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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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外は仮相世界、内は実相世界(1)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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外は仮相世界、内は実相世界。

じゃあ、皆さんは、何のために明想されているのか。

この仮相という結果の世界から、実相という原因の世界へ

みなさんは、自らを導くために、明想という手段が与えられている

ことを知ってもらいたい。

だから、イエス様もお釈迦様も外を見るな。

皆さんが悩み、苦しむのは常に外に生きている人間の言葉、

表現、それに振り回され、苦しみ生きていることを

知らねばなりません。

だから、私自身が、なぜ、この何十何年間、一度も苦しみの

体験なし。

で、なぜ、悩み、苦しまないのか。

常に内を見つめている結果ではないでしょうか。

外という結果世界は、仮相であることを知ってもらいたい。

じゃあ、取るに足らない仮相に振り回されて、どうして落ち込んだり、

悩んだり、苦しみ生きる必要がありましょうか。

それを愚かなる愚者と申します。

だから愚かなる愚者が見つめているものは、常に仮相という結果世界、

常に外側しか見ることが出来ない。

外は本物と言えましょうか。

本物は、皆さんの内に在り。

だから、明想という手段を通して、常に内へ、内へ、内へと

入りいく訓練を皆さんはされているではないでしょうか。

我、血や肉や姿、形でもなく、人間、肉体、個人でもなく、

我は霊なり、我は真理なり。

で、イエス様やお釈迦様が宇宙即我(そくわれ)、宇宙即我(そくが)、

我は真理なり、我は神なりと断言して言いきれたのは、内なるその

実相世界へ、自らを融合させてのことではなかったでしょうか。

大海にしみる一粒の滴。

内なる大海にみなさんが錨をおろしたとき、内なる大海に身を

おいたとき、大海の知恵が、大海の力が、大海の愛が、皆さんを

通して現し示されること、これをキリストの伝導と申します。

無限という知恵、無限という力、無限という愛や光を皆さんが、

観自在、無碍自在、自由自在に示し生きることを、キリストの

伝導と申します。

決して黒い聖書を持ち歩いて、どこの家庭を伝導してきたでは

ありません。

今、一瞬一瞬おかれている場で、皆さんが常に内側から語り、

見、思い、生きているのならば、それは皆さんの一言一言は、

これ実相という本質そのものから開いた真の言葉ではないでしょうか。

真の思いではないでしょうか。

だから、この内側に融合されたものは、こう言われます。

神が見たもうがごとく、我見ます。

神が思いたもうがごとく、我思います。

神が表現したもうがごとく、これ表現します。

じゃあ、神は、すべてを通して、美しいものほかに見てはおりません。

何を感じても捉えても、美しいものほかに実感されておりません。

だから、我々のこの目は、人の悪いところを見る目ではないこと、

常に真実、美しいものを見るための目。

常に真実、愛の、美しきものを語るための口。

人の噂話や世間話を聞くための耳ではなく、常に真実なる

神のメッセージをすべてから宇宙真理というその声を聞くための耳。






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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




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外は仮相世界、内は実相世界 | 【2006-06-30(Fri) 22:08:44】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
努力と忍耐
瞑想する時間ですが、最近は、ヨガナンダ師が言われるように

