切に掃き清めておかなければならない。

だから、人間という肉体は、生ける神の宮なりと。

生命の宮なりです。

全知全能の神がすべてに宿りたもうです。

これを認めたとき、偉大な力は、現れます。

どうして、認めるのに、こんなに時間がかかるの?

偽者を認めるのは、簡単なのに?

どうして、この本物を認めるのに、そんなに時間が掛かっているんですか

と言いたいんです。

どっちが本物ですか?肉的あなたと、宇宙生命と?

なぜ、肉の中に本物の自分を閉じ込めているんですか?

これを自縛といいますね。
本当の自分は、生命であって、肉ではないとはっきり言わねばならない。

イエス・キリストは、地や肉、姿、形に属するものにあらず、

我は生命なりと言ったんです。

イエス・キリストは、人間に属するものと言った?

生命に属するものと言った?

では、あなたは、生命なの?人間なの?

もう、今日から、人間やめたら、どう?

人間やめますか?生命やめますか?

みなさんは、人間というシンナーを飲んでいるようなもの、

酔っているんですよ。

だから、何をしでかすか、わからない。

みなさんは、本当の自分とは何なのだろうか?

物的存在なのか?生命の存在なのか?

徹底して追及していくべきではないですか?

それが、本当の自分を発見したとき、自己発見というのは、本当の

自分は宇宙生命であったと知ることが、本当の自己発見なのですよ。

まさか、自分は人間だったと発見した人はいないはずですよ。

わたしは、人間だったという発見があるのですか?

みなさん、悟ったら、何に到達すると思いますか?

人間ですか?神ですか?

神に到達するんですよ。神我到達と言って。

宇宙生命に到達するんですよ。自分は、姿、形ではなかったと。

宇宙生命だったと。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-11(Sat) 14:55:05】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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外から得るものは、有限でしょ?内から得るものは、有限ですか?

無限ですか?無限エネルギーですね。

そのことをよくよく、理解しませんと、世の中は、黒い聖書を持って

歩いていますけど、読むことは出来ても、意味の分からないものが、

一生懸命導こうとしてますよ。それは導けるはずがありませんよ。

意味が分からないわけですから。

聖書に書いてある文字の意味が分からない。

どうして、誰を導きましょうかと?

それは、牧師ではありませんよと。

牧師というのは、聖書に書いてある意味が分からなければなりませんよ。

あのよく、わたしたちは、イエス・キリストの信者でありますという

人がいますけど、なんて嘘をついているんだろうと。

今の世の中のキリスト教徒たちは、キリストを信じていませんよ。

キリストというのは生命がキリストなんですよ。

その現象我である肉体であるイエス・キリストがキリストなんですか?

生命がキリストですか?

生命を教えてあげなければいけませんよ。

聖書にはこう書いてありますよ。

一番大事なものを与えなさい。一番大事なものとは、命であると。

命を人々に与えなさいと書いてありますよ。

命を与えなさいと書いてあるのであって。

だから、彼らはイエス・キリストという現象我を拝み倒して

いるわけです。

これは偶像崇拝にしかすぎないんです。

イエスを信ずると言うことは、イエスの教えを理解しなさいと

いう意味なんですよ。

イエスの教えは理解しないで、現象我を拝んでいたらいいのですか?

現象我という形を拝んでいては、何の価値も得るものもないと。

イエスの何を言わんとしているか、何を言われたか、

これを学ぶことが、本当のキリスト教徒ではないでしょうか?

それが分からなくて、「おー、主よ、神よ。」と言っていれば

いいものではないんですよ。

だから、聖書には、御心を行うものだけが神の国に入るのであると。

むやたらに主よ、主よと呼んではならぬと書いてあるんですよ。

主よ、主よと呼んだら、皆さん、真我になるんですか?

なりますか?それを行うものがなるんですよ。

だから、そういうところも理解しませんと、世の中は非常に誤解と

そのドグマ的な宗教がすべてを支配していますと。

だから、伝統的宗教は、いまだかつて変わってはいませんと。

わたしが、なぜ、こういう聖書を読まないのに、こういうことが

出てくるんだろうと。

みなさんは、不思議かもしれません。

あるいは仏教を学んでもいないのに、どうして、仏教の専門用語が

出てくるんだろうと不思議かもしれません。

なぜ、不思議なのかというと、生命は意識体ですから、

過去がないわけですから、未来もないわけですから、

久遠しかないわけですから、生命はすべてを記憶していませんか?

すべてを記憶していますよ。年月が何千年前であろうが、

何万年前とか、そういうものがないわけですから。

これは記憶体ですから。だから、生命から語るとすると、そこに

年月があるはずがありません。

それを超えて、生きています。分かりますね?

だから、イエスの時代のその当時のものを私が思い出そうとすれば、

いくらでも思い出すことができますよ。

では、イエス・キリストとわたしの意識とは、異なるものですか?

みなさんとの意識とは?同じものですよ。

では、同じものであるのならば、すべて読みとることが出来るんでは

ないですか?出来る?出来ない?出来ますよ。

それは年月を越えて、出来ますよ。

これをアカシック・レコードというんですね。

アカシック・レコードというのは、どこかに、紙に書いてあるとか

そういうものではないんですよ。分かりますか?

その潜在意識の世界から、読みとるということを、アカシック・

レコードから読みとるということなんですよ。

意味分かりますか?

永遠の意識しかありませんから、そこに入っていけば、すべて、

必要に応じて必要なものを取り出すことができますよ。

では、今、現在、みなさんの中に宿っている、生きている生命と、

2000年前のイエス・キリストに宿っていた生命とは、

異なる生命ですか?同じですよ。力は?同じですよ。

知恵は?同じですよ。光は?同じですよ。

ほーれ、見てください。どこに何が違いがあるのと?

