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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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人生の旅(11)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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で、一番、最後に健康な者。

じゃあ、健康な者とは、ただ肉体がどこも病まなければ

健康ではありません。

一日、与えられている時間が24時間ならば、24時間、四六時中、

見える肉体、物質と見えない宇宙真理、命とは、常に一体であるという

その境地で生きているものを本当に健康な者と申します。

だから、今の人間は、ほとんど60何億の人間が、病人だらけで

ないでしょうか?

なぜ?本質を見失って生きている人間に健康な者がいましょうか?

どんなに肉体が鋼のような強き肉体を与えられて満足していても、

それそのものが病人であることを知ってもらいたい。

宇宙真理という神を見失って、どこに健康がありましょうか?

どこに真実がありましょうか?

だからイエス様もお釈迦様も説いたのは、見える地という結果を

生かしているのは、見えない原因という宇宙真理、つまり命で

あることを説いたこと、天地一体。

見えないその天がなければ、見える地の世界は存在することは

できぬと、天地一体という、原因と結果を示したではないでしょうか?

見えないものは原因です。

見えるものは結果です。

結果をそこに存在至らしめているのは、見えない原因であることを

見失っては、何の価値もないことを知ってもらいたい。

だから、お釈迦様は、色という結果世界が存在するためには、

見えないその原因である空が存在していることを色即是空、空即是色、

色心不二と、見えるものは即見えないものなり。

見えないものは、即見えるものなりと。

常にバランスを調和を説いたことであって、お釈迦様もその難行苦行

いろんな行で真の自分を見出すために、もがき苦しんでいるときに、

とうとう断食断食に明け暮れて、この肉体を破壊寸前まで追いこんだときに、

川を下っていくその一艘の船の上で、弦は緩みすぎてはいい音色を

放つことは出来ぬと。

引きすぎた弦は切れること他にないんだと。

緩みすぎることなく、引きすぎることなく、で、それを中道と

言いました。

ちょうど、中心にその弦を立て直したとき、美しい音色が放つように、

我々も肉体という見えるものに偏ることなく、で、またその

見えない霊的なものに偏ることなく、見えるものと見えないものとは

即一体なりというバランスがとれたときに、どういう現象が起こり

ましょうか?

無限の神の能力が皆さんの伝導体を通して、示されていくでしょうと。

それをわたしはこう言います。

バランスが取れたこの物質、肉体を通して、知恵の音色が、力の音色が

愛の音色が、光の音色が、放たれていくことだろうと。

だから、皆さんは、無知、無力、迷い生きる、弱き存在ではありません。

無力の存在ではありません。

皆さん一人一人には、バランスこそが今、欠けていることであって、

で、バランスに自分を立て直したときに、まさか、皆さんの家庭を

流れている電気が、プラスの面が大きく、マイナスの面が小さく、

またはマイナスが大きく、プラスが小さければ、どうして、このように

電気を使いいかすことができましょうか?

それはプラスマイナスがバランスの結果、で、必要なときに必要に

皆さんがスイッチをひねれば、それに、そのエネルギーを使い

いかしているのは、その意味ではないでしょうか?



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




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人生の旅 | 【2006-05-30(Tue) 22:41:45】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(10)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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イエス様は、これを最高な方法で説きました。

この世は死人がごろごろしているようなお墓のようなものであると。

皆生きている生きているとは言うけれど、誰も命という本質を

自覚しているものは一人もいない。

ただ、肉体というその入れ物を、器を、現象我を指して、私だという

錯覚をしていること。

どこを見ても死人だらけと。

だから、命に生かされていながら命を見失っているものを、すなわち

死人と申します。

あるいは悩み苦しんでいるときのみ、神よ仏よ、我を助けてください

と祈る病人になってもならぬと。

で、また、ここであなたがたは、本当に肉体自らが生きることが

出来るのかと。

肉体を通して生きているのは、命ではないのかと。

肉体を通して働き、事を成しているのは命ではないのかと。

皆さん、この五感という、目、耳、口、鼻を使っているのも、

命が使っていることであって、じゃあ、この肉の目が、本当に

見えるというのならば、口が語れるというのならば、その肉体から

命去っても、肉体は物を見ていなければなりません。

あるいは語っていなければなりません。

しかし、皆さんは何と言いましょうか?

死人に口なしと言っているではないでしょうか。

命が抜けた抜け殻というこの肉体は、口あっても語らぬが故に、

死人に口なし。

じゃあ、目を通して見る、口を通して語る、耳を通して聞く、

この手足を動かして働き、事を成しているのは、つまり命では

ないでしょうか?

そのように最初は見えぬものなんて信ずるもんかと、もうここに

色々な学校の先生方や科学者や音楽家や色々な方々が集い来ます。

北海道から沖縄まで至るところで。

で、最初はもう肩で風を切って、我こそはとここに入ってきます。

で、ゆっくりゆっくり、その光話を1時間や1時間半の光話の中で、

とうとう自分が溶かされて、その我そのものが溶かされて、

本当にあなたがたは威張れるのかと。

命失って、あなたは一瞬たりとも、ここに生きることが出来るのかと。

見えないものを否定するけど、見えない命なくして、あなた方は存在

することが出来るのかと言うのならば、考えて考え抜けば、

なるほど、命は見えない。

で、見えないけど、その命そのものに生かされている事実は、

誰も否定することは出来ない。

とうとう、帰る時は、小さく小さくなって、帰っていくでは

ないでしょうか?

で、そのように、ここで受け止めては、命そのものがなければ、

命が生きていなければ、蟻一匹生きることは出来ない。

花一輪、咲き誇ることは出来ない。

で、生きとし生けるものが存在することは出来ぬといって、なるほど

命がすべてであったと。

命そのものが、すべてを通して生き働いていたんだと。

言うけど、また家に帰って、わたし、わたし、わたしがという

肉体を自分だと錯覚するもの、これをぼんやり者と申します。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-29(Mon) 22:11:23】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(9)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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金で解決出来ましょうか?

ものや物質で解決することが出来ましょうか?

変えることが出来るのは、唯一愛の波動、愛の心から放つ愛の波動

以外には、変えることが出来ぬことを知ってもらいたい。

だから、どんなに世界トップクラスの連中が、世界のどこかに

集まって、討論、議論をしたところで、一番基礎である自分を

知らない限り、何をなすことができましょうか?

皆さんが自分を追及して、自分を知ったときは、何て言いましょうか?

我は神であったと。

で、その神は、誰彼の神ではなく、唯一の神が全体の中に生き働いて、

すべてはひとつであったと。

だから、一命一体。

すべては一つの命の中に生かされているんだと。

すべての体は、全く同一なる電子と陽子から組み立てれらた、

全く一体であると。

そこに一人一人が目覚め戻ることが出来ぬ限り、どうしてこの世を

変えることが出来ましょうか?

我は命なりと皆さんが理解したときは、すべてが命ではない

でしょうか?

我神なりと言うのならば、すべてが平等に神ではないでしょうか?

じゃあ、争える相手なんかいましょうか?

憎める相手なんかいましょうか?

誰彼から奪うことが出来ましょうか?

それは、すべて我なり。

我はすべてであり、すべては我なり。

我は全体であり、全体は我なりという、その境地に至らぬ限り、

争いや闘争や対立を我々は超えることはできません。

だから、一体全体自分というものは、何者なんだろう。

で、誰によって、創造されて、何のために生かされているんだろう。

それを追求していかねばなりません。

ただ、生きているから生きている、それは何と言いましょうか?

無知の人生、盲目の人生、迷いの人生と申します。

だから、この世の中には、4タイプの人間がいるんだと

私は言います。

まず死人がいると言います。

では、死人とは何なのか?

命に生かされていながら、命を見失っているもの。命知らず、

これを死人と申します。

なぜ、死人と言いましょうか?

皆さんが肉体がここに生れおちる過程を創造して見てください。

お父さんの精子とお母さんの卵子の結合で、お母さんの子宮の中で

細胞の分裂を繰り返しながら、細胞の増殖を繰り返しながら、

何ヶ月何十日で、この肉体という器は仕上がっていきます。

しかし、そこに命を神が与えることがなかったのならば、

誰が生きるものとして、ここに生まれおちることが出来たで

しょうか?

肉体という器は仕上がっても、それに命を宿すことが出来なかった

のならば、お母さんのお腹をくぐった瞬間、それはもう死人、死体、

死産として、即火葬場行きではなかったでしょうか?