一日四回とはいきませんが、確実に朝と就寝前にしっかりと

時間を取ってするようになりました。

現代人ではなかなか一日四回というのは難しいとは

思いますが、時間が取れる人は、朝、そして昼食前、

そして夕食前、そして就寝前に規則正しくすると良いと

おっしゃっております。


朝起きて瞑想するのも、去年までは朝の4時ころに起きて、

瞑想しようと時間を取ったりしていたのですが、ほとんど

寝ていたなんてこともしばしばあったのですが、

ここ最近では、夜中2時ころに就寝して、4時半ころに目が

覚めてそのまま瞑想しても、しっかり意識をもって瞑想できたり

と、それだけでも少しは進歩があるのかなあと思っています。

これが、持続できるかどうかというのが大きな問題なところですが。


睡眠時間のことですが、聖者の方々はほとんど寝ることなく、

先生も一週間でも何日でも寝なくても全く問題ないと言われます。

寝なければ体に支障をきたすというのは、全く人間の観念・概念

であると訴えられます。



確かに我々は子供の頃から、人間は1日8時間寝ることというのを

親から聞かされ、それが当たり前になっており、今でも日本の

平均睡眠時間は、7時間30分くらいのようです。

10年以上前に、ある先生の本で、先生の睡眠時間は一日4時間

程度(その何年か前の当時)というのを読んだときに、すごいなあ

と思ったことがありましたが、今自分自身もそのような状態に

なっているので、それだけでもだいぶ進歩ができたなかあと

最近の生活を振り返ると感じることが出来ます。

夜中の2時に寝たのに、4時ころに目が覚めるなんていう

ことは、ちょっと信じられないことだったのですが、もっと

もっと瞑想して努力する時間を取ろうと意識が強まっているので、

自然と目が覚めることが出来たんだと思います。

これが当たり前のように何ヶ月、何年も続けることができれば、

神も熱意に負けて、姿を見せてくれることでしょう。

忍耐と努力、この2つの文字がどれだけ重要かということを

痛感させられます。

いくら努力しても、なかなか神は現れてくれないと、私たちは、

忍耐を忘れ、努力を継続し続けないことが多いですが、そのような

心には、神は降りてくださらない。


先生がよく言われるように、努力、努力、努力、そして忍耐、忍耐、

忍耐が、この霊的な道を歩むときには、必要不可欠です。

この地上界が神の国へと導かんがために、共に学び、共に頑張り

ましょう。

感謝

未分類 | 【2006-06-28(Wed) 23:08:57】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
瞑想の大切さ
先生がお勧めしてくれた『人間の永遠の探求』(森北出版)

パラマハンサ・ヨガナンダ講話集を読ませてもらっています。

先生自身は本は読んだことがないが、テープで聞いたことがあり、

私の生き方にそっくりであるとおっしゃっており、是非読んだ

方がよいと勧めてくれました。

著書の中で、ヨガナンダ師は瞑想しなさい、瞑想しなさい、

瞑想しなさいととことん畳掛けるように、私たちに瞑想

することを勧めています。

朝、昼、夕、夜と一日四回、規則正しく瞑想することを勧め、

そして週末には一日六時間以上の瞑想をするようにと、何をする

ことよりも瞑想することが好きになるようにとおっしゃって

います。

六時間以上と言うと、そんなことは出来ないと思う人が大半だが、

ピアノの練習を一日六時間以上練習する人がいるのではないのかと、

訴えています。

確かに人は好きなものであれば、何時間でも時間を忘れて夢中に

なることが出来ます。

私も子供の頃は、ギタリストになりたいと思って、ギターの練習に

明け暮れた頃もありました。

その頃は、確かに一日六時間くらい練習していました。

そのようにこの世のものに夢中になれるのなら、実相世界を掴む

のに必要な瞑想にそれだけの時間を費やして、努力して、努力して

いく必要があると痛感させられました。

寝る暇も惜しんで、瞑想しなければ、神は降りてこないとも

訴えられています。

先生と全く似ており、朝の四時前に就寝したことがないと

ヨガナンダ師は言われます。

朝も昼も夜も泣き叫んで、神を求めてきたヨガナンダ師は、

あなたがたの神を求める心が、情熱が強ければ、必ず、神は

応えてくださるとおっしゃっています。

イエス様も子供がパンを欲しがるのに、石を与える親がどこに

いようかとも言っております。

私たちは、どれだけの努力をしているか、神我到達への道は、

生半可では到底、到達することはできないということを実感

させられました。

とにかく、今、自分が何に意識が向いているか、俗なテレビ番組

や映画などに夢中になる時間があるのであれば、

それは仮相の世界に夢中になっているということであり、

そのような状態では神は応えてくださらない。

それこそ、パンを欲しがっているものには、パンを与えるしか

ないのではないでしょうか。

著書の中では、10時間以上瞑想する子供の話も出てまいります。

神を実感するには、四六時中神のことだけを考え、瞑想、瞑想、

瞑想以外にないということを痛感させられ、またもっと努力しよう

と強く決意させてくれた一冊でした。



未分類 | 【2006-06-26(Mon) 22:10:44】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
真理こそ実在(完)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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しかし、出来る限り我々は、苦しまずとも悩まずとも喜び

