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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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真の自分について(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

---------------------------------------------------

この世で威張っているものは、ほとんどの人が不完全なる人なんです。

完全なるものは、威張らないんです。

威張るということがないんです。

自慢するということがないんです。

なぜなら、無欲だからです。

この世に存在する欲深いものが、人に自分をよく見られたい、

偉いものだと見られたい欲望があり、威張るんです。

それは無知そのものなんです。

賢者は威張りません。愚者は威張ります。

賢者は飾りません。愚者は飾ります。

で、自分にないものまで、見せたがる。

それは偽りであり、偽物であり、悪であるわけです。

だから、今、私たちは、この肉体が何のためにあるのかという

ことを悟って欲しい。

その肉体が何なのか?

何のためにここに創造されたんだろうか?

何のために生まれてきたんだろうか?

どうでしょうか?

実相を表現するために生まれてきたんです。

修行のためでもあると同時に、私たちは実相そのもの、完全さを

表現するために、現れているわけです。

そして、あなたがたがその修行を終えられて、完全さを肉に現した

とき、もう修行の、この世のすべては終わったということになるんです。

今世で、皆さん方が、何パーセントまで、その完全さをこの肉に現す

ことができるか?

あるいは、相当の表現体として、この世に今、皆さんがたが、

この世を去られるまで、どの程度まで、自分の肉を通して、神我を

表現できるかによって、修行ができたのかできなかったのかが

決まるんです。

人を憎んではいけません。悪口を言ってはなりません。

なぜなら、神我には、憎むとか、悪口とか、悪とか、そしりとか

一切ありません。

迷いの中に、ねたみやそしりや、怒り、嫉妬、そういうものが、

存在するんです。

そして、それが皆さん方の思いの中に、行動の中になくなったとき、

皆さん方、どんなに平安でありましょう。

やすらぎでありましょう。

それは、皆さんの魂の曇りが、無知が、取り除かれますので、

平安であるのは当たり前なのです。

だから、成仏の完成された次元、神界というのは、平安の次元だと

いうわけです。

この世で不安と恐怖に満たされているものが如何なる宗教をやり

ましても、彼らの帰るべき天上界は、どこにも存在いたしません。

なぜなら、その不安と恐怖は、どこまでも彼の意識に潜在している

からなのです。

私たちには、潜在意識というのがあります。

その潜在意識は、いいことも悪いことも記憶しているのが潜在意識

なんです。

そして、この世に生きている皆さん方の表面意識というのが存在

します。

それは肉意識ともいうわけです。3次元意識とも言うわけです。

呼び名はどうでもいいわけです。

そして皆さん方は、今、何を意識して生きているんだろうか?

3次元的な物事だけを意識しているんだろうか?

そうだったら、皆さん方は、外に生きているんです。

物的人間として生きているんです。

その表面意識の下に潜在意識というものがあって、その奥底に

何があるかというと、神意識というものがあるんです。


--------------------------------------------


今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




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真の自分について | 【2006-04-30(Sun) 01:08:52】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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神界というのは、完全なる次元のことでございます。

神界に不完全な人間が住んだら、どうなりますか?

神界ではなくなるわけです。

完全なる世界ではなくなるわけです。

不完全なる人間の住処は、ここである幽界であるわけです。

だから、幽界もまだ現象の世界というわけです。

またこの世に、舞い戻ってくるわけです。

幽界でも幽体という乗り船を通して、むこうでまた修行して、

また肉界に戻ってくるわけです。

これを皆さん方も今まで数世紀に渡って、私たちはこの世に

自分の本質である神我を知らなかったがゆえに、私たちは今、

不完全なるものとして、不完全なる思い、意識を起こしてきてる

わけです。

皆さん方もそれを分かりましたら、自分の本質は完全無欠であり、

無病であり、実相そのもの、神界に存在するものであり、この世に

肉というものが映しにすぎない。

神の実相そのものを私たちは、肉を通して、この世に投影しなくちゃ

ならない。映さなくちゃならない。

そのとき、私たちは、如来となるわけです。

如来というのは、上から現れたものの事を如来というわけです。

あそこは、上です。ここは、下です。地上界です。

だから、上から現れたもののように、私たちが、ご自身がなら

なくちゃならいんです。

それを如来、菩薩。

私は如来だと言う人が世の中にはいますけど、しかし、本当に

如来のような言葉遣いとその神我を現しているのかというと

本当に疑問です。

私は如来の生まれ変わりだ、光の天使だ、という人はいます。

いますけども、彼らは如来が何なのか?光の天使が何であるのか

理解していません。

光の天使であるならば、完全無欠であるはずです。

言葉において、思いにおいて、行動において、みんな完全なる

神そのものを現しているはずです。

今、自分がどの程度のものであるか、みなさんがたは、自分自身を

問い返してみてください。

本当に自分は、今、現象我という3次元という、目に見えるもの、

感覚で感じるもの、肉の感化に迷わされてはいないんだろうか?

それにとらわれて、これがすべてだと思い込んでいるんでは

ないんだろうか?

そう思っている人は、完全に自分の神我から遠ざかった偽我そのもの。

迷いそのもの、無知そのものであるわけです。

なぜ、みなさんは、この世で人を憎まなくちゃならないんだろうか?

それは現象我に囚われている、迷っている人間の言葉に迷わされている。

迷っている人間の姿に迷わされている。

彼らの悪い部分を現しているのは、迷いの姿なんです。

悟りの姿でないんです。

悪い言葉遣いをしている人間は、迷いの言葉なんです。

なぜ、迷っている人間の言葉や迷っている人間の姿に迷わされなくては

ならないんだろうか?

そこまで、もう言えば、皆さん方は、今まで、自分が如何に愚かな

ものであったかということが分かるはずです。

神の姿というのは、完全なる言葉遣い、完全なる思い、完全なる行動。

出来ている人は、天に近い人。神に近い人。

無意識のうちに、学問はないけれども、完全さを現している人も

いるんではないんでしょうか?

学問はいっぱい持っていても、偽我そのもので、不完全なる言葉遣い、

不完全なる思い、不完全なる行動をしている人がいっぱいいるんでは

ないでしょうか?



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-04-29(Sat) 16:22:59】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(5)
人の悪口は一切言わない、憎しみはない、愛深い人、本当に言葉

において、思いにおいて、行動においても、本当に完成された

人間として、この世に誕生してくるわけです。

そういう方々の言葉遣いや思いや行動を見ますと、皆さん方は、

あの人は生き神様みたいですねと言うはずです。

それは神に近い存在。

完全なる自分に、完成された仏に、そういう方々は、この世を

去りますと、成仏していくわけです。

完全、成仏なんです。

この世でよく成仏、成仏という言葉が、使われていますけども、

非常に誤解されて、観念で捉えています。

うちのご先祖様は、成仏しているんだろうかとか。

その成仏していないから、供養しなくちゃならないとか、また

迷いが生じてくるわけです。

そう思っている供養している人も不完全で不成仏霊なんです。

不完全な人間なんです。

不完全な人間が、どうして不完全なる霊を供養できますか?

自分でさえも見失っているんですよ、完全さから見失っているのに。

自分の実体から離れて、苦しみや悩みやそしりや怒りや、さまざまな

不完全さを現している人間が、どうして、この世を去られた不成仏霊を

供養できますか?

成仏するにはどうしたらいいか?

ご馳走をあげることによって成仏するのでしょうか?

どうでしょうか?皆さん方、ご馳走をいただけば、悟るんでしょうか?

真の人間になりますでしょうか?

どうしたら、皆さん方は、真の人間になれるんでしょうか?

だから、今日一日に、迷った言葉遣いをしなかったか?

迷っている思いがないか?この3次元の現象我にとらわれていないか?

自分の本質から離れた存在ではないか?

一生懸命、反省して、日々日々、皆さん方は自分の中に、肉体に、

完全さを表現することによって、成仏し、完成されていくわけです。

拝みや信者で、いくら仏を何十万回、拝みましても、何の意味もない

というのは、そこにあるわけです。

彼らは、盲信狂信しているだけで、そんなもので、成仏するわけは

ないのです。

これが、成仏すると教えている盲目の指導者が、世に多すぎるという

ことです。

あなたを成仏できる、あなたを成仏させきれるのは、誰だと思いますか?

そうです、あなたを成仏させるのは、あなたなんです。

そのことを汝の救いは、汝自身なりと言っているわけです。

決して宗教ではないのです。

そこを良くご理解いただきたい。自分を完成するのは、自分自身で

あって、宗教ではないのです。

宗教が天国に帰すのではないのです。

自分が天国に帰るのか帰らないのかは、自分が悟ることによってのみ

行えることなんです。

そして、日々の生活の中で、自己完成をしていくわけです。

完成されていない人間は、まだ不完全なにんげんですから、

まあ何回も何回も、この世で自分の本来の真我に気づくまで、

それを私たちが、肉が真我を表現できるまで、この世に生まれ

かわらなくちゃならない。

このことを転生輪廻と言っているわけです。

迷っている間は、必ずこの世に生まれ変わる。

私たちが神の実体を現すことができない間、神に帰れないんです。






真の自分について | 【2006-04-27(Thu) 22:24:30】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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利己主義者であったり、自己中心的であるということは、非利己的

から遠くはなれた、完全から遠く離れた、不完全な姿。

それが迷いの姿。

だから、世の中には、迷いが深い人と浅い人と、色々とさまざまな

意識のレベルがあるわけです。

皆さん方から、神に近い存在になるためには、どうすればいいのか?