自分とイエスとの違いがあるというのならば、神への傍観者ですよ。

冒涜者ですよ。自分を冒涜するものは、神を冒涜するものなんですよ。

自分を傍観するものは、神を傍観するものなんですよ。

あなたが、わたしは人間だと見ているのなら、あなたは、神に対しての

傍観者ですよ。冒涜者ですよ。

あなたは、人間でもないし、肉体でもないし、個人でもないし、

生命そのものではありませんか?

人間そのもの?生命そのもの?

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-10(Fri) 20:01:01】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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無限生命を宿さない個人なんてありますか?

個人は無限生命の中に存在して、無限生命は個人の中に

存在していますよ。

あなたは無限生命から離れて、この肉体は、絶対に存在することは

できないんです。無限から離れた個人なんて、ないわけです。

では、あなたは、個人なの?無限なの?

無限生命が自分なのか?個人的人間が自分なのか?

どっちを見るから、無限生命というの?

生命を見るから?個人を見るから?

ほーれ、見てください。どっちが本物ですか?生命と、肉的物体と。

だから、人間本来、無限能力と言うんですよ。

これが、潜在能力なんです。

潜在能力の開発というのは、真我の開発ですよ。

真我を開発しなくて、潜在能力は得られるもの?得られないもの?

得られるはずがありませんよ。

生命は全知全能ですから。

生命は、一切を生かす力、一切を生かす知恵、一切を照らす光ですよ。

それは永遠に消えない聖なる光ですよ。

これを神聖火花と言っていますね。

聖なる火ですよ。

しかし、あなたがたは、いまだにこの肉体に取り憑かれていますよ。

あなたは姿、形に属するもの?生命に属するもの?

イエス・キリストは、何て言ったと思います。

我は、地や肉や姿、形に属するものにあらず、

我は生命なりと言ったんですよ。

あなたがたは、姿、形を我だと思っていませんか?

これだけの違いですよ。

じゃ、今から生命になるの?もともと生命だったの?

元々生命、その生命には、はじめもないし、おわりもない。

生命は、はじめを知らない、おわりを知らない。

永遠しか知りませんよ。

永遠の生命を得る、永遠の命を得るというのは、その意味なんですよ。

いつかは朽ち果てなければならない肉体に、なぜしがみついているの?

と言いたいんですよ。どっちが本物ですか?

朽ち果てるもの?朽ち果てないもの?

永遠の命を皆さんに与えたくて与えたくて、

うずうずしているんですよ。

肉体が命を拒んでいるんですか?命が肉体を拒んでいるんですか?

なぜ、拒むの?拒んだら、得するの?損するの?

損しますよ。これは、得するはずがないですよ。

で、その生命を受け入れたら、今の今、力あるものとなりますよ。

生命体というのとエネルギー体というのは、同じ事。

肉体と、物体というのは、同じ事。

ほーれ、見てください。あなたは、肉体だと思っていて、

どうしてエネルギーを高くすることが出来ますかと言いたいんですよ。

認めるものは現れるんですよ。

物質を認めていて、どうしてエネルギーを得ることが出来ますかと?

エネルギーを認めていて、どうして物質を得ますか?

はっきり、聖書にはこう書いてあります。

子供が石を欲しがるのに、パンを与えましょうかと。

パンを欲しがるのに、石を与えましょうかと、書いてありますよ。

その意味は、物質を欲しがるのにどうしてエネルギーを

与えましょうかと。

エネルギーを欲しがるのに、どうして物質を与えましょうかと

いう意味なんですよ。

今、みなさんは、物質が欲しいの?エネルギーが欲しいの?

その生命エネルギーに満たされて、初めて、我々は、活力を得ることが

できるんですよ。

物質をいくらかき集めても、活力を得ることはないんですよ。

この宇宙生命を食することをみなさんは、なんていっているかと

いいますと、正食といっているんです。正しい食と。

で、外から得る食べ物は、何食と言いますか?

雑食というんですよ。

宇宙生命のパンを食せよとイエス・キリストはいわれたのです。

天より下るパンを食せよと。

しかし、あなたがたは、いろいろと雑食にエネルギーを求めては

いませんかと?

外から得る食べ物は、みんな雑食なんです。

野菜を食べようが、何を食べようが。果物を食べようが。

果物や野菜を食べていて、正食していますと、

何を言っているんだろうと思うんですね。

なぜかというと、この生命は、生命エネルギーは、

有機物を含んでないんですよ。

無色透明の純粋なエネルギーなんですよ。

外から得るものは、有機物を含んでますから。含んでますね。

ゴミのついた食べ物という意味なんですよ、外から得るものは。

有機物を含んでますから。

だから、エネルギーだけは吸収して、有機物は排便してませんか?

あんなたくさん出ているんですよ。有機物が。

わずかなエネルギーしか吸収していませんよ。

だから、野菜を食べているから、正食しているとかいうのは、

大嘘つきですよ。

正食というのは、この宇宙エネルギーを頂くことが正食なんですよ。

外からはいるものは、口からはいる、日常生活の食生活から

入るものは、正食ですか?雑食ですか?

だから、わたしを食するものは、その生命エネルギーを食するものは、

永遠に生きるものとなる。永遠に乾かないと言ったんです。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-08(Wed) 18:41:54】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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天というのは、何かというと、生命は天ですよ、肉は地ですよ。

だから、肉に生きるは地獄、生命に生きるは天国ですよと。

だから、生命に使えるものは、天に使えるもの。

すなわち、天使となるわけです。

今、みなさんは、何に使えていますか?