やすらぎ生きる方法もあるんだと。

自分を正しく生かすことが出来るのならば、あえて苦しみ

もがく必要もないんだと。

それは、私が何十何年間の体験からして皆さんにはっきり言うことが

出来るではないでしょうか。

裁けば裁き返されます。

で、非難しれば、非難し返されます。

破壊すれば、破壊し返されます。

常にそのように自分を縛っていかねばなりません。

しかし、すべてを愛して許すことができるのならば、解放されて

いくではないでしょうか。

だから、我々はその自由意志を誤った方向に使い、うらみ、ねたみ、

そしり、怒りに使って、ネガティブ、消極、破壊的な方向に

使って、自らを縛ってはなりません。

本当の自由とは、すべてのすべてから解放されたときです。

肉体を与えられていながら肉体にも縛られない。

この現象という見える世界を与えれられていてもそれに

振り回されることのない。

どんなに皆さんがこの世のものを得たところで、死後の世界まで

持ち帰られるのならば、私はそれを得るなとは言いません。

しかし、一円、一物、持ち帰ったものはいません。

持ち帰ることができるのは、どれほど、我々は愛という神の愛に

近づき生きることが出来たか、その宝以外に持ち帰ることは

出来ぬといいます。

共に我々は本当に宇宙真理という本質を正しく受け止めて、

誰と敵対しよう、誰を殺そう、誰を傷つけようではなく、

すべてを許して、すべてを無限というその愛の中に

包みいけるようになって努力していきたいと思います。

共に手を取り合って、共に助け合って、本当に皆さん一人一人

の体験を共にここに学びながら、一歩一歩成長していきたいと

思います。

今日も皆さんと共に学べたことに心から感謝いたします。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-24(Sat) 08:29:50】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(12)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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じゃあ、神があの人は都合良いから愛しましょう、この人は