だから、命に生かされていながら、命に感謝も出来ない。

命に生かされていながら、命を見失っているもの。

これ、命知らず、つまり、死人と申します。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-28(Sun) 21:32:38】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
人生の旅(8)
今のように、本当にこの末法の世、機械や道具や、金やものや物質で、

変えることができましょうか?

金でもって平和はありません。

ものや物質で幸せに満たされることはありません。

本当に人生の旅を皆さん自身が理解して、人生の旅とは、本当の自分を

見出すための人生の旅であったと。

この見える物質、肉体が、すべてではなく、その物質、肉体の背後に

実在する神こそが、宇宙真理こそが、真の我であったという

その意識状態の中に目覚めて、そこに我たちが帰っていくことそのものが、

本当の肉体存在の目的、で、あるいはまた人生の旅ではないでしょうか?

ただ、この人生の旅は、口においしいものを投げ込んで満足するため

でもありません。

ただ、優雅に着飾って自慢するためでもありません。

ただ、肉の快楽をむさぼるためでもありません。

だから、人間が、肉体の快楽に溺れ生きるようになったときには、

とうとうこの世も終わりに近づいているとも予言されているでは

ないでしょうか?

言いたい放題、思いたい放題、やりたい放題、で、その積み重ねが、

誰が不愉快な思いをしようが、傷つこうが、破壊されようが、

苦しもうが、言いたい放題、思いたい放題、やりたい放題、

その積み重ねが、とうとうここまでこの現象世界を、

追いやったことを我々は理解しなければなりません。

毎日のように今は、よくこういう学びをせぬ方々も

言うではないでしょうか?

もう、今のテレビのニュースなんか見たくもない。

新聞なんかも目を向けたくない。

毎日のように、親子同士で、人間同士で、兄弟同士で、傷つけ

あったり、殺しあったり、奪いあったり、これが本当に

在るべき姿なのかと。

これはよく会場で、子供たちから質問を受けます。

なぜなんだと?

なぜ、なぜ、なぜ、と大人たち以上、子供たちの方がそこに敏感に

反応します。

世を変えて、本当に素晴らしい社会を作り上げるべき政治家は、

もうテレビのニュースを見る限り、全部、自分の懐、懐の暖める

こと他、知ってないではないのかと?

中学生の子供たちや高校生の子供たちが、そう訴えます。

世を立て直すべき政治家が、世を本当に悪いものから取り締まり

変えていくべき警察官が、本当にその最高な教育者と言われた

学校の先生方が、なぜ、今、このようなことをしでかしているのかと?

自分を見失った無知、盲目、迷ったものが、どうして正しい表現が

できましょうか?

どうして、正しく、自分を表現することが出来ましょうか?

だから、我々が一人一人が自分自身の本質が宇宙真理であることに

目覚めぬことが出来ぬ限り、正しい言葉、正しい思い、正しい表現で

生きよと、誰に望むことが出来ましょうか?

だからこそ、皆さん一人一人が、理解できる皆さん一人一人が、

美しく皆さん自身が、生きてもらいたいと。

美しい言葉、美しい思い、美しい表現に生きることにおいて、

皆さんから、素晴らしい愛の波動が放たれていくではないでしょうか?

その愛の波動がこの世を変えていくことほかにないではないでしょうか?




人生の旅 | 【2006-05-27(Sat) 18:30:59】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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じゃあ、キリストとは何ぞや?

無限の知恵です。

無限の力です。

無限の愛です。

無限の光です。

これを皆さん自身が日々の生活の中で、言うところ、行く場所、

示し生きていること、これをキリストの伝導と申します。

だから、今までのキリスト教が説いているように、さあ、黒い聖書

を持ち歩いて、何軒伝導してきたんだと、何の価値もないと

言います。

キリストの伝導とは、今いる場所で、世界が平和でありますようにと、

全人類が本当に調和されますようにという、その思いをもって、

愛の波動を放っているのならば、もうこれがキリストの伝導

ではないでしょうか?

しかし、黒い聖書を持ち歩いて何十軒をまわりまわったところで、

そのものの心が、分離、区切り、差別感で、あの人はこの人はと、

憎しみや怒りやそしり、狂っていながらの伝導ならば、そこに

行って、いい波動を与えたどころか、破壊的な波動を与えたこと

他にありません。

だから、伝導とは、今一瞬一瞬おかれている場所で、皆さんが一瞬

一瞬移動するその場、その環境で、常に愛を、言葉に思いに表現に、

で、その波動を放ち生きることが、これが本当のキリストの伝導

と申します。

今、ここで私はキリストの伝導、現に肉体という表現体を通して、

示しているのが、今のその姿ではないでしょうか?

なぜ?

私は皆さん一人一人をネガティブ、消極、破壊的な角度から、

あなた方を見ているではありません。

愛として、完全なあなた方をあなた方と見ています。

じゃあ、愛の波動を放たれているのならば、で、言葉において

愛の波動、思いにおいて愛の波動、表現においても愛の波動ならば、

まさにそれこそが、最高なキリストの伝導ではないでしょうか?

特別な方法ではありません。

黒い聖書を持ち歩く必要はありません。

皆さんが、常に語る言葉が愛という波動、そして思いが常に愛の

波動、で、表現一つ一つから常に愛の波動、だから、我々は、

言葉や思いや表現で、誰も不愉快な思いをさせてはならぬと。

誰も傷つけてはならぬと。

誰も苦しめてはならぬと。

で、そのような言いたい放題、やりたい放題、思いたい放題の、

そのネガティブ、消極、破壊的な波動の積み重ねが、とうとう

先ほども○○さんが言われたように、この世を末法に追いやったのは、

その意味ではないでしょうか?

だから、誰彼の責任でもありません。

万物の霊長として、正しく生きることが出来なかった我々一人一人

がその責任を担っていることを知ってもらいたい。

だから、我々は、これからは決して思いや言葉や表現で、汚すことの

ないように、徹底して、それを我々は愛に変えて、今まで汚した、

曇らしたそのネガティブな波動があるのならば、それを愛の波動で

もって、我々は打ち消していけるように、一人一人が努力して

いかねばなりません。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-26(Fri) 21:24:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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とうとう王子というその環境を離れて、すべてを投げ下ろして、

真の自分とは一体全体何者なんだろうと?

これは内観、内を観ると書きます。

内観という手段を通して、真の自分とは一体全体何者なんだろう?

それを何年間も追求することによって、とうとう宇宙即我(われ)、

宇宙即我(が)。

この大宇宙に遍満する宇宙真理、命こそが、我なりという答えを

見出したときに、二度と再び死ぬことのない、病むことのない、

年老いていくことのない、すべて一切の心配、不安、恐怖から

己が開放されたことを、これ不滅の仏陀と申します。

慈悲の仏陀と申します。

だから、よく仏教の教えにおいては、お釈迦様の名前が仏陀と

教え説いていましょうが、これ大きな間違い。

仏陀とは、永遠に朽ち果てることのない、不滅の己を宇宙真理として、

宇宙真我として、そこに目覚めたものを仏陀意識と申します。

あるいはまた西洋においては、キリスト意識と申します。

イエス様の名前がキリストだ、お釈迦様の名前が仏陀だ、

大きな最大の過ちを犯していること。

あなた方一人一人が、永遠に朽ち果てることのない、不滅の己を

宇宙真理として、宇宙真我として、実感したその瞬間、皆さん

もその仏陀、キリストという真我の中に、至っている自分を

体験することができるでしょう。

じゃあ、キリストは、12月25日をもって誕生するものなのか?

今のキリスト教は、この地球上が破壊に追いやられたときに、

どこかからキリストが、イエス様が、雲に乗って、皆さんの前に

救いに現れてくるといいます。

キリストはどこから現れましょうか?

皆さんの内から、現われ来ることを知ってもらいたい。

どこから、キリストはやってきましょうか?

あなた方の真我こそがキリストであるのならば、じゃあ、キリストは

仏陀は、初めから皆さんと共にあるもの。

で、今も皆さんと共にあるもの。

未来永劫に皆さんと共に実在しているではないでしょうか?