肉に?だから、神は、一切の働き手である、天なるしもべの方で

あるというのは、生命はすべてに使えているものなんですよ。

そうでしょ、あなたにも、わたしにも、動物にも、植物にも。

だから、偉大なるしもべのお方であると。

これが、天使なんですよ。

生命に使えている人は、天に使えている人。

肉に使える人は、地獄の、サタンに使える人。

みなさん、肉の使い手になるべきですか?

生命の使い手になるべきですか?

あの使命という文字をみなさん、見たことありますか?

あるいは天使と。使命を全うするというのは、命に使えることを、

使命を全うするというのです。この肉体は、命の使いでしょ。

使い走りでしょ。肉の使い走りなの?

どちらですか?命はすべての主ですよ。

主よというのは、命のことですよ。

では、主はどこにおりますか?汝のうちにありです。

だから、主は、つんぼではありませんから、大きな声で、

「おー、主よ。」とかどこかにいるみたいに、言う人がおりますけど、

あなたの中に主はちゃんとおりますから、つんぼではありませんから、

大声を張り上げる必要はありませんと。

「おー、神よ。」とかどこかにいるみたいに言うけど、

自分の中にいるのに。

神は、つんぼではありませんから、大声を張り上げる必要はない。

これが、沈黙の祈りなんだと。

あなたが言う前に、神は知っていますよ。

命はすべてを知っていますよ。

命に隠せるものがありますか?

あなたの肉体の行いが、命に隠せますか?

四六時中、全部見ているわけですよ。

すべて、お見通しですよ、命は。命の使い走りなんですから。

命が知らないはずがないではないですか?

だから、神に隠せるものは、何一つない。

あなたが、隠れてこそこそと何かやっても、ともに命がやっている

わけですから、悪いことをやっていても見逃すはずがありませんよと。

だから、神に隠し通せるものは、どこかにいると思って

隠れてやっていても、自分のところにいるわけですから、

隠すことはできないと思いますよ。

そんなでたらめは、神がどこかにいると、あたかも見幕でも

張っておけば、見えないと思って。

神は至る所にいるわけですから。それは、隠せるものではありませんよ。

一つ、嘘ついたって、分かりますよ。分かりますね?

生命は至る所に存在しているわけですから。だから、皆さんという

肉体は、宇宙生命の中に存在しており、宇宙生命は、すべてに

存在していると。生命は一にして多神と。

一なる生命がすべてに宿りたもう。

そのことをイエス・キリストは、生命の木を把握しなさいと言いました

けれども、ここに無数の木の葉がありますけど、生命はいくつ

ありますか?この木の葉の生命も、こちらの木の葉の生命も同じ

生命ですよ。力も同じですよ。力はいくつありますか?

ひとつしかないですよ。

唯一、不死の生命、唯一、不死の力しかないですよ。

知恵はいくつありますか?ひとつしかないですよ。

知恵は無限大、力も無限大、生命も無限大ですよ。

これが、力の泉、知恵の泉、生命の泉ということなんです。

だから、生命の泉、知恵の泉は、汝の内にありです。

これは、有限ですか?無限ですか?

無限ですよ。これを全知全能と言っているのです。

すなわち、生命は、全知全能なんです。

肉体は、無知無力なんです。その知恵と力の、肉体は媒体にしか

すぎないんです。使い走りにしかすぎないんです。

で、我生命として生きるものは、天に生きるもの。

我肉として生きるものは、地獄の従者であると。

肉体離脱というのは、わたしは肉体ですと思っていて、

肉体から離脱することが出来ますか?

肉なる我から、生命なる我に帰ることが、天に帰ることです。

その生命は、汝の内にありですから、天は汝の内にありです。

神の国は、汝の内にありです。

これが生命の王国と。分かりますね。

だから、宗教家の説く天はどこにありませんよと。

だから、何か宗教しないと、修行しないと、天に帰れないよと

いうのは、本当ですか?嘘ですか?

修行しないと天に帰れない、神にならないというのは、

暗示にしかすぎません。集団暗示にかかっているわけです。

これ、誰が掛けたかというと宗教家がかけるわけです。

なぜ?、金儲けをするために。

あなたは修行して生命になるの?今即生命なの?どちらですか?

修行して生命になったものは、いまだかつていないと思いますよ。

今即生命であるはずですよ。

今から、生命になるんではないんですよ。

今、即無限であるはずですよ。

無限生命でしょ。無限生命は汝の内にありですよ。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-07(Tue) 12:31:47】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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皆さん方は、健康を維持するためには、天と地を一体

ならしめないとならないんです。

すなわち、肉体という地と生命という天が一体になったとき、

あなたは、完全ですか?不完全ですか?

完全となりますよ。

すなわち、病気の知らないものとなるわけです。

皆さんは、なぜ病気になるかといいますと、そのエネルギー、

生命エネルギーを否定して、物質にしがみつくからなるのです。

私は人間、物体だと思っている人は、エネルギーの高い人ですか?

低い人ですか?低い人ですよ。

だから、病気になるんですよ、疲れるんですよ。

その生命エネルギーは、無尽蔵ですから、生命エネルギーと一体に

なっている人は、天と一体になっている人。

神との一体感、宇宙との一体感なんです。

で、みなさんがそれをできるようになりますと、エネルギーに

満ちあふれるわけです。

そうしたとき、われわれの細胞は、細胞一つ一つに宇宙エネルギーに

満たされますので、それを活性化、細胞の活性化というんですね。

みなさんがたは、簡単に細胞の活性化をすることができるのに、

食べ物や飲み物で、細胞を活性化しようと、外にエネルギーを

求めているんですね。

外に神を求むるなかれというのは、外にエネルギーを求むるなかれ

という意味なんです。

神は汝の内にありということは、エネルギーは汝の内にあり

ということなんです。

その内なるエネルギーは、有限ですか?無限ですか?