もうお分かりですね。

憎しみがなくなったり、怒りがなくなったり、嫉妬がなくなった、

悪口を言うのがなくなった。

不完全なるものを皆さん方から、その肉体が、その不完全なるものを

現さなくなったとき、それが排除されたとき、皆さん方は完全なる

神我に近いわけです。

で、皆さん方が、自分の本質は神我であるという自覚ができて、常に

これを憶念して、今日一日、私は完全なる神の姿をこの肉を通して、

言葉において、思いにおいて、行いにおいて、現して見せるぞと、

一生懸命、今日という一日一日、皆さん方は難行苦行せねばならぬ

のです。

それを通して、習慣性となって、良い言葉遣い、良い思い、良い行い

が出来たとき、皆さん方は、完成された魂となるわけです。

決してこれは、宗教とか、何かのものによって、魂が高揚するわけでは

ないのです。

皆さん方が是非しなければならないのは、皆さん自身であるわけですね。

これが皆さんの救いであるわけです。

このことを汝の救いは汝自身なり。

神は自ら助けるものを助く。

私たちと神という境目、この境目は、どこにも存在しないのです。

心の迷いの中に存在するわけです。

このベールが解けたとき、皆さん方は、我は神我なり、我は神なり、

完全無欠の存在であって、この肉というのは、神の完全さを現す

媒体にしかすぎない。

分かりますか?非常に大切なことですよ。

これを今まで、説いてきた人はほとんどいないわけです。

では、わたしがあの世に出入りすることが出来て、この完全なる

世界に自分をコントロールして入ることが出来てこそ、これが

明かされたわけです。

そうしたとき、自分の本質は何だったと思いますか?

皆さん方は神我であった。

我は神我なり、神我というのは、何かというと、我は神なりなんです。

神なりと書くわけです。

だから、皆さんがたが今生きているのは、偽我。

3次元的な、肉的なものの思考。

これに目が眩まされてしまって、偽りの自分、偽物の我の中に

皆さん方は、我だと思っているわけです。

不完全な我を我だと思っているわけです。

不完全な我は、迷いの我なんです。

だから、完成された仏、成仏と書きますね。

いつも、私は言うわけです。

成仏とは、この肉が完全さを現したとき、仏となるわけです。

まだまだ不完全なものはどう書くかというと、不成仏と書くわけです。

だから、私たちはこの世から去るとき、私たちの中に、悪があり、

憎しみがあり、怒りがあり、利己的である人は不成仏霊なんです。

この世に肉を持っているときに、私たちは不成仏霊なんです。

不完成な人間なんです。

不完全な人間。完全ではないんです。

完全な人間というのは、その人間に欠点がなくなったとき、

憎しみがなくなったとき、怒りがなくなったとき、そしりが

なくなったとき、嫉妬がなくなったとき、そうしたとき、完成された

人間ですから、そういう人間のそばに行きますと、皆さん何と思います。

生き神様みたいだと言うんじゃないんですか?






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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-04-26(Wed) 21:43:09】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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その真我があなたであって、ここにあるのは3次元におられる

皆さん方は、映しなんです。

その4次元以降の神界にある我を、この世の肉体に現さなくちゃ

ならない。

何パーセント現すことが出来たか?今生で。

だから、第一イニシエーションというのは、神の完全さを10%

映した方を第一イニシエーションというのです。

20%映した方を第二イニシエーションというのです。

30%映した方を第三イニシエーションというのです。

私たちは、本当に神の完全さを自分の肉体に何十パーセント映して

いるんだろうか?

そして、第五イニシエーションまでなりますと、その方々は約100%

完成された魂。

50%私たちがこの世で、第五イニシエーションまでなりますと、

覚者となるわけです。

まだまだ、50%なんですね。

完全ではないわけです。

完全になるには、まだそこにいきましてから、色々と神界に

帰りましてから、100%という完全さが現れるわけです。

この世から解脱する魂、本当にその光の天使として、帰られる

方々は、約50%。もうこの地上界に生まれてくる必要のない

方々というのは、50%の完全さをこの肉を通して現している

人々なんです。

本来、私たち自分という皆さん方個人個人が、肉を通して何パーセント

神を表現しているんだろうか?

それが問題でございます。

それが皆さん方の悟りの段階でございます。

完全なる自分の中には欲望もありません。

憎しみもありません。何もありません。

そしりもありません。嫉妬もありません。

嫉妬もない状態、怒りもない状態。

そういうその悪い部分が、私たちの肉体から離れたとき、排除された

とき、皆さん方は、その分だけ神に近い、実相世界に近い、真我に

近い存在となっているわけです。

それが、皆さん方の意識の段階であり、魂の高揚、魂の高さで

ございます。

魂が低い、高いというのは何かというと、完全さをこの肉体が、

言葉において、思いにおいて、行動において、何パーセント

現しているか?

これが魂の高さであり、意識の高揚でございます。

あの人は意識が高い、という人がいますけど、非常に欲深い人に

意識が高い人、ただたくさんの色々な本を読んでいるから意識が

高いというのではありません。

色々な本を読んで、真理を記憶しているからといって、高いという

意味ではありません。

どんな無学な人でも、勉強がなくても、年寄りでも、あるいは

女性であろうが、男性であろうが、完全さを現している人こそが、

意識の高い人でございます。

決して学問があるから、意識が高いという意味ではないわけです。

この皆さん方の真我というものは、完全でございます。

今、私たちは、この肉体という不完全の世界にいるわけです。

本来は完全であるべきなんだけども、周囲の人が不完全であるが

ために、私たちまでその不完全という習慣性になれてしまっている

わけです。

その周囲の人々は、憎しみを持っています。怒りを持っています。

人の悪口を言います。色々と破壊的想念、破壊的言葉遣い、

人を傷つけようが何をしようが、分からない。

利己的、そういうのを持っているわけです。

しかし、実相たる我々は、非利己的なんです。

神そのもの、無欠そのものなんです。




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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-04-25(Tue) 23:35:49】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(2)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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そして、この世に現れた覚者方、この世から悟りを得て帰られた

という方々は、どういう方かといいますと、自分の実体を悟って

しまうわけです。

自分という存在は、神の、我神なり、我生命なり、その存在であって、

決して肉の存在ではなかったんだ。肉はその映しにすぎない、

表現体にすぎない。完全さを現す道具にすぎなかった。

ということをお悟りになって、自分の肉を通して、その神の愛を、

慈悲を、この肉を通して、表現して、完全、その肉に完全無欠

の存在を表現して帰られた方々を完成された魂というわけです。

私たちは、まだまだ未完成でございます。

なぜなら、自分の実体さえも分かりません。

この世がなぜ存在するかさえも分かりません。

なぜ、あの世があるかさえも分からないわけです。

あの世というのは、皆さん方の実相である真我も、霊界に

存在するわけです。

この世は物資界というのは、霊界の映しにしかすぎないわけです。

仮の姿、だから、昔の人は、この世は仮の宿だと言われたわけです。

そして、その皆さん方の真実なるものは、真我そのものは、

皆さん方の内界である心の奥底に存在するわけです。

そして、皆さん方の実相は、我神なりという瞑想に入って、

なるほど、私の真我そのものは、神、完全無欠の存在なんだけども、

私たちの肉が、肉の3次元に現れている間に、色々、ぼけてみえる。

完全さがぼけているわけです。

曇っているわけです。スモッグがかかっているわけです。

それは、そのスモッグは何から来たのかというと、迷いから来ている

わけです。

自分の実体を見失っている状態の人は、多く曇っているわけです。

で、実相を現している人は、やや光に近いわけです。

例えば、愛深い言葉遣い、愛ある思い、愛ある行動を起こしている

のは、実相に、その真の自分に近いわけです。

その方々は、神に近い存在だというわけです。

だから、皆さん方、この地上界の目的というものが、みんな

見失っているわけです。

その目的が何なのか、分からない。

私たちは、この世に、神を現さんがために、肉を持っているわけ

です。

神とは何かというと、完全なる知恵である存在。

人間は、今、無知という、神霊に対して、その内界に対して、あまり

にも無知のために、私たちは、物質界という3次元で、迷い苦しみ、

その本質から離れた姿、言葉遣い、行動、行為を起こしているのを

見て、判断するようになって、迷いの姿であるんだけども、これを

実在するものだと受け止めて、そこで、対立と競争、憎しみという

のを体験しているわけです。

決して、実相において、真我において、皆さん方は、一度だって

苦しんだこともない、迷ったこともない、病気になったこともない。

この世界は、病気なしなんです。

無欠、無病なんです。

だから、本来、ここに病気を現しているのは何かというと、私たちの

迷いの心が創造し、心が勝手に、心から派生した悪なるもの、

いろいろなものを造って、そこで自らが自らの地獄を造って、

苦しみを造ってもがいているだけなんです。

あなたという、本質のあなたは、この世に存在しないわけです。

だから、私は、よく講話の中に、私はこの世にあるとともに、

あの世のものであると、私はよく言うわけです。

あの世のものというのは、わたしは、この実相のものを指している

わけです。

この実相は、神と一体でございます。

神と一体なんです。

その完全なる神と一体、完全無欠の我が真我なんです。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-04-23(Sun) 21:09:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(1)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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今日は、真の自分についてご説明したいと思います。