それを知らずして、イエス様がキリストだ、お釈迦様が仏陀だ、

イエスという言葉は、皆さんがこの肉体という現象我に名前を

付けて呼び合っているのと、全く変わらぬことを知ってもらいたい。

そのキリストという愛を、キリストという知恵を、キリストという

無限なるその宇宙真理を、現し示す媒体に名前を付けたのがイエス。

で、そのキリストとは、イエスというこの肉体という、この現象我を

通して、表現体を通して、無限の知恵、無限の力、無限の愛、無限の

光を表現なさしめたのが、そのキリストであることを知ってもらいたい。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-25(Thu) 23:40:25】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、いと小さき、弱き、肉体を我とする錯覚から我々は

覚めていかぬ限り、どうして真の幸せ、真の喜び、真のやすらぎを

得ることが出来ましょうか?

よく、私は友達や周りの方々に聞きます。

本当にあなた方は、これで満足ですかと?

本当にこれで幸せですかと?

で、その幸せにも色々な幸せがあって、金があるから幸せ、

いい職に恵まれているから幸せ、健康に恵まれているから幸せ、

色々な幸せを訴えます。

じゃあ、この瞬間、で、その現象という世界は移り変わる世界、

今日は何憶という何十億という金持ちが明日はとことん貧乏に

なるかもしれない。

で、また今日までは貧乏であった方が、明日からまったく逆に

移り変わっていくかもしれない。

そのように移り変わったときに、すべてあなた方が、所有している

ものを失ったときに、幸せでいることができるのかと言うならば、

誰もいることはできぬと言います。

じゃあ、この世の物質やものに振り回されて、崩されていく幸せで

あるならば、何の幸せでもないではないのかと。

何の価値もないではないのかと。

皆さんの幸せは、金があろうがなかろうが、で、この現象世界で

どう移り変わっていこうが、どう変化していこうが、それに

振り回されない、不動の心を作り上げて、愛に満たされたその美しい

真実なる我に目覚めてこそ、本当の幸せがあることを知ってもらいたい。

だから、この何十何年間振り返って、私の心が、何者に揺さぶられたこと

は一度もないといいます。

もう自信をもって、毎日が喜び、毎日が至福、毎日が幸福、なぜ?

例え、この肉体が、死に追い詰められたところで、それに振り回される

こともありません。

永遠の命が死なぬことを知っているからであると。

我は命なり、我命なるが故に、何者にも振り回されることのない、

久遠常在、不滅にして絶対実在である、真実の我を知っているからで

あると。

この本質である宇宙真理は、時代の新旧において変化することが

ありましょうか?

人間の観念、概念で作り変えたり、破壊することが出来ましょうか?

水の中に投げ込まれて濡れることもありません。

火の中に投げ込まれて焼けることもありません。

風にさらされて、乾くこともありません。

世界の武器を向けられても、破壊されることもありません。

じゃあ、そこに至ったときに、生老病死という四苦を克服したときに、

そこに何者がも振り回せない、本当の幸せを、至福を、やすらぎを

掴み生きることが出来るではないでしょうか?

お釈迦様も非常に疑問で苦しんだのも、そこだったではないでしょうか?

どんなに王妃というこの恵まれた環境にいても、生老病死という

四苦を超えることが出来ぬ限り、やすらぎはないんだと。

前を見れば生きる恐怖。

後ろを見れば死ぬ恐怖。

右を見れば病む恐怖。

左を見れば年老いていく恐怖。

前を向いても後ろを向いても右を向いても左を向いても。

常に、心配や不安や恐怖に怯え生きながら、どこにやすらぎ

があるのかと。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-24(Wed) 22:11:45】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、今生皆さんは、イエス様が説いた愛心、お釈迦様が説いた

慈悲心、宗教という名は異なっていても、その本質においては

全く同一であることをひとつにまとめて、すべてがひとつという

理解力を持って、すべてに示し生かす為に、今生皆さんが肉体という

衣装を纏ってその役割を、果たさんがために、ここにあることを

皆さん知ってもらいたい。

どこに宗教の名が違えば、神が違いましょうか?

一なる神が、万物を創造し、万物の中に、一なる神が命として、

生き働いていることを知ってもらいたい。

じゃあ、皆さん、この五感という目、耳、鼻、口、手足を

動かしているのは、命であって、肉体自らの動き、肉体自らの

働きなんて、ないではないでしょうか?

だから、人間は、私が作った、私が生きている、私がやった、

肉体というその生きてもないその現象我をさして、私が私が

と、うぬぼれと申します。

命知らずと申します。

だから、命知らずで生きているがゆえに、不滅のその宝物を逃がす

人間の何て多いことか。

私という肉体自らは無なり。

私という肉体自らはゼロなり。

私という肉体自らには、一点の知恵、力も存在しているんでは

ないんだと。

しかし、我が中には、ちゃんと全知全能なる神が、すべての能力を

与え生かしていることを知っているが故に、私には天上天下一切を

支配する力が与えられているものであると、そのように我々に

教え説いた聖賢、そのイエス様はそのように語ったでは

ないでしょうか?

で、あなた方が内なるその宇宙真理を認めさえすれば、あなた方が

私以上の御業をなしていくだろうと、そう説いていることであって、

私が特別な人間、私だけに特別な能力を与えられたものとは

一言も説いておりません。

神は人の上に人を作らず。

神は人の下に人を作らず。

じゃあ、同じ平等に与えられたその能力を、誰が閉ざしているのか?

私にはできない、私は無力です、私は苦しむものですと、限定、制約、

束縛を受けているのは、己自身があるが故に、皆さん

何と書きましょうか?

自縛と書きます。

自らして、自らの能力を閉ざしているんだと。

自らして、自らの能力を失っているもの。

自縛と書きます。

だから、自縛は、誰彼が縛っているとは書きません。

誰彼が皆さんを縛っているというのならば、で、その縛っている

そのものが、あなたがたを自縛から解き放つ責任を持たされている

でしょう。

自分自身で縛っている自縛は、自ら解きほぐさねばなりません。

自らが解いていかねばなりません。

それは皆さん自身が、正しい姿勢でもって、常に日々の生活を

生きることと、明想という手段を皆さんが用いることができる

のならば、誰しもがその自縛から開放されていくではないでしょうか?



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-23(Tue) 22:00:30】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
人生の旅(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、皆さんに今生与えられたそのチャンスを活かして、

本当の変性変生を迎えてもらいたい。

人間意識、肉体意識、個人意識という、小さな我から、

無限意識へと、普遍意識へと、宇宙意識へと、ならば、あえて

乗り物に乗らなければ、どこかへ行けないという限定、制約、束縛

を受けるあなたがたといいましょうか?

時間も空間も壁も距離もすべての一切を越えたあなたがたで

あるならば、我意識したところに我在り。

我の思ったところへ我いる。

これは私は自慢するためでもなく、ただ見世物にするためでは

ないけど、ちょうど私が小学校5、6年で、移民していった

南米アルゼンチン。でそこまで、行くには、ここから飛行機で

南米まで行って、で、電車やバスを乗り継いで、我々がいた南米の

ジャングルの田舎までは、少なくとも2週間以上、3週間あたり

かかります。

しかし、私自身がここで肉体在りながら、瞬間移動という状態を

使いいかすことができるのならば、何分何秒かかりましょうか?

3、4週間も時間を費やして、日付を費やして、事なすことが、

何分何秒で事をなすことができるではないでしょうか?

では、私は特別な人間なのか?

で、あなた方には、その能力は与えられていないのかと?

私は取るに足らないこの世の物質やものよりは、本当の自分自身の

神が与えた能力を示してみたかった。

本当にそれを得たかった。

そこにただ努力をしたのみではないでしょうか?

だからこそ、まあ私はキリスト教、仏教、何の宗教家でもありませんが、

そこにイエス様が言われたように、心を尽くして、精神を尽くして、

魂を尽くして、力を尽くして、汝の主である神を愛せよと。

で、我が内に内在の本当の宝物を見出せよと。

そうしたときに、あなた方は、私が今まで行った御業以上に、

あなたがたがこなすことができるだろうと。

だから、悟りを得たその聖賢の方々は、私が特別な人間、

私が特別に能力を与えられたものとは、一言も説いておりません。

私が、このなしている御業は、あなたがたもなさねばならぬと。

で、あなたがたができぬことは、何一つ私は事なしているのでは

ないんだと。

全く平等を訴えているではないでしょうか?

しかし、今の、本当に悟り得ていない、その無知、盲目、迷った

宗教家、あるいはその教祖、指導者はどうでしょうか?

私は特別だ、私が偉いものだと、どこに偉いものがいましょうか?