だから、わたしを飲むものは、わたしを食するものは、

永遠に乾かないといったんです。

あなた方の食生活から得るものは、すぐに腹が減りますよね。

限界がありますから。エネルギーが減ってしまって、疲れますね。

しかし、無限生命、無限エネルギーとつながっていますと、

疲れることも、腹が減ることもないということなんです。

これは、無尽蔵ですから。疲れると思いますか?

では、みなさんは、肉体が働くのですか?生命が働くのですか?

おもしろいですね。

生命に働かしておいて、疲れるのは人間という。

働いたのは生命で、疲れたのは自分。

何を言っているんだろうと。分かりますか?

肉が働くんじゃないんですよ。生命が働くんですよ。

働いたのは生命で、疲れたのは肉体というのがありえるんでしょうか?

ありえることですか?ありえないことですか?

こんなことは、ありえないですよ。

それを観念で作り出しているだけなんです。

よく、日本の挨拶はちょっとやっかいなんです。

お疲れ様とか、ご苦労様とか。

何をご苦労と言っているんだろうか?

わたしは、南米から帰ってきて、この言葉を聞いて、何で、

こんなことを言うんだろうと、思ったんです。

お疲れ様です。疲れたらありがたいんだろうかと。

とんでもない挨拶があるもんだなと。

あの南米では、お元気ですかというのが、挨拶なんですね。

サルといって、お元気ですかというのが、挨拶なんです。

日本に来たら、お疲れ様ですというもんだから、これはやっかいだなと

思ったんですね。ここでは、何かとお疲れ様です、

ご苦労様ですというんですね。これ、ご苦労しちゃだめですよ。

だから、そういうところを直していかなければいけないんじゃ

ないかなと思ったんですね。人に何かお土産を持っていくときでも、

いい挨拶じゃないんですね。

「つまらないもんですけど。」と言いますね。

何で、つまらないものを持ってくるんだろうかと。

最初は、それもとまどいましたよ。

南米あたりでは、あなたが非常に気に入ってくれると思って、

おいしいと思って、持ってきましたと言うんですね。

つまらないものは、人には持ってはいきませんよ。

謙虚になっているようで、その言葉というのは力ですから、

つまらないものになりますよ。分かりますか?

おいしかったから、持ってきましたというのなら、いいんですよ。

もう最初からつまらないと言っているんですから、何でつまらない

ものを持ってくるんだろうかと。だから、皆さん方は、決して、

そういうつまらないものを人に差し上げてはならないですね。

気に入ってくれると思って、持ってきましたと言わねばなりませんね。

まだ、非常に人間の言葉はですね、謙虚のようで、謙虚でない部分が

あるんです。

わたしは、皆さんの前で、話をする立場ではありませんけどと。

なぜ、その立場でないものが、なぜ人前で話をするんだろうと。

非常におかしな話があるんですね。

もうわたしは無能力で、こんなところで話をする立場じゃありません

けどと、非常に謙虚なように聞こえますが、これは自己顕示欲ですよと。

分かりますね。ひとつの自己顕示欲にしかすぎないんです。

そう言っておけば、よく見てくれるかなと思っているだけなんです。

そういう資格がないのなら、話さない方がいいですよ。

なんで、そんな資格がないものが、話すんだろうと。

これも南米から帰ってきて、びっくりしました。

本当に、あいさつの前に、そういう話をする人が、結構いますね。

私は、みなさんの知らないことを話しますよ。

で、みなさんは、私の言葉ひとつひとつから得るものがありましたら、

どうぞ、得て下さいと挨拶した方が、いいですよ。

どちらがいいですか?つまらない話をするのと。そういうことじゃないですね。

これも余談なんですが。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-06(Mon) 12:38:23】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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だから、天というのはエネルギーの世界、地というのは、物質界と

いっているわけです。だから、天に帰るというのは、

エネルギーの我に帰るということなんです。

エネルギーは全宇宙に遍満しているわけです。

だから、エネルギーの世界には、内外がないわけです。

生命には内外がない。大きい小さいがないんです。

高い低いもないんです。

だから、神は無差別であり、平等であるんです。

エネルギーがここにあるんだ、あそこにあるんだと言ってはならぬと。

すなわち、神がここにいるんだ、あそこにいるんだとは

言ってはならない。神は、無形無双の宇宙エネルギーなんです。

すなわち、神は力なりき。エネルギーなりき。

では、この世の中には、エネルギーを宿さないものは一物もないわけ

ですから、神を宿さないものは、一物もないんです。

エネルギーを宿さなくて、ものは絶対に存在することは

できないんです。だから、存在の本源は、神であると。

すなわち、生命であると。

生命がなかったとすると、この物質界は存在できますか?

鉱物も動物も植物も人間も、すべて生命がまとっている衣装に

しかすぎないんです。すなわち、仮相世界なんです。

生命は実相世界です。

で、皆さん方は、この偽物は見ることが出来るが故に、触ることが

出来るが故に、どうしてもこれを我だと信じてしまうわけですね。

肉体を自分だと信じている人のことを盲信家・狂信家というんです。

生命を我だと信じている人は、真の信仰なんです。

だから、外なる信仰を捨てなさいと。

外なる自己と内なる自己とどちらが本物ですか?