私たちには、真我と偽我というものがあることを知っておられますが、

真我というものは、どこに存在するかと言いますと、なかなか

知らないのでございます。

真我の存在するところは、神界と言いまして、完全なる界層に、

私たちの真我は存在するわけです。

そして、真我というのは、完全無欠であり、実相そのもので

あるわけです。

で、私たちが今、この3次元に映し出されているのは、偽我と

言いまして、映しの、仮相の世界。そして、これを仮相といいまして、

私たちは、その実相を、自分の実体を知りませんので、普通の一般人は、

この仮相の世界に、肉体というものを現しておりまして、その肉体を

我だと思うようになってしまって、実相である我々の神の世界の、

本来の自分というものを実体を忘れているわけです。

本来は、この実相をこの世に映すべき存在でございます。

私たちの肉体を通しまして、その真実なるもの、真我そのものを、

私たちは、この肉を通して、この世に完全さを表現するために、

人間は3次元に創造されているわけです。

しかし、本質的自分を忘れてしまって、現象我といいまして、

映しの世界に目が眩んでしまって、自分の本来の姿を完全に

見失っているわけです。

本来は、この実相が、そのまま私たちに映って、完全なる現われとして、

この地上界に現れなくちゃならない。

しかし、今、完全に自分の実相を現している人間は、ほとんど

いません。

ほとんどが現象我といいまして、映されたその形体、形、目に見える

もの、仮相に目がくらまされてしまって、そこで物事を判断して

日常生活をしてしまって、自分の実体を私たちが、この肉体が表現

しなくなったわけです。

それを神からの分離。だが、本来は分離はないわけです。

私たちに、この世に創造物として現れている肉体。

本来、なぜ肉体というものが、この世に存在するのかと言いますと、

この実相たるものを、神そのものを、この世に映さんがために、

真実なるものを映さんがために、この世に、私たちは肉体を創造

しています。

だけど、普通の一般人の方々は、自分の実体がどこから来たものか、

自分の本質がどこにあるのかわかりません。

そのために私たちは、肉をあるいは物質を見て、考えて、思考して、

そこで苦しんでいるわけです。

皆さんの実相は一度だって、苦しんだことがなければ、病気に

なったこともない、何もない存在でございます。

しかし、この世に映された人間は、生まれてきますと、周囲の人が

みんな、偽我という仮相の世界に、目が眩んでしまっている無知の

世界に生まれてくるわけです。

この地上界のことを無知の世界といいます。

あの世は知恵の世界なのです。

で、我々は本来は、知恵そのものであり、力そのものであり、愛

そのものであり、完全なる神の実相を現していますけども、

この3次元に現れてきますと、肉我というその現象我に目がくらんで

しまって、私たちの本来の真我というものを見失ってわけです。

だから、世の中にはさまざまな人がいるわけです。

多く実相を表現している方もいます。

心のやさしい人、慈悲深い人、愛深い人、そして行為が正しい人は、

何パーセントか実相を現しているわけです。

世の中には熟した魂と熟していない魂がいると、私はよく言います。

熟していない魂というものは、完全にその実相から遠く離れた姿、形を

現している人。憎しみ、怒り、嫉妬、もう自分ごとしか考えない。

自己中心的、エゴ、それは完全に本来の姿から目が眩まされた無知の

存在。あるいは未熟な魂。

みなさんは、何回も転生、輪廻を繰り返されるうちに、自分の実相

たるものを知るようになるわけです。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-04-22(Sat) 20:28:32】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(完)
みなさん、一人一人の目覚め。

みなさん、一人一人の自覚。

それが一番大切な、今、場におかれていることを皆さんに理解

してもらいたい。

政治家はそういうならば、もう怒り狂うことでしょう。

私は、こう言います。

本当に今、日本の政治家が、政治家として正しいことをなしているの

ならば、日本というこの国から、乞食が一人もいなくなったとき、

本当に、みんなが心豊かに、愛に満ちた素晴らしいやすらぎを得て

いるのならば、政治家は威張れましょう。

しかし、子供たちが言うように、今の政治家は、テレビのニュースを

見ていても、自分さえ良ければ言い。

本当に気の毒な方々に追い討ちをかけて、ただ自分たちを守ろう、

自分たちが豊かなために、そのような政治家がどうして日本を

救えましょうか?

そこまで、中学校の子供たちが、私に訴えてくるではないでしょうか?

だから、愛に目覚めた一人一人が、正しいその生き方を、見本として

示すことが出来ぬ限り、どうして世は変わりましょうか?

金や物や物質でもって、幸せ得たものは、一人もおりません。

今までの人間は、酒にセックスに金に幸せを求めたでしょうが、

永遠不滅のその幸せというものは、現象という結果の世界を

超えた中に、超越した中に、本当の幸せ、喜びがあることを

知らぬからであると申します。

だから、私にとっては、明想という手段を通して、その実相世界に

いることが、この現象という結果の世界では、どんなに闘争、対立、

奪い合い、殺し合い、戦争で明け暮れていても、我が内なる天国、

我が内なる実相世界に入りさえすれば、もう即、そのものが最高な

世界であり、境地を体験が出来るではないでしょうか?

ともに我々は手を取り合って、美しいユートピア、美しい緑滴る

地球を、神が創造したところ以上に我々は、傷つけたなら、

できるだけ修復して、素晴らしいその世界へと我々は、

立て直すために努力していきたいと思います.

今日も朝方から、ともに我々は明想を、ともに学べたことを心から、

感謝いたします。

ともに正しいものは、いいものは分かち合って、足りないものは補い

あって、誰一人、罵り、非難、裁きあうことなく、最高な愛の言葉、

で、最高な愛の思い、で、その表現で、我々は、どこから見ても美しい

といわれるように、徹底して、真実の、宇宙真理としての我を生きれる

ようにしていきたいと思います。

今日も、みなさんとともに学べたことを心から感謝いたします。

ありがとうございました。


愛の伝導体 | 【2006-04-20(Thu) 02:11:12】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(13)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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だから、皆さんもこの目はほどほどに、もう皆さん、あまりにも

目が開かれて、で、もう仮相、仮相、仮相を捉えて、で、本物を

知る妨げになっているのならば、今日から、皆さん、片目は閉じて、

もうバンソウコウでも貼って、片目は開いて、片目は閉めてほしい。

あるいは半眼で見て欲しい。

そうするならば、本物が見えるかもしれない。

だから、イエス様は、片手を失っても、命に入ったほうがいい。

という真実を訴えたではないでしょうか?

それほど、我々は、真実、実相世界に、入り行くことが幾転生、

幾転生という旅をした最高目的であることを訴えました。

だから、片目が邪魔になるのならば、この目があまりにも見えすぎて、

この現象という結果が見えすぎて、で、その真実の世界に入る妨げに

なるのならば、目をつぶせと。

で、その腕が邪魔なのならば、腕を断ち切れ。

そこまで極端に我々に、その真理という本物の大切さを訴えたでは

ないでしょうか?

人間意識、肉体意識、個人意識という自我を皆さん自身が克服さえ

すれば、何も腕を切り落とす必要もない。

で、目をつぶす必要もない。

当たり前のように神が創造した状態で、みなさん、すべてのすべてに

本質という真実を見ることが出来るがゆえに、感じ取ることが出来る

がゆえに、動物や植物や鉱物の上に皆さんは与えられて、万物の霊長と

皆さんは名づけれらたではないでしょうか?

しかし、動物でさえも、産み落とした卵やひなや、子供たちよ、

命がけで守らんとするのに、今の万物の霊長たる人間はどうでしょうか?

産み落としていながら、もう生活が出来ない。

産み落としていながら、もう育てる能力がない。

いとも簡単に殺し合っているではないでしょうか?

これで、どうしてユートピアという神の国を作り上げていくことが

できましょうか?

一人一人が、もう思いを、考えを、世界60何億の一人一人が、

正しい方向性へ自分を向けて、歩みいく努力をしていかねばならぬ

その場所へ、我々はもう本当に、その変わり目に立たされていることを

知らねばなりません。

本当にこの地球が、崩壊、崩壊へ進みいくことを選ぶのか?