神という本質の中においては、皆が平等であることを知って

もらいたい。

だから私は常に、神は一にして多神と説きます。

姿、形、形体は異なっても、表現の方法は異なっていても、

生まれ育った環境は違っても、皮膚の色が黒かろうが白かろうが、

神という本質は、誰の主もかわりはないんだと。

我が中に内在の神も、あなたがたの中に内在の神も、動物や鉱物、

植物の中に生きる神も、全く同一であるならば、この大宇宙に、

唯一の神が、実在ではないでしょうか?

それを宗教は、あなたがたの神は、我々の神はと、常に神そのもの

で戦争。神そのもので争っているのが、今の愚かなる宗教家たち

ではないでしょうか?

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-22(Mon) 22:05:22】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
人生の旅(2)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、本来の皆さんは、死んでも死ぬことは出来ません。

年老いることもありません。

久遠にして常在、不滅にして、絶対実在と申します。

久遠と永遠のあなた方、常在とは常に在るあなた方、不滅として

一度だって破壊されたことのないあなた方、実在とは実際に在る

あなた方。

しかし、肉体を見てみてください。

肉体はこの一転生という人生行路を旅するための単なる乗り船に

しかすぎないではないでしょうか?

乗り船があなたがたであるはずがありません。

だから、この肉体という乗り船は、一呼吸ごとに、一息ごとに、

どこに進み行くのかと?

墓場へ進みいきます。

墓場から遠ざかっていく肉体、物質は、一人もおりません。

今生、どんなに鋼のような強き肉体を恵まれて、肉体衣装を

纏ったとしても私も同じ事、自慢ではないけれども。

私は、今生、いまだかって、疲れたという言葉を吐き出したこと

もない。

この肉体に、疲れたという体験、一度も味わったこともない。

一秒、この肉体が調子が悪くて病んで、横に倒した体験もありません。

非常にこのように恵まれた鋼のような肉体を与えられていても、

一呼吸ごとに、一息ごとに、墓場に進み行くではないでしょうか?

それから免れた肉体、物質なんて、一人もいないではないでしょうか?

生まれたものには死が訪れ、初めあるものには終わりがあり、

作られしものは、必ず破壊が訪れ来ること。

しかし、反対側の真のあなた方というのならば、それは永遠に

朽ち果てることのない、死んでも死ねない、年老いていくことも

ない、病み苦しむこともない、本来のあなた方の姿が、己自身

の中に見ることが出来ることを知ってもらいたい。

だから、そのために、真の自分が、何ぞやと?

それを追及して、皆さん、明想という手段が与えられている

ではないでしょうか?

ただ、無知、盲目、迷い生きる人生を終えてはなりません。

今生こそは、皆さん、無力の自分から、力ある我へと。

盲目の我から、目が開眼された我へと。

みなさんが開眼されてみてください。

今までは、ただ結果という形しか見えなかったあなたがたが、

結果という背後に、絶対実在である原因を見ることが出来る

ではないでしょうか?

花々も、ただ形ある花々が咲き誇っているのではありません。

そこには、花々を咲きほこらしている原因という命の輝きが、

花々の中に内在していることを見れるあなた方になってもらいたい。

それを開眼と申します。

無力の自分から、力ある我へと。

盲目なる我から、目を見開いた開眼された我へと。

迷った我から、悟り在る我へと。

今までは現象という結果の世界を真っ暗闇を手探りに、

歩んだ我が、本当に光という真実なる世界からものを見れる

、感じ取れる、我へと変生(へんせい)、変性(へんしょう)

せんがために、皆さん、今生、肉体という衣装を纏った

ことを知ってもらいたい。




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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-21(Sun) 15:24:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(1)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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今日も、昼間、話をさせてもらったように、人生の旅。

世の人間は、何て人生の旅を狂わせているのかと。

あたかも人生の旅は、金儲け、あるいは物質やものを

かき集めるための人生の旅だという錯覚している人間の何て

多いことかと。

だから、今のような人生は、無知、盲目、迷い生きているがゆえに、

戦争、闘争、対立、どうしてそれから免れることが出来ましょうかと。

皆さんが本当の人生の旅を歩んでもらいたい。

人生の旅は、幾転生というこの旅を重ねて、皆さん何のために?

一体全体、真の自分とは何ぞや?

どこから出てきて、どこに向かって旅をしているのか?

その旅の目的が何なのか?

旅の目的終えて、どこに帰るのか?

その答えをはっきり見出さんがために、今、我々は肉体という

衣装を纏って、この現象世界に生かされていることを

知ってもらいたい。

ただ、周りのものが生きているから、生きているんだ。

ただ、周りのものが食して生きるから、生きるんだ。

無知のままに、盲目のままに、迷いのままに、無力のままに、

そのために神は我々を創造して、この地球というこの世界に

降ろしてくださったではありません。

もっと真実なる我を、宇宙意識として、すべての中に現し示して

生きよと。

さきほども、○○さんが言われたように、我々が宇宙意識という

のならば、我意識したところに我在り。

我の思ったところに我いる。

すべての中に、真の自分が宇宙真理であり、命であることを

理解できるのならば、その命は限定して、この肉体のみに

存在しているではなく、この大宇宙至るところに遍満している

己を知ったときに、時間も空間も壁も距離も、行きたい場所に、

行きたい時間に、瞬間にそこに移動して行く事ができるでは

ないでしょうか?

これは誰彼に特別に与えられた能力ではありません。

神は人の上に人を作らず。

神は人の下に人を作らず。

すべてに同じ能力を与え生かされているにもかかわらず、

ただ金やものに溺れいって、真の能力を見失っていくのか?

真の自分が宇宙真理であり、神であることを見出して、正しい方向に

この肉体を使い生かすか。

ただ、その差であることを知ってもらいたい。

だから、肉体存在の目的、で、人生の旅の目的を、皆さんにはっきり

掴んでもらいたい。

何のために、皆さんは、鏡の前に立てば、写し見ることの出来る

この肉体をあたかも私という錯覚をします。

神は皆さんの心の扉を叩いて、何と語りましょうか?

あなたがたは、ただ見える物質、肉体があなたがたではなく、で、

霊的な無限の存在が、真のあなた方だと、常に扉を叩いて、

訴えてくれているではないでしょうか?

錯覚から覚めよと。幻覚から覚めよと。

自らに目覚めよと。自らの心を開きなさい。

小さな自分を捨てなさいと。本来のあなたがたは、永遠に朽ち果てる

ことのない不滅の実在ではないのかと?







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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-05-20(Sat) 22:17:17】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
認めるものが現れる
ここ何年も毎日のように、テレビのニュースを見れば、

親子が殺し会ったり、幼い子供の命が奪われたりと、

暗いニュースばかりです。

まさしく、末法の世界となっています。

そんな中、わたしたちは、どこに意識を向けたらよいのか?


わたしの家庭もそうですが小さなお子さんがいる家庭は、

不審者が出たりして、登下校中に自分の子供に何か

おきやしないかと心配します。

同じ保育園に通う親に自分の子供を殺害されたというような

事件もありました。

このような世の中だから、もう誰も信用できないよねと、

多くの人が言います。

そんな中、私は常に完全のみを思うように心懸けています。

自分の子供が帰り道に何かないだろうかと、考えること自体が

心配想念であり、ネガティブ、破壊的、消極的な意識だと思う

のです。

不完全意識そのものであり、完全意識ではないと思うのです。

神への信仰が薄いと思うのです。


認めるものは現れますので、そのように子供に何かおきやしないかと

思えば、その通りのことが起きる可能性があると思うのです。

全く、一瞬たりとも、そのような想いが頭に浮かんでこないこと。

これが、神意識だと思うのです。

ほかにも、事故に巻き込まれやしないかとか、病気になるのではとか、

そのような想いは、神を信じていないことになります。

偉そうなことを言っていますが、わたしも当然、まだまだ

このような意識が出てきます。

そのたびに、想いを中断し、自分の思考が神意識ではないことを

反省しています。

一歩一歩、ひとつひとつ、進むしかないのです。



認めるものが現れるというのは、偉大な真理です。

ヒマラヤに在住する聖者の方々は、死を知りません。

死自体が何なのかわからないし、認めていません。

認めていないから、現れようがないので、死ぬことがないのです。


もう何百年も生きている聖者方がおられるのです。

私たちには、人生80年とか、人間は70歳、80歳になれば、

寿命があり、死ぬものであるという思いがあります。

一般常識となっています。

死を認めてしまっているのです。

認めているから、死んでしまうのです。

病気や風邪も認めているからこそ、かかってしまうのです。

少しずつ、私たちは、意識を変えていき、光あるものとして、

神への奉仕ができるようになれたらなと思います。



未分類 | 【2006-05-18(Thu) 23:28:02】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
神への想い
真理はひとつしかありません。