生命は内なる自己、肉体は外なる自己なんです。

では、お釈迦様は、外なる自己を見よと言いましたか?

内なる自己を見よと言いましたか?

内観せよと言ったんですよ。

内は生命、外は肉体となっているんです。

天地一体というのは、生命と肉体は一体であると。

だから、天と地は、不可分であると。

だから、天は汝の内にありとなるわけです。

その大生命のことを大天というわけです。

肉なる我が生命の我に帰ることを、天に帰るというのです。

いつ帰るのですか?今ですよ。

今即天、今即生命なんです。

すなわち、今即神なんですね。

修行して、神になった人はいまだかつてひとりもいません。

みなさんは、はじめから生命であり、今も生命であり、

未来永劫に生命なんです。永遠の生命ですから。

生命には、新しいとか古いとかいったものは、ないんです。

古い生命、新しい生命というものがありますか?

だから、真理には、古い真理、新しい真理というのは、ないんです。

神は生命は、すべてに宿りたもう。

神はすべてに宿りたもうというのは、その意味なんです。

生命は神なんです。

だから神、我が中にましますと。

人間は一秒間も神から離れることはできないと。

生命から離れることはできないんです。

だから、存在の本源は、神であると。すなわち、生命であると。

生命イコール神です。

神イコール生命なんです。

で、それが我なんです。

だから、我生命なりなんです。我人間なりではありません。

もう最大の敵は自分を人間だと思っていることなんです。

わたしは人間だと思っている人のことを悪想念、盲信家、

狂信家というんです。あなたは人間ですか?生命ですか?

人間というのは、生命がまとっている衣装にしかすぎないのです。

人間は、生命の操り人形であると。

それを操っている生命があなたから抜けたら、これは死ですよ。

何もできません。だから、皆さん方は、この肉体衣装をいかに、

盲信、狂信している、これが本当に歯がゆくて仕方がないんです。

自分は、肉体、個人、形。何を言っているんだと。

ぱちんとやりたいくらいですよ。やりたいんだけど、仕方がない。

自由意志ですから。

何を言っているんだ、何で嘘をつくの?と言いたいんだけど。

だから、わたしは肉体という、これを肉体を自分と見ている人の

ことを盲といいます。

宇宙生命を自分と見ている人は、目開きなんです。

開眼したというんです。

だから、盲目の人生というのは、生涯、その姿、形を自分だと

見て終わることを、盲目の人生というのです。

生命を見よであって、肉を見よではないのです。

だから、外を見るな、内を見よ。

この生命は内なる自己、肉は外なる自己。

どちらが、本物ですか?

生命の自分と、肉の自分と?

本来の自分に帰ることを天に帰るというのです。

で、その生命は汝の内にありですから、天は汝の内にありと。

だから、宗教家が説くような天は、どこにも存在しません。

嘘つきであると。これを盲の指導者、偽りの指導者というんですね。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-05(Sun) 07:18:45】 | Trackback:(0) | Comments:(1)
生命は天、肉体は地(2)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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我、生命なのに、我、肉体だと思っている人がいかに多いかと。

その肉なる我が、生命の我に帰ることを天に帰ると言います。

あなたは、肉体を自分だと思っていて、天に帰れますか?

帰れませんよ。なぜかというと思っているとおりのもの。

この肉我を自分だといかに多くの人が思っているか。

では、我人間なりですか?我生命なりですか?

我、生命なりですよ。

自分が生命の自分と肉の自分と、どちらが本物ですか?

肉体は小我ですが、生命は宇宙我ですから、大我ですよ。

普遍我ですよ。久遠我ですよ。

すなわち、生命は、真我で、肉体は、偽我なんです。

肉体は偽物、生命は本物なんです。

あなたは、肉や地に属するものではない。

この肉体というのは、生命が働く場であり、働く道具にしか

すぎないのです。肉体は、生命の操り人形なんです。

この肉体という形体があなたなのか?宇宙生命があなたなのか?

どっちですか?宇宙生命なんですよ。

だから、お釈迦様は、宇宙即我、我即宇宙と言ったんですね。

今即天、今即無限なんですね。

で、みなさん、生命は無限ですから、みなさんは個人なんですか?

無限なのですか?生命のあなたは無限なんです。個人ではありません。

何を見るから、個人となるのですか?

生命を見るからですか?肉を見るからですか?

肉は確かに個人です。しかし、そこに無限生命が宿っていませんか?

だから、生命は、一にして多神と。

一なる生命が様々な衣装をまとっているだけなんです。

で、みなさんが見ているものは、すべて生命がまとっている衣装に

しかすぎないんです。これを肉体衣装と言っているんです。

じゃ、肉体衣装が自分なのか、宇宙生命が自分なのか?どっちですか?

我、生命なりですか?人間なりですか?

まだまだ、あなたがたは、自分のことを人間と言っていますよ。

人間の自分と生命の自分と、どちらが本当の自分ですか?

この偽物人間で目隠しされて、本物の自分を見失っていませんか?

すなわち自己発見というのは、自分が人間であることを

発見することですか?

宇宙生命が自分であることを発見することですか?

その宇宙生命という発生音を出しただけで、宇宙エネルギーの

バイブレーションがこの場でおこりますよ。

我、生命なりと、言ったならば、バイブレーションがおこりますか?