本当にその美しい、ユートピア世界へと本当に、神が創造した素晴らしい

その国を作り上げていくために、そこへ我々は意識を向けていくのか?

どん底、もう我々はその選択を迫られていることを知ってもらいたい。

幸いにして北海道から沖縄まで、またセミナーの最初に○○さんが

訴えたように、本当に今は、生かされていることの目的、その

素晴らしさを理解しようとする人間が、もう至るところでどんどん、

現れつつあることを、非常にうれしく思うといったのは、その意味

ではないでしょうか?

皆さん一人一人が、本当に協力なしで、どうして、良い社会を造り

あげていくことができましょうか?

これは、わたしも、この常に光話の中で話をさせてもらってきましたが、

で、わたしが聞いたテープでもはっきり訴えられています。

この世を正しい世界へと導いていくのは、政治家ではないんだと。

宗教家でもないんだと。

どんな霊能者やその間違った霊能、霊能で、どうして真実の世界へ

導くことが出来ましょうか?



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-18(Tue) 01:52:54】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(12)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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それは、私が南米から沖縄に帰ってきて、ちょうど何年間も

続きました。

睡眠に入ろうとして、肉体を横にして、兆度、睡眠の変わり目に

来たとき、もう本当に深い睡眠の変わり目に来たとき、必ず私の

内から、出てきたその思いが、言葉が、目覚めよ、目覚めよと。

盲よ、目覚めよと。

で、私、非常に反発した何年間。

目覚めているからこそ、お父さんもお母さんも親兄弟もそこに、

見えているではないのかと。

目覚めていぬものが、どうして見ることができるのかと、常に

反発しておりました。

今になって、ようやく目覚めよが分かります。

我々がただ自我という自我で、このいつか朽ち果ててゆく結果という

仮相しかみることができぬのならば、何も見たにあらず。

見ているようで、何も見ていません。

単なる現象的なその仮相他に、偽物他に、何も見たとは言えません。

じゃあ、それは盲ではないでしょうか?

見えているようで、何も見えてはいないではないでしょうか?

皆さんが、美しく咲き誇っている花々の背後に、永遠不滅の宇宙真理を、

愛の輝きとして、神の輝きとして、その実相が見えているのならば、

皆さん、目を閉じていても、見えているあなたがた。

だから、皆さんは、何のために睡眠に入りましょうか?

我々、目を見開いているかぎりは、偽物しか見ることはできません。

しかし、神が皆さんに、闇という夜に、皆さんを導いて、皆さんが

睡眠の中に入ったときは、皆さんそこに観自在にテレポートして

います。

亡くなったお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんや

で、皆さんの親戚や友達と、いとも簡単に相対しているのは、

完全な真実の目で、真実のテレポーテーションで、皆さんは、そこに

行き来しているから、そこに出会っているではないでしょうか?

だから、目覚めた聖人の方々は、皆さんに、こう言います。

皆さんは夢見る昼と訴えます。

あなたがたはその昼は、見えているようで、本物は見えていない。

夢を見ているんだと。

で、夜に睡眠に入ったときは、本当の自分のその神から与えられた

能力、力を発揮しているがゆえに、覚める夜と言います。

じゃあ、もう、我々、真理を学び取ろうともしない、無知、盲、

迷い生きて、もう朝に昼に晩に、もうその肉の目を見開いている

限りは、で、偽物しか見えない。

仮相に振り回されるしかないのならば、もう眠り眠り、もうずっと

24時間、眠りについた方がよいのではと私は思います。

だから、神は、覚めよ、覚めよ、覚めよと。

常にあなたがたが見ているのは、もちろん、私はこの肉体の目を

つぶせよと言っているのではありません。

この肉体の目を見開いていても、皆さん自身の意識は、真実、実相

を感じ見ることが出来ることを同時に皆さん自身に、やって

もらいたい。

私がその硝酸で目をつぶして、一瞬にしてこの目を神に癒されて、

目を見開いたときに、それでも私は疑って、で、私は病院は嫌いで、

生まれてから病院には一度も行った事がないので、眼鏡屋さんに

行って視力を検査したと言うではないでしょうか?

本当に昨日のは夢だったのかと?

本当に硝酸でもって、私の目は、つぶれたのかと?

で、翌朝、家内に聞いてみれば、で、やっぱりその硝酸を爆発させて

つぶしたと家内は言うし、で、それでも言われても疑って、事務所に

行ってみるならば、本当に、そのびんは割れていて、かけらはそこに、

まだ残っているし、あー、昨日の出来事は真実だったと。

そこまで至ってさえも、で、今、私がこの肉体の目で見ているものは、

本当に見えているのかで、病院ではなく、眼鏡屋さんに行って、

目の検査をしてみたのならば、見えすぎるほど見えるといわれました。

あまりにもこの仮相という結果世界が見えすぎるがゆえに、

本物が見えてなかったではないでしょうか?




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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-13(Thu) 22:34:25】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(11)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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そこに、自分の意識を高め、生きることができたではないでしょうか?

だから、神は、本当に無限に許して、無限の愛の方。

で、慈悲の方。

で、このように、できない無能な人間でも、辛抱強く愛し、

辛抱強く、本当に思いやり、ここまで、引っ張ってくださったでは

ないでしょうか?

だから、一時たりとも神への感謝を見失ったこと、忘れたことは

ありません。

朝起きるにも、朝の仕事のスタートに就くにも、夜明想に入る前も、

必ず、その感謝を絶やすことはありません。

神よ、万物の造り主であるあなたよ、今日もこのように本当に、

あなたの無限の愛に、導かれ、今日も本当に、このように、

肉体という伝導体を使い生きることができたことに、心から

感謝しますと。

で、明日また、この一夜をあけて、明想の状態から覚めて、

また、仕事へのスタートというならば、万物の造り主である神よ、

今日も朝に昼に晩に、この与えられている時間ある限り、あなたの

御心が、示されますようにと。

思いに言葉に表現に、それを顕現、導いて欲しいと。

それが私の一時たりとも本当に忘れたこともない。

私の祈りと申します。

だから、祈りは、自我欲で、利口にしてください、幸せにしてください、

金持ちにしてください、そのような偽我の祈り、自我欲望の祈りは、

一度も思ったことはないといいます。

で、含めて、万象万物が、常にあなたの無限の愛に満たされ、

常に喜びで幸せで、幸福で幸せでありますようにと。

それを私は一日も欠かした事はありません。

で、その意識状態で、皆さん一人一人が幸せでなければ、神は

幸せと言いましょうか?

まさか、己が創造した被造物が、愛分かち合って生きることも

できない、共存共生共栄も出来ない。

ただ、偽我欲で、自分さえよければいい、で他はどうでもいい、

奪い合い、殺し合い、傷付け合っていることをどうして喜ぶ親が

いましょうか?

ならば、皆さん、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、

皆さんに、ここに肉体という乗り船を与えたそのご先祖の方々が、

皆さんの苦しみ、皆さんの不幸、願う親なんていないでは

ないでしょうか?

じゃあ、沖縄のユタや霊媒師が、誰彼の何代目かのご先祖様が、

祟って、あなたは不幸になっている、ということはないことを

知ることができるではないでしょうか?

誰が自分の子や孫の不幸を、よっぽどそれは、意識が狂って

いなければ、どうして気違いでない限り、どうして、子や孫の

不幸を、子や孫の悩みを願う親、願うそのおばあちゃん、おじいちゃん

たちなんて、いるとは言えないではないでしょうか?

だから、我々は、そのような誤った霊能者の、金儲けのために

支配された、振り回されたあなたがたであってはなりません。

本当にみなさん自身が、目を見開いて、実相という本質の世界から、

すべてを見れるあなたがたになってもらいたい。

白い杖を持って横断歩道を渡っているのが、盲といいましょうか?

盲人といいましょうか?

そのものが、すべてに愛が、すべてに真理が、すべてに神が、

感じ取れているのならば、そのものこそが、開眼であって、

で、我々が形あるものは見えても、その背後に実在するその本質、

宇宙真理という命の輝き、神そのものを見ることができぬのならば、

我々こそが、盲ではないでしょうか?



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-12(Wed) 23:42:16】 | Trackback:(0) | Comments:(1)
愛の伝導体(10)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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何て今まで、肉体という肉体を無視して、ただその、神だ、仏だ、

それだけを追い求めてきたのかと?

あの無駄する時間、浪費した時間がなければ、もっと私は、

幸せだっただろうと。

そう、訴えたではないでしょうか?

だから、我々は、どこにも偏り生きることなく、常に霊と肉体とは

一つなり。

常に天という見えないものと地という結果は、常に一体なり。

原因と結果は常に一体ではないでしょうか?

どこを捉えても、アンバランスで、不調和で生きるのではなく、

常にバランスで生きよと。

だから、この大宇宙のバランスを我が物として、悟り得たもの、

で、この大宇宙のバランスを愛のキリスト、慈悲の仏陀と言っている

他ありません。

じゃあ、キリストとは何ぞや?