それはすべてがひとつですよ。

皆さん方は、肉体ではなくて、生命なんですよ。

肉の自分に生きるのではなくて、生命の我を生きてください。

と先生は繰り返し繰り返し、もう何十年も同じ事を私たちに

説いています。

自分の使命を全うすること、人々への奉仕のみに生きておられます。

私たちは、先生のおっしゃることが分かっているつもりに

なっているのですが、

本当の深い部分では、理解できていないのが現状です。

ですから、意識は徐々に高まるものであって、

先生がおっしゃることが、

このことについては分かっていると思っていたものが、

今、また聞くと、もっと深い捉え方ができるようになったり

します。



私自身が今、すごく学ばせてもらっていることは、

神は完全であるということ。

これは一瞬一瞬の意識が勝負であること。

少しでも、疲れたなとか、仕事が嫌だなとか、

子供の心配をしてみたりとか、病気のことを考えたりとか私たちは、

そういう意識が無意識のうちに出てきてしまいます。

そうしているときは、私たちは、不完全を意識しているということ。

神意識ではなく、人間意識であるということ。

これを1日24時間、どれだけ、神意識でいられるかということに

つきると思います。

寝ているとき、夢を見ているときでも、どれだけ、神への想いが

あるか、これが神意識だと思います。



最近、「ヒマラヤ聖者の生活探求」を読ませてもらいました。

その中で、聖者の方々は、野獣を見ても恐怖を感じません。

野獣を見ても、愛しか見ないのです。

常に神意識なのです。

野獣も聖者から恐怖感を感じないので、襲うことはありません。

私たちもジャングルの中で野獣を見て、恐怖を感じないで

いられるか?

どれだけ、神への信仰を持っているか?

神への信仰が強ければ、絶対に恐怖感は出てこないはずです。

聖者の方々は、恐怖を知らないのです。


それが意識の高さであり、悟りの高さだと思います。

そんなことできるわけがないだろうと、私たちは聖者とは違うと

思ってしまいますが、私たちと聖者の方々との間に、

違いはないですよね。

聖者である方々ができることは、わたしたちにも出来るはずです。


私は、今、自分の想いとして、常に聖者である大師だったら、

どのような言葉、想い、行動をするだろうかと考え、そこへ

近づくよう努力しています。

私たちは、一人ではありません。

このように、目に見えない多くの方々が、私たちを導き、

指導してくださっているのです。

毎朝、祈りましょう。

「神よ、また目に見えない私を指導してくださっている指導霊

の皆様方、どうぞ、今日も一日、わたしを神の使いとして、

お使いください。」

未分類 | 【2006-05-17(Wed) 22:37:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(完)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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ここで話をしているのは、ここにいる何名に話しているをしていると、

皆さん方は、錯覚しています。

そうだったら、私は話しません。

価値がないからです。

目に見えない方々、皆さん方のご先祖の方々、大きな供養に

なることを知らなくちゃなりませんよ。

皆さんがたが何万回、重箱をあげるよりも、ご先祖に、ここに

集まっていただき、こういうお話を聞かすことが如何に、

供養であるかが、おわかりになると思うんですね。

ご馳走あげることが供養ではないわけです。

供養というのは、真の我に、その真理を理解することが、いかに

供養であるか。

奉げ物をささげることが供養ではないわけです。

真理を奉げることなんです。

これが一番大事なことなんです。

それが今日の真の自分について、彼らもまだまだ、

真の自分については無理解のようでございます。

だから、ここで私が話をするたびに、殺到して、話を聞いて、

自分の悟りを徐々に高めている方々でございます。

だから、皆さん方にこういう理解がもっともっと、皆さん方の

中に高めて、完全なる我、真の我を肉を通して、表現していかん

ことを、私は望んでやまないものでございます。

今日は、これをもちまして、真の自分についての説明を

終わらせていただきたいと思います。

本当にありがとうございました。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-17(Wed) 22:29:43】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(18)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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それに皆さん方、負けないように。

勇気を持ってそれを克服しなくちゃならない。

だから、イエスは、我は世の悪を克服したものであると言われた

のです。

あなたがたも世の悪であるその迷いの姿を克服しない限り、

真の勇者、天使にはなれないわけです。

それを今、私たちは修行中でございます。

その悪をいかに克服できるか、悪の誘惑に負けないようにするか、

負けたら皆さん方、もう心の中に苦しみとなって入っていますね。

それが、皆さん方、よく負けるんです。

ここで、話を聞いている間は、よし今度こそは負けないぞと言って、

ここを離れていくんだけど、負けて、また「先生、私苦しいー。」

と言って戻ってくるんですね。

それをはりのけるのも自分自身。

だから、それを難行苦行と言うわけです。

難行苦行とは、山の中にこもることが難行苦行ではないんです。

今、私たちは、ものすごい難行苦行を受けているんですよ。

だから、きびしいんです。

神の道が、簡単であるのならば、神の世界が価値あるものではないわけ

です。

非常に厳しい中を切り開いていくことによって、神の完全さが偉大

であることが分かるわけです。

簡単に取り入れるものであるのならば、値打ちのあるものでは

ありません。

色々値打ちのあるものというのは、簡単に手に入らないからこそ、

値打ちがあるのではないでしょうか?

あなたがたの悟りも簡単に手に入るようなものではないのです。

世の悪と世の誘惑に打ち勝つことなのです。

それに打ち勝たなかったのならば、敗北者であるのならば、

私たちは、汚れ、けがれ、そのまま来世を待つしかないわけです。

この世には、無知のまま、あの世に帰った方がいっぱいいます。

今、私の話を聞きながら、その方々がいっぱいここにいらっしゃい

ます。

あなたがたの数倍を超える人たちがいます。

皆さん方は、肉を去った方々とあなたがたと遠いところに

存在するものではなく、その目に見える、物質質量がないだけ

なんです。

みんな、同じところに住んでおられます。

そういう方々も、今まで、私のような話を聞いたことがない。

これは珍しい人材が沖縄に生まれてきたなと言っておられます。

それは、今聞いた話ではなく、何回もその霊人から、わたしは

御礼を言われたことがあります。

そして、内界へと内界へと、実相世界へと、彼らも幻想の世界から、

神我を顕現して、神の世界へと完成を整えて帰られた方々からの

お礼を私は何回もいただいています。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-17(Wed) 01:15:36】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(17)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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それを実在だと受け止めているから、苦しむんです。

ここにある世の中にある悪というのは、影であって、実相では

ございません。

幻なんです。迷いの姿なんです。

だから、心の影を見て実在とするなかれと私は言いたいんです。

それは迷いの姿であって本来の姿ではありません。

皆さん方は神我とは何かというと、完全無欠の我であり、実相であり、

そして神界に存在するものなのです。

だから、2人の自分があることを知ることです。

偽りの自分とほんものの自分。

今、私たちは、偽りの偽我というものを自分だと思って、外の

3次元界で、生活しているわけです。

しかし、その偽我の自分とは何かというと、本来は神我の我を

この世に顕現せんがために、皆さん方にこの肉体が創造されている

わけです。

神我顕現のために、肉体は存在しているのです。

だから、皆さん方は、この肉を通して、何パーセント、本当に

完全なる言葉遣いと思いと行動ができるか?

それが善あるのみなんです。

善悪は迷いの中にしか存在しない。

そこを私たちはよく気をつけていただきたい。

もう、○○さんなら、理解できましたね。

実相の自分を眺め、そこに自分の中に完全無欠の自分が我なんだ

、その肉体というのは、完全なる我を表現せんがために、この

3次元に創造されていたものであった。

それを知らずに私たちは、その肉我で生きている周辺の自分の環境、

思想、そして教育に目が眩まされてしまって、とうとう自分まで

偽我の環境の中で、迷いの中にぼっつりとつかっていたことを

知ることです。

周囲が迷い人だから、我も迷い人であっていいものということは、

どこにも存在しないわけです。

だから、私たちが今、厳しいのは、周囲の自分の旦那さん、自分の

子供、周囲の人々がみんな迷っているために、そこで自分が完全で

あることに勇気が要るわけです。

勇気が要ります。

周囲がみんな迷い人だから。後ろを見ても横を見てもどこを見ても。

迷い人だけだから。

自分の完全さであるその神我を、この世に現すということは、

相当の勇気がいるわけです。

なぜなら、常に私たちは、悪の誘惑を受けるからです。

周囲の誘惑、家族の誘惑、その誘惑に、皆さん方は

耐えきれるんだろうか?