おこりませんか?おこりますよ。

で、その生命に使えるものが天使、天の使いとなるわけですね。

肉に使えるものは、闇の使いです。すなわち、サタンなんです。

だから、サタンに取り憑かれているというのは、肉体はサタンで、

生命はキリストなんです。肉の誘惑のことをサタンの誘惑と言うのです。

肉我に取り憑かれているということは、サタンに取り憑かれていると

いうことなんです。だから、この地上界は、50何億のサタンが

いますということなんです。

はっきりいいまして、肉体を我として生きているものは、

キリストですか?それともサタンですか?サタンですよ。

で、生命は全知全能なんです。

一切を生かす知恵、一切を生かす力なんです。

一切を照らす光。だから内在のキリストというのは、生命はキリスト。

イエス・キリストは、我、生命なりと言ったんです。

我、肉体なりと言いましたか?生命なりと言いましたか?

あなたがたは生命なのに、ここにいるときだけは生命で、

家に帰ったら肉体、サタン。

これを内在のキリストといって、生命はキリストなんです。

キリストという生命を宿さないものは、一物もないんです。

だから、キリストがここにおるんだ、あそこにおるんだと

いってはならないんです。

キリストは何名おりますか?一人しかいないんです。

唯一のキリストなんです。

キリストとは何のことかといいますと、真我のことを

キリストというのです。だから、生命は神なんです。

大生命のことを大神様というのです。

宇宙生命のことを宇宙心といいます。

だから、神は無限であると。

しかし、みなさん、一番のこの最大の敵は、この肉という

感化なんですね。五感といいまして、その肉という感化に

支配されてしまったんですね。

肉体離脱といいまして、わたしは、肉や地に属するものにあらずと。

我は生命なりと。生命の我に生きるものは、天に生きるもの。

肉に生きるものは、地獄に生きるもの。

天国と地獄というのは、生命は天国、肉体は地獄なんです。

その肉の中に、天国を閉じこめているんです。

神を閉じこめているわけです。

これを幽閉とか、自縛とかいっているわけです。

だから、あなたは本当に姿、形に属するものなのか?

生命に属するものなのか?どちらですか?

この肉体自らは何もできませんよ、生命が宿っていなければ。

死体ですから、身動きひとつできませんよ。

形の維持さえも、できませんよ。

だから、肉体自らは、無であることを、知らねばなりません。

では、肉体が生きて肉体が働くのか、生命が生きて生命が働くのか?

どちらですか?

死体が生きて死体が働くということは絶対ないのです。

この生命は、エネルギーですから、力ですから、はじめに力ありきなんです。

すべては力によって、なれりと。

これを宇宙力といっています。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-04(Sat) 11:18:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
生命は天、肉体は地(1)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

わたしが十数年前に学んだ思い出深い講話を掲載します。

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今日は生命は天、肉体は地、天地一体といいまして、

生命と肉体の関係、天と地の関係、そして、天は陽、

肉は陰について、ご説明致します。

生命と肉体の関係を陰陽の法則といいます。

すなわち天地の法則、天地一体といいまして、肉体という物質は、

天というエネルギーから離れることはできない。

天は男性原理、地は女性原理。天の父、母なる大地。

みなさんがたは、このバランスを取れば、病気になる必要はないと。

肉体はエネルギーですか、物質ですか?

物質です、生命は、エネルギーです。

生命エネルギーと肉体という物質は、不可分であると。

しかし皆さん方は物質主義となって、生命エネルギーをまったく

無視して生きようとする傾向があると。

ということは、陰陽のバランスが取れていないということなんです。

そのバランスの取れた人のことを愛の人といいます。

ではみなさんは、バランスですか?アンバランスですか?

アンバランスだということは、不調和だということ。

神は愛なりといいまして、そのエネルギーとその物質とのバランスが

取れれば、完全であると。すなわち、病にかかることはないと。

でもまだまだ皆さん方は、この肉体という地にすがみついている。

すべて物質だと考えているんですね。

これをみなさん、物欲、色欲と言っているんですが。

エネルギーなくして、物質は存在できますか?

そのエネルギーの世界を、みなさん天界と言っているんですね。

天は汝の内にあり。エネルギーの世界。

すなわち、エネルギーの世界は男性原理、物質は女性原理。

だから、受け身になりなさいと。

だから、みなさんがたが、物質にしがみついていることは、

色、陰影にしがみついていると。色、陰影に取り憑かれていると

いう意味なんですね。色情に溺れていると。

だから、みなさんがたは、物的存在なのか?生命の存在なのか?

で、その生命というのは、宇宙にいくつありますか?

ひとつしかないんです。

大生命のことを大天と言っているんです。

天地一体と。天は男性原理、地は女性原理。

この天と地の一体感をなさねばならないんですね。

みなさんは、まだまだ分離間を持っているのです。

この天は汝の内にありということは、生命は汝の内にあり。

エネルギーは汝の内にありと。

その生命は大生命ですから、大天なのです。

肉なる我が生命の我に帰ることを、天に帰ると言います。

その大生命のことを大我というし、宇宙生命のことを宇宙我と

いいます。

これは久遠ですから、久遠我ともいいます。

生命には、はじめもないし、終わりもないんです。

この肉体という物体は、宇宙生命の働く場であり、

働く道具にしかすぎないのです。

で、宇宙生命のことを宇宙エネルギーと言うんです。

無限生命のことを無限エネルギーと言うんです。

だから、神は力なりき。

これは宇宙力を得ると、無限エネルギーを得ると。

これは、わたしは物質です、肉体です、これを自分だと思っていて、

無限エネルギーを得たものは、ひとりもいません。

天の声といいまして、声は、肉に属するものですか?

天に属するものですか?