イエス様の名前がキリストなのかと。

皆さん一人一人の内在の真我を我として、バランスとして生きている

ことが、この大調和そのものが、これがキリストです。

大調和そのものが、これが仏陀そのものです。

キリスト、仏陀は、今即、皆さん自身が、バランスさえ取れれば、

で、調和さえ出来れば、皆さん一人一人が、真我キリスト。

真我仏陀と言えるではないでしょうか?

だから、いつでも、みなさん、そのバランス、いつでもその調和、

で、その特許を皆さんに与えられていること。

そのために我々は、今日の一日、皆さん、生かされた目的であって、

不調和で生きよではありません。

苦しみ悩み、生きよではありません。

愛という種を蒔き、常に大調和、大バランスの中に、無限の幸せ、

無限の喜び、無限の幸福を生きよと、皆さん自身の目的であって、

決して、苦しみ生きよとは訴えられていません。

私、神が幸せであるように、あなたがたも幸せで生きよと。

で、あなたがたが、幾転生という人生の課程を通して、背負ってきた

思い癖、悪習も、お荷物も、私の元に来さえすれば、すべての荷物を

投げ下ろしてあげましょうと。

神は、ここまで愛深きもの。

ここまで、神は、慈悲深きものではないでしょうか?

だから、どんなに、皆さんが、神を罵っても、怒っても、裁いても、

常に神は、みなさんを許し給う。

常に神は、無限にみなさんを愛し給う。

ほーれ、私のように、肉的な肉我の私が、もう小さいときから、

もう言葉も思いも表現も、もういいこと一つもない。

で、悪いことをして、とことん、そのお父さんにそこに罰せられても、

もう二度と明日からしませんと言いながら、で、翌日もまた同じ事。

で、とうとう、お父さんに言われたことが、おまえは鳥の脳みそかと。

今日はしたたか反省して、明日から再び二度としませんと言いながら、

また同じ事をしでかす。鳥の脳みそか、おまえはと。

常にそう言われてきて、あれほどの破壊的な破壊的な生き方をしてきた

私でも、ここまで、神は辛抱強く、愛見守り、常に慈悲で、ここまで、

引っ張ってきてくれたではないでしょうか?

だから、私にとっては、その体験者であるがゆえに、もう、一時

たりとも、神に感謝せずにはいられません。

もう、地獄の真っ先だったでしょう。

これ、私のお母さんが、霊媒師であるあのユタの前に行ったならば、

必ず、出てきた言葉は、私長男ですから、おまえの長男は、もう絶対に

地獄行き。あれ、いいこと一つもない。必ず、地獄にまっさかさまに

落ちていくだろうと。

もう、いつどこのユタを訪ねても地獄、地獄、地獄しか出てこなかった

こと。

だから、もう、本当にその一歩手前に立ってたかも分からない。

なぜならば、私が見る夢は、常に高い崖から落ちる夢。

で、その夢も、自分自身の生き方の結果、あの夢を見せられて、

本当に地獄のどん底に立っていたかも知れない。

しかし、今の見る夢は、自分自身の運命を変え、人生を変えたが

ゆえに、どういう夢を見ましょうか?

常に皆さんと愛分かち合っている夢。

常に光話の中で愛語り合っている夢。

で、幽界でも会い語り合っている夢。

あれほどの崖から飛び落ちる最悪のどん底の地獄から、天国へと、

自分を変えることができたではないでしょうか?






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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-10(Mon) 23:20:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(9)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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それを死人と申します。

だから、私、私というけれど、常に肉体というこの現象我を

指しての私であるならば、それを死人と申します。

イエス様は、これをはっきりこのように、この世は、死人が

ごろごろしているお墓のようなものであると。

まあ、皆さんは、この宇宙真理という命を我なりという、学びに

おいて、皆さん、ここまで、理解力を高めてきたことでしょう。

しかし、今日、たとえば、皆さんが、全く新しくここに見えて、

全く識別もできない、全く、個人、肉体、人間として生きている

のならば、ここに集っただけの死人がいると言っても過言では

ないではないでしょうか?

この世は、死人がごろごろしているようなお墓のようなもので

あると。

死人はどこに。で、死人は墓場に持っていきます。

で、ここは、肉体が私、私という、偽我に錯覚して生きている

ものならば、死人といえるではないでしょうか?

だから、私、私というけれど、肉体という仮相、肉体という偽我を

指しての私ならば、もう、それだけの死人がごろごろしているような

お墓のようなものと言われます。

だから、死人になってはなりません。

で、また、ただ悩み苦しんでいるときのみ、神よ、仏よ、

我を助けてくださいと祈る病人になってもならずと。

あるいはまた、ここで学ぶ限りは、なるほど、命がなければ、

だれも存在することは出来ない、すべての存在の本源は、

命であり、宇宙真理であり、愛そのものであったと。

そうは言うけど、ここでは、皆さんが明想するときは、我は命なり、

我は真理なり、我は神なりといえましょうけど、また、職場に戻り、

また、家に帰れば、真我という己を見失って、人間だ、肉体だ、個人だ

という偽我にまた、戻っていくもの。これをぼんやりものと

申します。

じゃあ、我々は死人であってもならない、病人であってもならない、

ぼんやりものであってもならない、じゃあ、我々は、健康なもので

あらねばならぬではないでしょうか?

じゃあ、その健康は、ただ肉体的に調子がよければ、健康と

言いましょうか?

本当の健康とは、与えられている1日が24時間、与えられている

1ヶ月が31日。で、1年が365日ならば。1年365日、一時も

神を見失うことなく、我と神とは常に一体なりという境地に生きて

いるもの。これが本当に健康なものと申します。

だから、イエス様がオーバーシャドウして、あのマクドナルド・

ベイン先生に、あの心身の神癒というあのタイトルで、あの本を

解かしたことは、あれは何を意味してましょうか?

あなたがたは、心身の神癒でありなさいと。

身も心も健康でありなさいと。

どこにも偏ることもない、アンバランスであってはならぬと。

だから、この大宇宙は調和。バランスそのもので、運行しています。

すべては、バランス、すべては調和です。

お釈迦様が悟り得たのも、イエス様が悟り得たのも、右に左に

どこにも偏ることなく、天地一体、天と地とは、即一体、

で、色と空とは即一体という、その中心を説いたことほかない

ではないでしょうか?

お釈迦様も何年間かけて、内観を通して、もう真の自分を知ろうで、

難行苦行してみたり、滝行してみたり、断食してみたり、もう色々な

行をしてみたといいます。

で、とうとうその断食で、この肉体が死の寸前まで、追いやって、

もう、生きるか死ぬかの状態までに追いこんだときに、川を下っていく

一艘の船の上で、弦は緩みすぎた弦からいい音色を放つことは

できぬと。で、引きすぎた弦は、切れること他にないんだと。

で、弦は緩みすぎることなく、引きすぎることなく、中心に、

それは、チューニング。中心においたときに、そこに美しい音色を

放つといったのを、耳に聞いて、我、仏陀なり、悟りなりと

言ったのは、そこに中道を悟ったではないでしょうか?





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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-09(Sun) 21:40:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(8)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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じゃあ、剣とは皆さんが、無限にすべてを癒せる、無限にすべてを

包める、愛の心こそが、剣ではないでしょうか?

あの鉄の塊で傷つけ合ったり、殺し合ったり、それが本当の剣では

ありません。

本当の剣とは、愛の心です。

すべてを許して、愛す心が、本当の剣。

だから、神は、60何億の一人一人に、無限の愛の剣をはじめから

与えたもう。

みなさんの本質は、愛の剣であって、決して、人を恨んだり、

ねたんだり、そしったり、嫉妬したり、裁いたり、それそのものが、

与えられたんではないんだと。

人間という欲望は、恐ろしいもので、わずか千円や二千円を

奪うために、力なき女性や老人をひっくり返してでも、それを奪い

去らんとするその恐ろしい、で、自らをどん底まで落とし込んで

いるのが、今の人間ではないでしょうか?

だから、そのように、時代が進めば、進むほど、この世は、

末法化します。

奪い合い、殺し合い、傷つけあい、今の世を末法の世と、何と

言いましょうか?

まさに、末法の世ではないでしょうか?

本当に一人一人が、愛という愛に目覚めて、本当の剣を使い、

生きる一人一人に目覚めいきることが出来ぬ限り、母なる大地で

あるこの地球は、どうなりましょうか?

いまのように、破壊へ破壊へ追いやっていいものか?

我々、幾転生という人生を、この地球という母なる大地の大地で、

いろんな物を見て、色々なものを経験、体験して、ここまで、魂が

成長してきたではないでしょうか?

ここまで磨き上げることが出来たではないでしょうか?

それを、我々は、破壊へ破壊へ追いやらんとするのならば、

本当に価値なき、無能な人間と言うこと他にないではないでしょうか?