ひょっとすると神我であると思いながら、カーとなって短気が

おこる場合がある。

それはサタンの誘惑に負けているんですね。

あるいは友達に誘惑されて、色々な誘惑が世の中には待っている

わけです。

それは五感の感化というサタンなんです。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-14(Sun) 13:37:34】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(16)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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それはできるものではありません。

皆さんがた自らが体験することです。

正法真理の実践というものは、神我を肉に現すことが実践なんです。

あなたの3次元の肉に、その神我は完全ですから、完全さをあなたの

言葉において、思いにおいて、行動において、表すことが正法実践で

ございます。

これ以外にどこにも正法実践はありません。

それが正法実践でございます。

正法というものは、神我にしかないのです。

神我を我に現す、肉体に現す、それが正法実践でございますね。

正法には、決して憎しみもなければ、怒りもないし、そしりも

ないんですね。

悪口もないのでございます。

正法に、憎しみや怒りがあるのならば、正法ではないのです。

それは末法となるのです。

だから、わたしは正法家であると名乗りながら、人の批判をしている

正法家がいっぱいおられます。残念です。

これは正法家ではありません。

正法実践である、正法というのは、正しい言葉、皆さん方は、

まだまだ正しく物を見ていない。

本物を見ていない。

それを正しく見る、正しく思う、正しく語る、せめて、皆さんがたが、

この3つでも出来るようになりましたら、皆さん方は正法家で

ございます。

ものを正しく見ていますか?

喧嘩している人を見て、罵り合っている人を見て、嫌らしい人間だな

と皆さん方は思うでしょう。

そうしたとき、皆さん方は、正しくものを見ていないのです。

彼らは、迷いの姿、偽我のぶつかりあいであって、本性ではない

のです。

本質的ではないのです。

彼らは、偽我の現れであって、神我の現われではないのです。

彼らは迷っているなと見るのは正しく見ています。

だから、皆さん方は、まだまだものごとを正しく見るという

ことを実践しなくちゃならないのですね。

罵り合っている相手方を見て、嫌らしいなと思ったならば、

彼らは迷って苦しんでいるな、偽我で生きているんだな、

神我というものを知らないんだなと思えば、愛しくなるわけです。

愛したくて、しようがない。

そのとき、神よ、仏よ、そのものにやすらぎを与えてください。

光を与えてください。

自ずから祈らずにはいられないでしょう。

それが、神我の現われなんです。

それは、皆さん方、正しくものを見ています。

正しくものをみているわけです。

正しくものを見ることができるのならば、皆さん方、おのずと

正しく思うことができるのではないでしょうか?

正しくものを見ることが出来ないことによって、正しくものを

思うことができないのです。

正しく思うことが出来るのならば、おのずと正しく語ることが

出来ると思うのです。

だから、私たちの五感の目は、迷いを見ているんです。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-13(Sat) 10:19:26】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(15)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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みなさんの心には、まだまだ色々なしこりがありますね。

あります。私は見て分かります。

皆さん方に一人一人、まだまだその真の自分というものを

保っていませんので、いろいろなしこりやあなたを苦しめている

束縛、あなたの自由を奪っているものが、皆さん方の一人一人の

心の中に見えるわけです。

それは、まだまだ神我という真の自分を自覚していない。

そして、偽我の無知が受け入れている心。

心に曇りがあるわけです。

心に曇りがある間は、皆さん方は、純白な心、神の御心には

なっていないわけです。

迷いがまだあるわけです、心の中に。

その迷いが心のスモッグとなっているわけです。

曇りとなって、皆さん方は、なかなか心が晴れないわけです。

心が晴れないのは、迷いを取り入れているから。

無知そのものがまだまだ、心の中に、住みついているわけです。

無知が開放されたとき、どうなると思いますか?

清い心となるわけです。

そのことをイエスは、心清きものよ、幸いなり。

そのものは、御国に入るだろうといわれたのです。

皆さん方の心が、清くなったとき、もうあなたの心の中には、

その皆さんの心を乱すようなものはなくなるわけです。

乱された心は、心が清い人間とは言いませんね。

皆さん方の心が乱されたとき、どういう状態が起こりますか?

体験してますよね。

いらだちますよね。

心の乱れていない、清い人間、純白な心というのは、乱れが

ないんです。

いつも平安でいるわけです。

誰があなたの心を乱しますか?

あなた自身なんです。

あなたが無知で色々なものを、実在しないものを受け入れること

によって、心は汚れ、汚れるわけです。

それが皆さん方の束縛であり、苦しみであり、悲しみであり、

色々な不調和を起こす原因となるものなのです。

それがなくなったとき、神のような心になるわけですね。

それは、あなた方自身がとりなして、やらなくちゃならない。

それを知るためには、真理を知らなくちゃならない。

真理とは何か?

皆さん方、真理が何であるか、お分かりですか?

真理とは真実なるもの、現実的なもの、実際的なもの、

であると同時に、目に見えないものであるわけです。

目に見えるものは真理ではないわけです。

外に真理は存在いたしません。

目に見えないところ、それを取り出して、皆さんに説明できない

ことが私の苦しみでございます。

本当に皆さんに、取り出して、ここが実相世界なんですよと

見せたいくらいなんですね。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-10(Wed) 21:29:59】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自由について(14)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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皆さん方は真理を知ることによって、真理は汝を自由ならしめん。

真理を理解して、真理を行うことによって、皆さん方は、この偽我

で作ったすべての制約、束縛から解放されて、自由を得るのでは

ないでしょうか?

そのことを真理は汝を自由ならしめん。

真理とは何かというと、実在、神我のことなんです。

神我を知ることによって、皆さん方は、偽我が消えるわけです。

偽我なるものは、本物が現れれれば、偽物の偽我は消えますね。

皆さん方は、どうですか?

本物が現れれば、偽ものは、闇ですから、本物という光が現れれば、

闇は消えませんか?

消えるわけです。

例えば、数学でも本物の答えが出れば、間違った答えは消されるのです。

それと同じように、今、私たちは間違いだらけのものの中にいるわけ

です。

そうすると、そこに本物が現れれば、おのずから偽物は消えてなくなる

わけです。

あなたの本物の我が現れれば、偽物の偽我である我は消えるわけです。

それが自由を得るわけです。

観自在、菩薩となるわけです。

今、皆さん方を束縛しているのは何だと思いますか?

無知なんです。

真理に対しての無知が皆さん方を束縛しているのです。

だから、皆さん方は、真理を学ぶことによって、理解することによって、

皆さん方は、自分を束縛していたものから開放されるわけです。

そのことを真理は汝を自由ならしめんとイエスは言われたわけです。

最大の罪とは何かというと真理を知らないことが最大の罪であると

言われたわけです。

真理を知らないものが罪を犯すからです。

真理を知っているものは、罪を犯さなくなるのです。

だから、皆さん方は、学ばなくちゃならない。

行わなくちゃならない。

実践しなくちゃならない。

皆さん方は、その分だけ、人より束縛から開放され、自分を縛って

いたのは、自分の無知であったと。

あなたを苦しめているのは、誰ですか?

あなた自身の無知であることが分かりますね。

あなた自身の真理に対しての無知が、あなた自身を苦しめ、

束縛しているのです。

皆さん方は、真の自分を、我を知って、真理を学ぶことによって、

無知から開放されるわけです。

これを自由、真の自由というわけです。

今、私たちは真の自由を理解している人々は、世の中にあまり

見たことがありません。

みんな、この世の物質的な自由を、自由だと思っているのです。

だから、3次元的な自由であって、本質的な自由ではありません。

心の面では、実際、苦しめられています。

真の自由というのは、心が開放された、何もない空の状態。

縛りのない、囚われのない、苦しみのない、純潔、純白の心、

これが真の自由でございます。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-09(Tue) 22:37:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(13)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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だから、皆さん方のひとりひとりが、霊性さを保って、なぜそうなるか

という悟りによって、皆さん方は、自分を完成して、真実なる自分を

この世に現していただきたい。

そうしたとき、皆さんがたは、この神我を肉を通して現したとき、

周囲の人とどうなると思いますか?