声、天より来たれり。

その声は、命に属するものであって、肉に属するものではないのです。

すなわち、死人に口なし。物質に口なしなんですね。

死体に言葉はありません。言葉は、命、すなわち生命なんです。

言葉は力なりき。エネルギーなりきなんです。

なぜ、そうなのかといいますと、この肉体というのは、

物質で出来ています。

物体です。しかし、この物体だけでは生きることが出来ないんです。

そこに生命というエネルギーが宿って、はじめて、これは生きるものと

なるわけです。物質に声がありますか?

その生命は天ですから、天の声と言って、生命から語ることは、

天の声。声、天より来たれるというのは、生命より来たれりと。

で、天使というのは、みなさん、肉に使えるものは天使ですか?

生命に使えるものをこれを天命といいまして、天は命ですから、

天命を全うするということは、肉我に生きることですか?

命に生きることですか?

命に生きよであって、肉に生きよではないのです。

みなさんは、肉体を我として生きているのなら、あなたは天命を

全うしていません。

だから、イエス・キリストも、命に生きよ、生命に生きよと

言ったんですね。

イエス・キリストは、我、生命より語ると言ったんですね。

みなさんは、肉で語るわけですから、闇の声となるんです。

天の声というのは、内なるもの。生命は、内なる自己。

肉は、外なる自己なのです。

どちらが本物ですか?生命と肉と?

これは大生命ですから、これが本当の自分なんですね。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




生命は天、肉体は地 | 【2006-03-03(Fri) 18:33:25】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(完)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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正しく愛し、正しく皆さんが生きることが、喜び、やすらぎ、

幸福である秘訣ではないでしょうか?

だから、誰もが苦しもうが傷つこうが、破壊されようが、

言いたい放題、思いたい放題、やりたい放題。

とうとうすべて自分自身を通して、苦しみ生きている人の

何て多いことか?

決して、我々は、何をも縛りあってはなりません。

執着しあってはなりません。

家内は、共に学び、共に一体感で生きるがために、毎日、

幸福でいるために、家族が与えられたのであって、私の都合

いいように、家内は、私の道具として使うための家内では

ありません。

わたしは、また家内の所有物ではなく、家内に思うままに

使われる存在でもありません。

互いに足りないものは補いあって、いいものは分かち合って、

本当に一歩一歩、一段一段、積み重ねて魂を磨き、本当に

神との融合であるまでの、共に学ぶためのものではないでしょうか?

だから夫婦とは、この流れる川に投げ込んだ二つの割り箸の

ようなもの。

一時は、寄り添って流れていましょう。

しかし、流れが変わったときには、あるものは草に引っかかり、

あるものは岩にぶつかって、大海という大海につくのは、お互いに

めいめいが、違って行くではないでしょうか?

まさか、2本の割り箸を、川の流れに投げたときに、全く寄り添って、

最後の最後まで、大海に到達することはないではないでしょうか?

それが夫婦というものであることを知ってもらいたい。

かといって、わたしは旦那さん、奥さんを粗末に、あるいはそのように

生きろという意味ではありません。

大事にして欲しい。

大切にして欲しい。思いやりいたわって欲しいと言います。

しかし、所有物ではないが故に、執着してはならぬと。

だから、家庭で、家族で、親子で、夫婦で、執着しあって、

己の所有物のように、使いあわんがために、苦しみ生きている、

もう常に戦いあっている家族が何て多いことか、周りを見れば。

この執着さえ、解き放てれば、何て即、幸せを掴むことが、

幸福でいることができるでしょうに。

だから、わたし、自慢ではないけど、よくわたしが夜中に、

ほとんど私はもう食事抜きで、出張し、走り回っています。

それで、そのような状態で、もし夜中に、仕事を終えてきて、

本当に何か食べたいならば、家内はわたしを起こしてくれと言います。

わずかなそのお腹を満たすために、どうして相手を妨げる必要が、

相手を起こす必要がありましょうかと。

シーチキンでも空けて、ごはんに、しょうゆでもかけて、

食べればこれで十分。

だから、ほとんど、家でも食べないし、出張でも食べはしないけど、

いつでもわたしが食べれるようにシーチキンはいつも

積み上げています。みなさん、シーチキンが欲しいのなら、

わたしのうちを訪ねてきて欲しい。

カップヌードルでも3カ年でも何カ年でも、全く無病で、

この世に生きることもできます。

皆さん自身が、本当にすべてを完全なる宇宙エネルギーとして、

みなさんが理解して、生きるのなら、まあもちろん、

みなさん宇宙意識、宇宙生命を我として生きることが出来るのなら、

あえて、みなさんは寝て睡眠を取って、そこにエネルギーを

チャージする必要もない、

口に投げ込んで食事する必要もない。

なぜ? 皆さん自身が即、そのものであるから。

しかし、宇宙生命と我とは、分離という切り離されている結果、

みなさんは、言葉で、思いで、見ることに、仕事で、様々な状態で、

エネルギーを消耗します。

その消耗したエネルギーを満たさなければ、明日肉体を維持することが

出来ぬが故に、口に投げ込んで、食物の持つエネルギーを

チャージします。

それ以上にチャージしたい皆さんは、この肉体を横に寝かせます。

そして、横に寝かしたときに、まあ、特に人を恨み、ねたみ、そしり、

ネガティブ、消極、破壊的なその言葉、思いを持ったときは、

強烈にそのエネルギーを消耗します。

だから、みなさん、怒って、みなさんは、へとへとにならぬ人間は、

ひとりもおりません。いつもエネルギー不足、それを皆さん自身が、

寝ているときに、エネルギーを消耗する人はいないがゆえに、寝て、

みなさんは、睡眠をとって、このエネルギーを精一杯チャージして、

さあ、翌日は、しっかり働けるよと、活力を得ているのがあなたがた。

その大きい、拡大したのが、わたしがみなさんに訴えている死と

申します。

では死というのは、怖い存在ではなく、怖いものではなく、

一転生という人生を終えて、解脱しているのならばいいでしょう。

解脱、離脱に失敗したときに、次、また新たなその肉体という衣装を

まとって、さあ、もう一度、正しく人生をやり直すよというのが、

この死。

つまり休息ではないでしょうか?