ここまで磨き上げることが出来た母なる大地に、で、皆さん自身が

肉体を脱ぐときに、本当に美しい、その子や孫のために、

緑したたる地球を残せてこそ、我々は、本当の恩を持ったもので

あって、今のように破壊へ破壊へ追いやっていくのならば、

恩知らずというではないでしょうか?

命に生かされていながら、命に感謝することができぬ命知らず

というではないでしょうか?

だから、世の中には4タイプの人間がいるんだと。

命に生かされていながら、命に感謝も出来ない。

で、それは何と言いましょうか?命知らずを。

死人と申します。

なぜ、肉体を我として生きているものは、死人なのか?

みなさんが、この肉体がここに、現れてくるまで、想像してみて

ください。

お父さんの精子とお母さんの卵子との結合において、お母さんの

子宮の中で、細胞の分裂を繰り返しながら、何ヶ月何十日で、この

肉体という器は、のり舟は出来あがっていきましょう。

しかし、そこに神が命を与えることなかったのならば、誰が、

ここに生きるものとして、生まれることができたのかと?

どんなにこの肉体船は、ちゃんと、五体満足に仕上がったとしても、

神が命を与えなかったのならば、生きるものとして、ここにいた

ものは、いません。

生れ落ちたその瞬間に、もう、死体。死人。死産。

で、火葬場行き。

だから、命に生かされていながら、命に感謝もできない。

命知らずになってはなりません。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-07(Fri) 23:20:57】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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これこそ、まさに愛の実践、本当の真理の実践ではないでしょうか?

だから、真理は、愛であるならば、すべてのすべてを許し、

愛する事。

で、知恵ならば、皆さん自身がいかなる試練や宿題にぶつかっても、

背を向けて逃げよう、背を向けてどこかに隠れようではなく、

愛で、知恵で、力で、光で、正面立ち向かって、皆さん自身が、

真の勇者として、克服して生きることが、これが本当の我々の

真理の実践の姿ではないでしょうか?

逃げて逃げられるならば、もう、とうに逃げているでしょう。

隠れて隠れられるならば、とうにどこかに隠れているだろうと。

どんなにこの世の苦しみから免れようとしても、で、首をつって

去ったところで、高いところから飛び立って、肉体を破壊に

追いやったところで、即、そのものが神の中でないでしょうか?

神の中に我々は肉体を持ち、で、また神の中で肉体を脱ぐことを

知らねばなりません。

だから、みなさんに今日、肉体を脱ぐときに来ていなければ、

みなさんが戦争のど真ん中に行っても、弾は皆さんを射抜くことは

ありません。

しかし、皆さんが、今日、肉体衣装を脱ぐべきときに来ているの

ならば、さあ、道路を走れば交通事故で死ぬかもしれない、

で、飛行機に乗れば、高いところから落ちて死ぬかもしれないから、

もう、今日、死んでは困るから、部屋から絶対に動かぬと、押入れに

閉じこもってようとしても、押入れで窒息して死んでいるだろうと。

だから、皆さん、その理解が出来るのならば、髪の毛一本一本が、

神には数えられているんだと。

雀一羽とて、神の御心なくして、この地に落ちることはないという

理解が出来るのならば、我々はもう安心ではないでしょうか?

すべて神の御心のままにと言えるではないでしょうか?

余計なもがき、あがき、苦しみをつくる必要がないでは

ないでしょうか?

だから、私ならば、今日、この肉体引き上げるべきならば、

どうぞ、あなたの御心どおり、なさってほしい。

常に全託、で、そこにもがきあがくがゆえに、我々は、

苦しみを伴っていることを知らねばなりません。

すべて、神の御心です。

だから、本当の勇者というのは、神そのものに、我は神なり。

神は、我なり。

我と神とは、常に一体なりという一体感の境地にたったものこそが、

本当の勇者であって、で、また、幾転生という人生の課程を通して、

背負ってきた悪習、思い癖、そのいやなその汚れを、一つ一つ、

その神聖火花で、全部焼き尽くしていくことが、本当の勇者で

あって、戦争に行って、敵を何十名、何百名倒したからとて、

それは勇者ではありません。

いくつの城を攻め落としたからとて、勇者ではありません。

本当の勇者とは、すべてを許せるものです。

すべてを無限に愛せるものです。

無限の許しと無限の愛で、一瞬一瞬生きていることそのものが、

私は、本当の勇者と申します。

だから、みなさん、剣は、今まで、剣(つるぎ)とか剣(けん)とか

いうならば、人を傷つけたり、殺したり、それをつるぎと錯覚して

きたこと。

剣とは、無限の愛の心で、すべてのすべて、人を、すべてのすべてを

包める自分を本当の勇者、剣を持ったものといいます。

だから、無限の愛の心、傘になっているではないでしょうか?

無限の傘に、人々すべて、万物一切を、包める我々、これが本当の剣

と申します。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-06(Thu) 22:46:11】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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一歩一歩、皆さんが、真実なる我に向かって歩んでいることは、

それ、努力でなくて、何と言いましょうか?

ただ、歩んでいるといいましょうか?

ただ、無意識に歩んでいると言いましょうか?

目標に向かって歩むというそのものは、もうそこに、努力の

始まりではないでしょうか?

人間意識、肉体意識、個人意識を、皆さん自身が超えていき、

本当に久遠にして常在、不滅にして絶対実在である我を見出す

までは、お釈迦様もイエス様も、同じ事を説いたでは

ないでしょうか?

初めから我々は、我は命なり、我は真理なり、我道なりと

言えたんではないんだと。

あなたがた以上に厳しい道を耐えて耐えて、忍耐強く耐え抜いて、

今こそは、我々は真理なり、道なり、神なりと言えることであって、

決してそれがなかったのならば、そこに至ってはいないと言っている

ではないでしょうか?

心を尽くし、精神を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、

我が中に内在の神を、実感しいくまでは、それは忍耐と努力と、

これは絶やすことはできぬと言います。

イエス様もお釈迦様も、我々が如何に、厳しさを歯を食いしばって、

こぶしを握り締めて、耐えて耐えぬいて、そこまで至ることが

出来たかと言っているではないでしょうか?

我々も容易い道を歩んで、悟ったものではないんだと。

これ、イエス様は、あれほどの仕打ちを受けても、で、最後に

十字架に貼り付けられても、本当の許し、愛という、努力、忍耐で、

そこから、偽我という自分から脱出することができたではないで

しょうか?

神よ、この者たちに罰をとは、一言も説いておりません。

罪を背負わせよとは、一言も説いておりません。

神よ、この者たちは、命においてひとつであることを知らない

結果、愛において完全であることを知らない結果、今、このような

過ちを犯そうとしていることを許して欲しい。

神よ、この者たちに光よ。

心にやすらぎを。

昨日、埼玉のほうでも、我々ともう十何年前から学んだ方が、

で、その方が、たとえば、99名は愛せても、もう一人だけは、

このものだけは絶対に許せない、絶対愛せない、

絶対嫌なものという一人がいたと。

しかし、真理というものは、決して分離、差別で、この見ること、

感じ生きることでなく、全体を我として愛する事が真理なりということ

をもう、何年間も聞いてきたもんだから、これ許さずして、真理に

到達することはないと。

努力してでもそこに至らんといかん。

で、そこにできるものではないと。

これは、もう忍耐強く、努力の、で、結果で現れることであって、

すぐ、今日思って、許せるものではないんだと。

で、それよりも、まず、この者のために祈っていこうと。

神よ、この者に、光よ。

心にやすらぎを。

毎日、毎日、祈るたびに、本当に、真っ黒いその状態から、絶対

許せないというその状態から、毎日のように、もう思い出しては、

祈り、で、本当に時間ある限り祈り、神よ、この者に、光よ、

心にやすらぎを、全一体の中に、差別、分離はない。

という思いで、とうとう薄くなって、もう完全に許し得る

その段階まで到達したことが非常にうれしいと、私、話を

聞かされました。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-05(Wed) 23:51:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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じゃあ、皆さんが、朝に昼に晩に、何十何年間、これから、

皆さんたちが、未来永劫に、常に思いを通して、言葉を通して、

愛、愛、愛の種を蒔けるのならば、例えば、今日の一日、

与えられた時間も、今日も愛にて目覚め、愛にて事をなし、

で、愛にて今日の一日を終えていけるならば、誰をも、愛の種を

蒔けば、何が実りましょうか?

愛の実をつけます。

で、その愛の実は、どう、みなさん、収穫しましょうか?

無限の幸せ、無限の喜び、無限の幸福として、皆さんは、

摘み取ることが出来るではないでしょうか?

じゃあ、そのもの、誰が崩すことが出来ましょうか?

誰が振り回すことが出来ましょうか?

この何十何年間を振り返っても、一日、一分、一秒たりとも、

わたしは、決してその精神的な不調和、で、苦しみ悩んだこと、

一度もないとも言います。

心身ともに毎日がベスト、毎日が喜び、毎日が至福、しかし、

わたしは特別な人間でもないし、皆さんも確実にそこに

一歩一歩、近づいていっているではないでしょうか?