どのようになると思いますか?

周囲は、みんな変わりますね。

この人はもう素晴らしいと言うでしょう。

そうです。これが世の光なんです。

これが天照大神の象徴でございます。

我は世の光なりと言われたわけです。

神の再臨でございます。

肉を持った神様、生き神様となるわけです。

そのことをイエスは、人間は生きた神の宮なりといわれたのです。

皆さん一人一人の中に、生きた神が実在するわけです。

その生き神様が、神我であるわけです。

そうして、肉というものは、宮というものは、その生きた神を

表現する世の光となるわけです。

イエスは、我は世の光なりと言われたわけです。

神我を現したとき、世の光となるわけです。

日本語では、天照大神となるわけです。

平安のことを、日本では、不動明王さまと呼んでいるわけです。

平安ということは、もう迷い人の言葉にもう迷わされない。

姿にも迷わされない。

そんなものには関係ない、不動の精神。

それが不動明王なんです。

それはみんな象徴であって、不動明王の仏像を拝んだからといって、

不動明王になるわけではないんです。

私たちは、悟りによって、不動明王になるわけです。

不動明王になっていますとそれは、知恵が出てまいります。

冷静の人は、いつも知恵に満ち満ちているのです。

そうしたとき、文殊菩薩となるわけです。

わかりますね。

文殊菩薩には知恵がありますので、千人にも万人にも法を説くわけです。

真理を説くわけです。

それを千手観音というわけです。

それはみんな悟った人の象徴であって、象徴を拝んでどうなるのかと

私は言いたいのです。

皆さんがたが、不動明王であり、千手観音であり、文殊菩薩であり、

天照大神であってほしいわけです。

それを私たちの偽我なる、盲目なる無知なる者は、いろいろとそれを

神だと拝するようになったわけです。

それが自分の中にあることを忘れていったのです。

特別のものが、そこにどこかにあると空想、幻覚、幻想している

わけです。

それを奉って、一生懸命拝んでいる無知の姿。

拝んで何になりますか?

不動明王さまを拝んだら、不動明王になるんですか?

それは自己満足というものなんです。

それは何万回拝みましても、自分がそうならなくちゃならない。

という存在を知ることです。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-08(Mon) 23:00:29】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(12)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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信頼感を得てまいります。

これは、わたしの体験を通してやっているからです。

体験をしていなければ、私は皆さんの前で申し上げることは

ありません。

私は、自分のものに入ったもの、金は、自分のものとは思って

いませんので、どんどん使います。

私のために使うのではないのです。

人様のために、色々と今、奉仕をさせていただいているのです。

奉仕をするとどうなると思いますか?

それは、作用・反作用の法則ですので、どうなっていくと思いますか?

与えれば与えられんの法則で、皆さん方も、それは日常生活で体験

されていると思います。

与えて与えられない法則というのは、どこにもないのです。

奪えば奪えられる。

与えれば与えられんの法則。

それに本当に、そのようにのったのならば、もう皆さん方は、

しめたものなのです。

それが皆さん方の貧乏を解決してくれることなんです。

それは必ず、ものを与えることだけではないのです。

ものよりももっと大事なものがあることを知らなくちゃならない

のです。

わたしは何を多く与えているのかというと、真理を与えているのです。

人様に真理をです。

こういう生き方をしますと、こういうものから開放されますよという。

こういうものの考え方は、こうなりますよということを、全国を

まわって、こういう話をさせてもらっているのです。

そうすることによって、全国の人が、迷いから完全なる神我に帰って

いただきたいという愛の奉仕をさせていただいているわけです。

愛あるところ、常に神が存在いたします。

だから、私は常に恵まれているわけです。

これを皆さん方もその通りの生き方、勇気をもって実践して

いただきたい。

それは、金銭的な、物質的なお金よりも大事なものを人にささげる

わけです。

愛というものをね。

だから、そうしたとき、皆さん方は、神我に近づくわけです。

どうでしょうか?

肉体の役目、もうお分かりですね。

肉体が何で、この世に存在しているのか?

これは、神我である神をいかに、私たちが、神我を肉を通して、

表現するために、創造されたか?

それが皆さん方の繰り返し、転生輪廻であったわけです。

今世で皆さん方は完成しますと、輪廻という道草を食う必要は

ありません。

何回も何回も道草を食って私たちは、数世紀にわたって、

生まれ変わりをしてきたわけです。

何回も何回も失敗を犯しまして、なぜ、失敗を犯したかというと、

こういうことを説く人がなかなか出てこられなかったからなんです。

だから、誰も教えてくれないから、それがわからなかった。

しかし皆さん方は、今恵まれています。

こういう教えをする、肉体とは何か、神我とは何か、偽我とは何か、

この3次元とはどういうところなのか、あるいは天上界とはどういう

ところなのか、はっきりとそれは、皆さん方に見せるわけには

いかないのです。

それは悟りによって得るものなのです。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-07(Sun) 22:24:49】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
真の自分について(11)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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彼らはそうすることによって、余計苦しんでいるわけですよ。

人を迫害することによって。

そしることによって。

可哀想な同胞であるわけです。友であるわけです。

これを私たちが許さないという追い討ちをかけるということは、

自分も偽我であるということなんです。

自分も迷える存在であって、悟った存在ではないわけです。

非常に大事なものなのです。

だから、その、迷っている自分と悟った自分には、何の境目も

ないわけです。

あなたがた、神と自分との間に、何か境目があると思いますか?

あなたの迷いの中に、神と自分との分離をしている防壁がある

わけです。

これを取り除けば、皆さん方は、みんな、完全無欠の神界の存在

なんです。

だから、このことを、みんなが悟ったとき、地上天国というのが

訪れるわけです。

そうすると、地上天国というのは何かというと、みんな、自分が

我は神我であったという肉体に完全さを現したとき、真のユートピア、

真の地上天国が、この地上界に訪れるわけです。

天国というのは、あそこに見よ、ここに見よというものでは

ないわけです。

私たちの心の中に、悟りの中に、天国はあるわけです。

憎しみがなくて、そしりがなくて、怒りがなくて、悪口がなくて、

真の平安、本当の神我の完全なる我を現しているものは、どこに

おっても天上界なんです。

この3次元においても、天上界なんです。

もうそこには、自分を迷わすものがない、狂わすものがない、

妨げるものがない。

なぜなら、妨げているものは、みんな迷いであるということを

知っていますので。


だから、我々は、知らず知らずのうちに、こういうことを知る

ことによって、貧乏というものがどういうことが原因で、貧乏

になったか、それもわかるようになって、皆さん方は、貧乏に

なる必要がないんです。

なぜなら、神我は無限の供給であり、あなたがたが本当に

神我に目覚めたということになりますと、そこに欠乏というものは

ないんです。貧乏というものは、なくなります。

現実に、今、わたしのことを、皆さん方、貧乏のように見ている

かもしれませんが、大金持ちなんです。

なぜなら、神のものはわたしのもの、わたしものは神のものである

ということを知っているからです。

わたしは、この地上界のどなたよりも大金持ちなんです。

彼らが持っているのは有限の富なんだけども、私がもっているものは

無限の富なんです。

だから、わたしはどこにいても平安なんです。

それも皆さん方にも、もうやがて理解できてきます。

その実相と、偽我である、その神我と偽我との、この関係が

分かってきますと、皆さん方力そのものであり、知恵そのもの

でありますから、皆さん方、その3次元的な金を得る力と、

あるいは、この神我が現れてきますと、多くの人々から信頼感、

ものすごい信頼感を得てきますので、あなたが貧乏するということは

なくなるわけです。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-05(Fri) 23:44:39】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(10)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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本物というのは、神界の神我の我に到達したとき、本物のものの

見方ができるんです。

皆さん方の目は、あってないようなもの。

なぜなら、迷いしか見えない。

悟りが見えない。

悟りとは何かと言ったら、分からない。

迷いといったら、みんな分かっている。

嫌らしい姿、嫌らしい言葉、嫌らしいものしか見えない。

それを真実なるものである、現実的なものであると受け止めている。

だから、迷いの心が生じるわけです。

心は混乱します。心は苦しみます。

これは、実相ではないんです。仮相なんです。

影なんです。幻想なんです。

それをわたしたちは、ご先祖の祟りだとか、水子の祟りだとか、

いろいろなものを幻想して、自らが画いて、その恐怖の中に、

自らを地獄に閉じ込めている存在。

仮相の中に閉じ込めている。

で、恐怖しておののいているわけです。

決して、皆さん方は、実相において一度だって、苦しんだことも

なければ、悩んだこともない、完全無欠の存在である自分。

それが、皆さん方に内在する神我でございます。

真の姿。真の我。

もう今日で、真の自分について、わたしは完全無欠の存在で

あったんだけれども、私の肉の感化というものの考え方が、

狂っておったんだな。

この肉体というものは、この神我そのもの、真の我をこの世に、

真実なるものを表現するために、創造されたものだったんだ。

と今日、ここでお悟りになることなんです。

そうしたときに、皆さん方に真実の姿が顕現されてくるわけです。

これを神我顕現という訳です。

お分かりですね。

何パーセント神我顕現が出来たんだろうか?