では、皆さん自身が、この死を恐れるというのならば、わたしは、

もう今日から、寝ないよという意味ではないでしょうか?

まさか、睡眠を恐れた人間なんて、いましょうか?

誰よりも、いっぱい寝た方が得という人間もいるではないでしょうか?

それは皆さん自身が、理解したときに、生老病死という四苦は恐れる

ものではありません。

本当に一段階、そこにおかれていることを知るでしょう。

正しく、我々は真理を理解し、正しく受け止めて、

本当に悔いのない一転生、我々は歩み行きたいと思います。

共に手を取り合って、無限という大海の中に、融合が出来るまで、

大海の中に錨おろせるまで、共に我々は努力したいと思います。

本当に皆さんと共に、学び会えたことを、心から感謝します。

どうもありがとうございました。

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-03-02(Thu) 18:25:08】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
執着とは?(8)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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踏まれても踏まれても、根強く忍べ道芝の、

やがて花咲く春も来るらん。と言われるように、

誰からばか扱いされようが、誰から気違い扱いされようが、

もうわたしはそこに必死にしがみついて、努力しただけ。

とうとう神は、わたし自身に、我は神なり、神は我なり、

神と我は常に一体なりという、命そのものとの一体感が、

すべてであることをわたしは、実感させてもらいました。

そのときからは、この状態で皆さんの前に立っていながらも、

話をしながらも、食事をしながらも、働く中にも、明想状態。

だから、あえて、目を閉じて、座っていることではなく、

生活そのものが、わたしは明想と申します。

では、わたしが、ただ目を閉じて、座っているときだけが、

我神なり、我真理なり。

で、家内を見る目が、肉的な女性として、形としての衣装しか

見えない。

あるいは子供たちを肉体、人間としてしか見ることができない。

あなたがたも人間としてしか見ることができないでは、

何の明想でもなければ、何の価値もありません。

どこに目を向けても、神の見れる自分。

神を映し見れることの自分。

どこに意識を向けても心を向けても、そのものに神を

感じていれる自分。

これが本当の明想状態。

だから、全世界を支配する力、この大宇宙を支配する力が

与えられても、あるいは皆さん自身が、空を飛べるからとて、

テレポートができるからとて、瞬間移動ができるからとて、

物質化現象ができるからとて、それは何の悟りでもありません。

では、それだけの能力を与えられてこの宇宙を支配する力が

与えられても、本当の自分を見失って、悟りがありましょうか?

そのような能力は与えられても、真の自分が宇宙真理であることに、

目覚め生きることができぬならば、それは、無知、迷い、盲の人生

他にないではないでしょうか?

だから、わたしもかつては、もうその様々な現象的な表現を、

さんざんしてまいりました。

明想中に浮いてみたり、相手を浮かしてみたり、様々な状態を。

それは、悟りそのものではなかった。

では、あのときは、今以上に、短気や怒りやそういうものを

持っていながら、その表現ができたからとて、

悟りであったでしょうか?

何の価値もありません。

悟りとは、無所得、無差別、無条件にすべてを許し愛す、無限の愛で、

すべてを包容するその力、その知恵、

その光であることを知ってもらいたい。

我は悟りなり。それは、皆さん自身が、本当の我を宇宙真理として

実感することではないでしょうか?

直感したことではないでしょうか?

現象ではありません。

決して、誰からよりもその能力を与えられたから、

悟りではありません。

悟りは、愛の深さです。

悟りは、愛の高さです。

悟りは、皆さん自身が、無限に、無限に込み上げてくる、

その喜びの境地を、味わっていることが、それが悟りであることを

知ってもらいたい。

神は、喜びであり、神は、幸せであり、神は、至福であり、

神は、幸福であるから。

我々は、決して、現象、現象、現象に振り回されることなく、

だから、よく、そういう現象を弄んだ方々が、わたしがまだ沖縄で、

神性意識研究所にいたときに、よくいろんなセミナーで参加してきて、

それをいくらのお金で学んできたかは分かりませんけど、

名刺で割り箸を二つに切ってみたり、はがきで割り箸を二つに

切ってみたり、その能力をあたかも悟りと勘違いして、おまえに

このことができるかとよく言われました。

何を言うのかと。

神は、何のために、箸。箸は皆さん自身が、食事を取るために

与えられたのが箸。スプーンはスープを飲み、コーヒーや紅茶を

かき混ぜるために与えられたこのスプーン。自らの能力を過信して、

首をねじ曲げてみたり、折ってみたり、二つにたたき割ってみたり。

そのためにその能力は与えてないんだと。

出来ると信じようが出来ないと信じようが、それは

あなたがたの自由意志。

たとえ出来たにしても、神が創造したもの、無茶苦茶に、むやみに、

破壊するために、崩すために、わたしは、その力を

与えられていないんだと。

すべては正しい建設をせんがために、愛にその力を、思いやり

いたわり使いきるために、与えられた能力であることを

わたしは伝えます。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




執着とは? | 【2006-03-01(Wed) 00:00:05】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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