今までは、同じように与えられた宿題に、何週間も何ヶ月も何年も、

それに同じ宿題に、悩み苦しんだのも、しかし、今、与えられた宿題は、

同じ大きさ、同じ宿題であっても、いとも簡単に乗り越えることが

できたと。

それは、皆さん自身が、宇宙真理という本質を、実践している結果

ではないでしょうか?

真理は、実践することであって、決して絵に描いたぼた餅信仰のように、

で、眺めていれば救われる、眺めていればお腹満たすではありません。

まさか、絵に描かれたぼた餅を、肉体が朽ち果てるまで眺めていても、

お腹満たすことが出来ましょうか?

先ほど、我々が夕食を、カレーが出されたのも、皿にもって眺めていても、

お腹満たすことは出来なかったではないでしょうか?

しかし、皆さんが、このスプーンを手にとって、で、口に投げこんで、

行動起こしたがゆえに、お腹を満たすことが出来たではないでしょうか?

それ、努力でなくて、なんと言いましょうか?

だから、ある男性の方が、我々は初めから神、初めから愛、

どうして努力する必要がありましょうか?と私に質問で訴えた

ものがいます。

本当にあなたは努力なしで、そうあるのかと?

もちろん、誰の本質も神である事実は否定することは出来ません。

愛であり、宇宙真理である事実は、誰も否定することは出来ません。

しかし、この幾転生という人生の過程を通して、真理という自分を、

偽我の自分で覆ってきたではないでしょうか?

鏡の前に立てば写し見ることの出来るこの肉体を指して、

触れば掴んで感ずることの出来る肉体、物質を我という錯覚は、

明想という努力、で、本当に自分を正しく理解しようとするその

努力で克服できることであって、じゃあ、努力せずにして、

どうして、あなたは神そのものを生きているのかと?

で、本質である愛そのものを、そこに現し示しているのかと?

無知、盲、迷い生きているほかないではないでしょうか?

じゃあ、そこから解脱、そこから脱出し、本当の自分を見出す

までは、我が中に内在の真我は、はじめからあり、今もあり、

未来永劫にあることを実感するまでは、これは努力というものを

必要とするではないでしょうか?

まさか、努力なくしてそうならば、努力が必要でなかったのならば、

どうして、神は我々に、意志と忍耐と努力というその方法を与える

ことがあったでしょうか?

また、見失っているこの自分を努力せずして、それが取り戻せるのならば、

誰が真理を学んで、明想という、その手段を用いる必要が

あったでしょうか?

だから、勘違いも甚だしいもの。

あまりにも、その本という本の知識を読み、勘違いのしている人間の

なんて多いことか。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-04(Tue) 22:05:12】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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しかし、自分で自分というものはどうでしょうか?

にぎれば針先一点ともなれるし、広げれば、無限大とも広がります。

で、高きその神の位置にも我々は到達することが出来ましょう。

しかし、落とせば、また万物のこの低長といわれた動物よりも

まだ、最低な自分にも落とすことが出来るではないでしょうか?

だから、己と未来は、どうにでも変えることが出来ること。

しかし、過去と誰彼は、どんなにもがいても変えることが出来ぬと

言われます。

その本人が、今までの悩み、苦しみ、不調和の生き方から、

で、正しい生き方に変えて、神の域まで到達するんだという

自らして、目覚めて努力していかぬ限りは、そこに至ることはできぬ

ではないでしょうか?

だから、自縛とは、自らが縛ると書くことであって、誰彼が縛る

とは書きません。

誰彼が我々を縛っているのならば、その縛っている相手が我々を

自縛から解き放つ責任があることでしょう。

しかし、己を縛っているのは己自身であるがゆえに、自縛と

書きます。

で、自縛を解き放てるのは、悩み、苦しみ、病、不調和、一切の

仮相的なものから、解き放つことが出来るのは、己自身しかいない

と申します。

だから、みなさんが縛った己を責任もって、みなさん一人一人が、

自縛から開放する事を、我が救い主は、我が中にいることであって、

一点の狂いなき答えを与えきれるのは、みなさん、一人一人の中に

内在している真我であって、宇宙真理であって、外なる誰彼でも

ないといいます。

60何億の迷っているものに、みなさん、正しい答えを求めた

ところで、60何億の誰が、答えを与えることが出来ましょうか?

しかし、一点の狂いなき答えを与えきれるのは、みなさん一人一人の

中の内在の真我、宇宙真理と申します。

で、その真我こそに答えを求めるのならば、もうみなさんが、どこに

歩むものも光という道をみなさんに示してくれるではないでしょうか?

我が救いを外に求むるなかれ。

我が救いは、我が内にあり。

で、我が答えを道を外に求むるなかれ。

皆さん自身に光の道を示しきれるのは、みなさん一人一人の中に内在の

真我こそであることを、みなさん理解してもらいたい。

そのために我々は、明想という手段を通して、常に真我一体という

大海にしみる一粒の滴。

で、分離していた一粒一粒の滴なるあなたがたが、無限という大海を

認めて、その大海の中に融合しいくことが、これが最高な明想状態と

言えるではないでしょうか?

何のために明想しましょうか?

ただ、誰がも示さないその能力欲しさに明想するのかと。

で、その得たその能力を自慢するために、で、また金儲けのために、

そうならば、そのものが、せいぜいそのバイブレーションが、

波長あわすところは、幽界という迷いの世界だろう。

で、そこから憑依を受けて、苦しみ生きるほかないだろうと。

わたしは、さんざん見てまいりました。

だから、その憑依なるものを捉えて、こう語ったとき、

このものの肉体を支配するものよ、このものから出て行けと。

このものの肉体はあなたが使うべきものではないから、

今即離れよというならば、私が勝手にこのものについたんでは

ないんだと、このものに引っ張られて、このものに呼ばれて、

私はここにいるんだと。

だから、その憑依を引っ張ったのは、誰なのか?

それは自分自身ではないでしょうか?

だから、皆さんは、愛を引き寄せるも、で、破壊的なものを

引き寄せるのも、すべて、送信受信は、みなさん次第。

原因と結果は、皆さん次第。

蒔いた種は、自らが刈り取ると言っているではないでしょうか?

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




愛の伝導体 | 【2006-04-03(Mon) 23:09:10】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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だから、今生、万物の霊長として、それだけの特権を与えられて

いながら、明想、内観を見失って、ただ無知のまま、盲のまま、

迷ったまま、一転生を終えてみてください。

何の価値もないといわれます。

私たちは、お父さん、お母さんを縁として、この肉体船をいただき、

一時、遊んで、年頃に来て結婚して、子供を作って、後は年老いて、

死ぬのを待つ人生ならば、動物と何ら変わらぬと言っているでは

ないでしょうか?

じゃあ、皆さん、無知の人生、盲の人生、迷った人生を終えている

そのいかなる権力を持っている方々であっても、地位、名誉を持って

いる方々であっても、今、皆さん、うらやましいと言いましょうか?

うらやましいことは、本当に自分に目覚めた、で、無限の知恵、

無限の力、無限の愛、無限の光を、観自在、無碍自在、自由自在に、

示し生きているものこそが、我々の最高目標ではないでしょうか?

無知、盲、迷いのままに、一転生を終えていく、その人間の地位、

名誉なんて、うらやましくもないといいます。

何の価値がありましょうか?

真の自分を見失っては、幾転生という人生の旅は、真の自分が

何たるかを知るための人生であったことを知らねばなりません。

どこから出てきたのか、どこに向かって旅をしているのか、

その旅の目的は何なのか?

旅の目的を終えて、どこに帰るか?

で、みなさんがそれを見出すことが出来たならば、もう完成では

ないでしょうか?

解脱、離脱、すなわち、悟りと言えるのではないでしょうか?

最高目標は、悟りです。

金やものや物質ではありません。

だから、みなさん自身が、幾転生という人生の過程を通して、

で、ある時は、王という位も与えられたことでしょう。

ある時は、もう世界の金持ち、それも味わったことでしょう。

しかし、なぜ、みなさん、ここに集ったのでしょうか?

金やものや物質という、この仮相でみなさんの魂は、

満足いかなかった。

何か違う。何か知りたい、何か掴みたい、何か得たい、その何か何か

を追い求めてきて、みなさん、今日のこの瞬間があるでは

ないでしょうか?

だから、過去の失敗を何も悔やむ必要もありません。

過去の失敗、過去の成功、過去をすべて通して、みなさんは、

今ここにあること。

だから、過去は過ぎ去った思い出。

何も悔やむ必要はありません。

もちろん、その過去に失敗は、それを教訓として、二度と同じ過ち、

同じ失敗を繰り返さぬように、反省は大切。

ただただ、もうむやたに流して、また同じ失敗や同じ過ちを繰り返す

愚かなる者にはなってはいけません。

それを見るためには、過去も、しかし、過去を悔やんで、悩んで、

それに振り回されて、落ち込むあなた方であってはなりません。

過去は、どんなにもがいてもあがいても、戻すことはできぬでは

ないでしょうか?