それに非常に皆さん方の、その神我顕現が何十パーセント出来たか

によって、皆さん方の霊格、というのが決まるわけですね。

不完全なる者に、霊格が高い人がいますか?

だから、いろいろな人の悪口を言ったり、あの人は動物霊がついて

いるとか言う人は、まだまだ不完全なんです。

そういう人の悪口を言ったり、そしったりしているひとは、

神我にはそういうそしりとかはないんです。

彼は神を知らない。自分の実体を知らない人が、人に悪霊が

ついている、地獄霊がついている、動物霊がついているというのは、

みんな偽我から出てきているんです。

迷いの言葉なんです。

だから、わたしは、ある人から動物霊がついていると言われたんですよ。

言われたけれども、迷った人が言っているんだから、いいんじゃないの

と思うわけです。

可哀想になるんです、言っている人が。

だから、皆さんがたは、自分を迫害する人は、迷っている人が迫害

するのであって、悟っている人が迫害する人はいないわけです。

だから、皆さん方の悪口を言っている人や、迫害をしている人たち

さえも許せるのではないでしょうか?

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-04(Thu) 00:06:30】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(9)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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そこには何の分離もなかった。私たちの偽我の心の中に、分離と

差別があるわけです。

無差別なんです、神我に入りますと。

だから、私はよく皆さん方に言うわけです。

あなたはわたしの中にいます。

わたしはあなたの中にいます。

わたしがそう言っても、皆さん方は、なかなかその答えを出して

くれない。

なぜそういうんだろうかと言うと、神我の中には、分離も差別も

何もない存在。

大宇宙という大生命そのものしかないわけです。

一元しかないわけです。神一元の中に分離も差別もないわけです。

神は、完全無欠の方でございます。

完全無欠であるならば、ありてあらゆるものも完全無欠であるべき

なんです。

完全の中に、完全無欠の中に、不完全なるものがありえますか?

もしあったとするならば、完全無欠でなくなるわけです、神は。

神は完全無欠であるということは、私たちの心が、その不完全さを

作り出して、自らが苦しんでいるのであって、実相においては、

真実においては、苦しみも迷いも何もないということが分かる

わけです。

そこを皆さん方は、よく理解しなくちゃなりませんよ。

なぜ、そう言うんだろうか?現実にあるんではないのか?

と皆さんは言います。病気もあるんじゃないか?

苦しみもあるのではないか?

あなたが苦しんでいると思っているだけ。

病気があると思っているだけ。

あなたがその神我の我を肉に現したとき、完全さを現したとき、

病気がありましょうか?

神我に病気がありますか?

苦しみがありますか?ないです。

苦しみは迷いが作っている迷いそのものなんです。

非常に大事なところなんですよ、今日言っているところはね。

それを知った人と知らない人とは天と地の差が出てきますよ。

今日のお話は、非常に大切な部分なんです。

そして、あなたがたは軽く目をつぶっていただいて、あー、本来の

私は神我であり、神であり、完全無欠な我が我であり、私の真の我は、

神界に存在し、この肉体というのは、その神界の我を、この世に現さん

がために、肉体があったんだなというお悟り。

そうしたとき、皆さん方は、もう自分の本質、真の自分を知って

おられますので、肉を通して、真の自分を現す修行が今日から

始まるわけです。

そうすると、それを知った人と知らない人と、天と地の差が

あるわけです。

今日、皆さん方に、これが明かされたということは、非常に

大事なことですね。

ここに来るたびに、いろいろな真理が明かされてくるわけです。

それを聞く人と聞かない人とでは、天と地のものの考え方が

違ってくるわけです。

今、世の中には、たくさんの盲信家、狂信家がいることを

私は残念に思っています。

彼らの思っていることは、観念であり、空想であり、偽我で

解釈しているわけです。

偽我のものさしで、迷いのものさしで、ものを見ているのです。

それは曇って、ひずみがあって、色づいて、本物ではありません。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-01(Mon) 20:16:29】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真の自分について(8)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。

(1987.09.10より)

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この潜在意識はやっかいなもので、神意識も記憶するし、表面意識も

記憶する。

それが、皆さんの持っている中間意識と言われている潜在意識

なんです。

だから、その潜在意識は、皆さん方がこの世で修行したものを記憶

してそのままの意識状態でしか帰れないんです。

憎しみ、恐怖をいっぱい持っているものは、憎しみの世界にしか

帰れないんです。

ねたみや怒りをいっぱい意識しているもの、そういう人は、あなた

の肉を去りましても、その意識は消えるものではないのです。

だから、私たちはが潜在意識が完全に、神意識と一体となって、

神のみを記憶したとき、完全のみを記憶したとき、皆さん方の

言葉も完全な言葉となるわけです。

完全なる思いとなるわけです。

しかし、今、皆さん方は、日常生活で、何を意識して生きている

んだろうか?

3次元を意識しているのか?あるいは自分ごと、自己中心、私ごと

しか考えていないのだろうか?

意識していないのか?自分ごとしか考えが出来ない人間は、自分

のことしか知らないのです。

自分のことさえも知らないのです。

周囲の人がどうなっているのか分からない。周囲の人は意識しません

ので、自分さえ幸せで健康で金持ちであればいいと思っている小さな

意識なんです。

あるいは自分ごとより、少し大きいのは、家族のことを考えている。

自分のことも考えているが、家族のものが、幸せで健康であってほしい。

それは、また、少し大きい意識なんです。魂なんです。

自分の家族だけではなくて、隣人のことまで考える人がいる。

あるいは村民、国民、あるいは世界的、皆さん方は今、自分の意識が

大きいか、小さいかくらいは、自己判断できるはずです。

意識の高いか、低いか、高揚しているか、高揚していないか。

ほとんどの人が自己中心的で、自分のことしか考えない、小さな意識。

これが、あなたの潜在意識に記憶されていったとすると、あなたは

相当苦しまなくちゃならないんです。

その潜在意識の中には、利己主義であり、エゴであり、全部、自己

中心的である。自己顕示欲であり、そういうものをいっぱい詰め

こんでいるわけです。

記憶されているわけです。その記憶されているのは、あの世に

帰りましても、そういう記憶しか持っていませんので、平安である

完成された神界に入ることは出来ないのでございます。

だから、天界、天上界に入るカギというのは、皆さん方が持っている

わけです。

修行によって、この地上界に生まれ変わるたびに、皆さん方は除々に

成長してきまして、完成されていっているわけです。

過去生では、皆さん、慈悲深い人ではなかったかもしれないけど、

今生になりますと、何となく、慈悲深い、情け深い人間として

それだけ成長してきたのです。

だから、今、皆さん方は自己完成をすべきなんです。

自分の存在が何であり、本来は、この真の自分というものは、

完全無欠で、無病で、苦しんだことのないあなたなんです。

それをこの肉に、今生で、完全さを、自分の中に、愛そのもの、

それを皆さん方は、肉を通して、現すことが出来るんだろうか?

これは非常に大事な問題なんですよ。

これを通してのみしか、皆さん方の魂は高揚しない。

意識は拡大しない。それが高揚してきますと、皆さん方の視野が

広がりますね。視野の拡大。

で、そこまで、神我にいきますと、そこには、分離も差別も何も

ない。自他一体。一体観念。全一の生命。全一の意識。

神の意識そのものは、その大宇宙に遍満するのは、一つの生命であり、

一つの意識である。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真の自分について | 【2006-05-01(Mon) 08:54:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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