過去は変えることはできません。

誰彼を変えることはできません。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。


多くの人が愛の表現体とならんことを。
多くの人が真の自分に目覚め生きることを。



愛の伝導体 | 【2006-04-02(Sun) 15:34:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(2)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

講話をそのまま掲載させてもらいます。

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だから、この地球というもちろんわたしは、この地球は、緑したたる

美しい地球に復活してもらいたい、その聖なる惑星に復活してもらい

たいと、わたしはそう願います。

しかし、例え、地球が崩れ去っていく中にも、皆さんが、

宇宙真理という本質こそ我なりという自覚を持っているのならば、

形を変えていくこの現象世界に、苦しい、で、悩み、決して

振り回されることはないではないでしょうか?

だからこそ、我々は、完成というものは、宇宙真理という本質に

目覚めてこそであると。

真理は汝を自由ならしめん。

どんな悩み、苦しみ、不調和、病、で、その悲しみからも、

真理という知恵、真理という力、真理という愛ほかに、

そこに我々を、導くことはないともうします。

だからこそ、真理こそ絶対実在。

決して、いつかこの脱ぎ去っていく肉体という衣装があなたがた

ではないんだと。

だから、私私というけれど、私には二通りの私が

存在するんだと。

いつか朽ち果てていく肉体的な私。物質的な私。

永遠に朽ち果てることのない不滅の宇宙真理として、神我なる私。

じゃあ、我々は、いつか朽ち果てていく肉体的な物質的なものが

私なのか?

永遠に朽ち果てることのない不滅の宇宙真理としての私なのか?

それを今生、我々は、徹底して、識別していかねばなりません。

私、私、いつか朽ち果てていく現象的な私であってはなりません。

もちろん、我々には、肉的な私と、その宇宙真理という、見える部分と

見えない部分は、表裏一体として、存在しております。

しかし、今までの我々は、もう朝に昼に晩に、常にこの肉体という

この物質我を私、私と、錯覚して生きてきたではないでしょうか?

だから、神は、みなさんの扉を叩いて、あなたがたが私、私で生きて

いる肉体という私は、真の私ではないんだと。

錯覚から覚めよと。

幻覚から覚めよと。

で、扉を叩いているにもかかわらず、今の無知、盲、迷った人間は、

もう、見えるがゆえに、触りつかむことができるがゆえに、

感ずることができるがゆえに、絶対なるその肉我を私という錯覚を

してます。

錯覚から覚めよと。

幻覚から覚めよと。

常にあなたがたの心の扉をノックしているのを、聞こえぬのかと。

神は常に、そう訴えています。

あなたがたが、深い明想という手段を通して、中に入りさえすれば、

で、ここに真実なる私がいることを、で、あなたがた、見ることも、

感ずることも、できるのではないのかと。

それは、肉体を持って、解脱まで至った聖人たちも、私にこう言います。

なぜ、同じ場所にいながら、私の声が聞くことが出来ぬのかと。

私とは、命のわたしです。

なぜ、同じ場所にいながら、なぜ、私の姿を見ることが出来ぬのかと。

その私というのは、命のわたしであるがゆえに、命という本質の世界

まで、自ら、高めぬ限り、そう言っている本人見ることができましょうか?

その声、聞くことができましょうか?

だから、我々が、どんなにもがいて、あがいて、天使方の姿を見て

みたい、声を聞いてみたいと、もがいても聞くことはできぬと申します。

波長が違いすぎるからであると。

で、バイブレーションが、離れすぎるからであると。

だから、皆さん、明想という手段を通して、肉的な私が私なのか、

見ることが出来ない宇宙真理としての私が私なのか、

それを識別せんがために、明想という最高手段が与えられている

ではないでしょうか?

一番、最初に、本当にその明想という手段を通して、実相という本質を

見出したその聖賢な方々は、こう言われました。

見えるものの背後に実在する見えないものを見るためには、

すべてこの五感というものを閉ざさねばならない。

で、見えるがゆえにその振り回されたこの世界をすべて、

シャットアウトせねばならない。

そこに明想というものを見出したこと。

で、明想という手段を通して、静かに、沈黙を守って、深く深く、

自分に潜ったときに、そこにいまだかって見たことのない、

いまだかって体験したことのない、真実の我をそこに見出すことが

できたことを、そこに明想という大切さを与えられてきたでは

ないでしょうか?

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。


多くの人が愛の表現体とならんことを。
多くの人が真の自分に目覚め生きることを。



愛の伝導体 | 【2006-04-01(Sat) 19:00:40】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
愛の伝導体(1)
万物の造り主である神が、すべてを創造した目的は、すべては愛に

生きよと、特に万物の霊長なる我々は、決して、憎しみ、そしり、

怒りの波動で生きてはならぬと、言葉において愛の波動、思いに

おいて愛の波動、で、なす表現一つ一つが、常に愛の波動で生きよと。

ならば、私が創造した以上に、この母なる大地という地球上は、

美しく調和されていくだろうと。

しかし、今はどうなのかと。

折角、神から与えられた愛の息を吸っていながら、で、吐くときは、

憎しみ、そしり、怒り、嫉妬、裁きあって、どう平和を立て直すことが

できましょうかと。

だから、一瞬一瞬が、吸う息が神の愛なる息なり。

で、吐くときは、愛の光で、この地球全体を包みいくんだという

その息を放ってもらいたい。

一瞬一瞬、常に愛の波動、伝導体として生きよではないでしょうか?

ネガティブ、消極、破壊的な波動を放って生きよとは訴えてはいません。

だからイエス様は、この肉体存在の目的は、キリストの伝導体と

言ったではないでしょうか?

キリストとは愛です。

キリストとは慈悲です。

キリストとは知恵であり、力であり、光そのもの。

で、それを伝導体として生きよであって、決してネガティブな

生き方をしてはならぬと。

我々の放つ言葉、思うこと、もう一瞬一瞬、すべてこの現象という

形の世界に形を作り上げていくだろうと。

で、ちょうど私が、ひとつお客さんからテープをいただいて、

聞かせてもらったそのテープにも、万物の霊長たる我々が、

愛として明想し、で、バイブレーションを上げていけばいくほど、

で、中にひそんでいる汚れは、猛スピードで全部浮き上がってくる

だろうと。

だから、我々は今の今、何物にも振り回されない、何物にも混乱

させられない、豊かな心を作り上げていってほしいと。

それがみなさんに与えられた一日一日、24時間であること。

決して、金や物質を否定するものではないけど、じゃ、朝に昼に

晩に金、金、金、金で追いまくっている間に、さあ、肉体を脱ぎ

すてる時が来てどういたしましょうか?

そこで、慌てて、さあこれから、心を磨こう、何をしよう、間に

合いましょうか?

で、そのように、私より4~5歳下のいとこだったか、

こういう体験もしております。

今から4~5年前に、神奈川の方で仕事をしておりました。

で、そのおばちゃんに言われて、さあ山梨ではいい学びをしている

というから、あなたも一度は訪ねて学んでみてはどうかと。

おばちゃんがいとこに言ったにもかかわらず、そのうちに行きます。

もう少し金を、貯金もしてから、という間に、もうひっくりかえって、

そのまま肉体を去ることになり、さようなら・・・。

この世の時は、この世の時間は、我々が悟るまで待ってくれ、

金や物をかき集めてから真理を学びます、待ってくれるでしょうか?

これは、げんに身近に、私のいとこで、体験したではないでしょうか?

だから、何をさておいても、まず、神の国を求めなさいと。

神の国とは、みなさんの一人一人の中に内在している宇宙真理、

神我そのものを意味しているではないでしょうか?

で、わたし、その神我を、ノアの箱舟にも例えます。

どんなに形あるノアの箱舟を組み立てて、一時、大洪水から免れた

ところで、肉体というのり舟を我として錯覚している限りは、

いつかは脱ぎ捨て、いつかは朽ち果てていくもの。

しかし、皆さんが我は神我なり、我は真理なりという、本当の

ノアの箱舟を皆さんが自覚したと見てください。

洪水にあって、死にましょうか?

火に投げ込まれて、焼け死ぬことがありましょうか?

宇宙真理という本質は、時代の新旧によって、変化することなく、

人間の観念、概念で、崩すことも、破壊することも出来ません。

水の中に投げ込まれて、濡れることもないし、火の中に投げ込まれて、

焼けることもないし、風にさらされて、乾くこともないし、

世界の武器を向けても、誰も破壊することはできません。

じゃあ、みなさんが、我、地や肉や姿、形ではなく、人間、肉体、

個人でもなく、我は真理なり、宇宙真理を、今、自覚して

みてください。

これこそ、もう、最高な、ノアの箱舟、完成ではないでしょうか?



愛の伝導体 | 【2006-04-01(Sat) 00:00:09】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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