都合悪いから愛せぬと言うのならば、我々なんて常に神を

背にして反発してきた我々、とうにもう処分されていたでは

ないでしょうか。

しかし、神は無限に我々を許して、無限に愛す方。

ほれ、このように生まれながらに今生も言葉で思いで表現で、

もう振り返ってみれば一点のいいところのない生き方をした

この私でもここまで許して愛して、導いてくださったでは

ないでしょうか。

何て、神は慈悲深い方か。

何て、神は愛深き方なのか。

そこに我々は一歩でも近づき、一歩でもその大愛を示し

生きれるように、努力、努力、努力が我々に与えられた一瞬、

一瞬が実在ではないでしょうか。

過去ではありません。

未来ではありません。

非難受けようが、非難しようが、そのものが今の一瞬という実在を

どう表現しているか、どう生きているか、どういう境地に

至っているのか、これが一番大切なこと。

どんなに悟り得たという錯覚をしていても、本当に神から

与えられた無限の喜びを実感がない限り、で、その境地にいない

限りは、何も悟ったではないではないでしょうか。

また、悟ったものが、私は悟った、悟った、悟ったと言いましょうか。

聖者方は常に常に私を通して御業をなしているのは神なり。

どんな表現でも神なくして本当に生きること、表現すること、

事なすことが出来るのかと、常にそう訴えているではないでしょうか。

皆さんの本質は愛として、知恵として、力として、神は常に

皆さんを生かし下さっているではないでしょうか。

無知、無力、迷い生きるためではありません。

力なき我を本当に力で満たし、無知なる我を知恵に満たし、

一転生という人生を人としてではなく、本当に無限の能力に、

愛に、知恵に、力に、満たされ生きるがための今生の一転生という

大切な日々を与えられている他にないんだと。

だから、決して無駄にしてはなりません。

無限という大海の中に常に喜び、常に幸せ、神はこの前も

こう言います。

決してあなた方に悩みや苦しみやガンなる病気を与えたんでは

ないんだと。

常に完全というその境地を味わって喜びに生きよと。

幸せに満たされ生きよと。

それが神たる親が与えたあなた方へのプレゼントと言ったでは

ないでしょうか。

なぜ悩むと、なぜ苦しむと。

もちろん私は悩み、苦しみが悪いものとは言いません。

悩みを通して、苦しみを通して、不調和を通して、ここまで

成長を遂げたのは、もちろん我々はここまで磨き上げたのは、

最高なそのものを通して磨き上げたこと。

だから、それは否定、批判ではありません。

病気で悩んで苦しんでいるものを悪いものとは言いません。

悩めるものよ、幸いなり。

苦しきものよ、幸いなりとも言われたではないでしょうか。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-22(Thu) 22:39:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(11)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、分離、差別で、罵ったり、非難したり、裁いたりは、

本当の一体感という体験はなされてないことを、自分の体験から

して言いきることができるではないでしょうか。

我は全体であり、全体は我なり。

我はすべてであり、すべては我なり。

一命一体ではないでしょうか。

一命一体を通してすべての存在があることを知ってもらいたい。

まさか、私のこの肉体物質とあなた方のその肉体物質と全く違った

質量で組み立てられているのならば、それは分離もできましょう。

しかし、誰のこの肉体物質を分析しても全く同じ電子、陽子。

じゃあ、同じ電子、陽子から非難しているものも非難されている

ものも全く同じ質量で組み立てられていること他にないではない

でしょうか。

じゃあ、一つの体ではないでしょうか。

それを宗教では自他一体と説いているではないでしょうか。

自分と他は分離とは説いておりません。

自分と他は分離ではなく、自分と他は即一体。

いろんな宗教でそのように訴えているにもかかわらず、常に分離、

分離で争っているのが今の宗教ではないでしょうか。

イエス様が説いた愛心も、お釈迦様が説いた慈悲心も、

サイババさんが説いているその真理も全くその本質は、全く同一な

真理を説いているほかにありません。

役割が違い、表現の方法が違い、説く角度、説き方は違います。

しかし、その本質が、説き方によって、その本質が違いましょうか。

説き方によって、本質が狂うことがありましょうか。

ならば、真理を説きながら、分離、分離、分離を説くならば、

それはただ言葉のみであって、口先のみであって、本当の宇宙真理

という本質の中にはいないという結果ではないでしょうか。

罵り、怒り、非難するものにさえも宇宙真理という本質を見つめて

いるのならば、神よ、このものに光よ。

心にやすらぎを。常にそう祈ることができるではないでしょうか。

間違ったことをしたからとて、裁いたところで、そのものが変わる

ことができましょうか。

変えることができましょうか。

そのものが私はこう生きたい、このように変わって、こういうものと

なっていきたい。

自らの意志で自らが努力せぬ限り、少しでもイエス様に似た生き方を

しよう、お釈迦様のように慈悲に満ちて生きよう、自ら意志を持って、

自ら努力して掴むことが出来ぬ限り、誰が裁いたから、誰が言ったから

変わることができましょうか。変えることができましょうか。

我々は誰を変えようではなく、自らが自らを責任もって愛で満たすこと

が、これが最高な我々の目的ではないでしょうか。

人生の目的とは何ぞや。

肉体存在の目的とは何ぞや。

どこから出てきて、どこに向かって旅をし、その旅の目的は

何なのか。

旅の目的を終えてどこに帰るのか。

許しあって、分かち合って、いたわりあって、思いやり生きること、

徹底してそれを理解せんがための肉体存在の目的であって、都合

いいものは愛します、都合悪いものは愛せない、都合いいものは

仲間、都合悪いものは仲間はずれ、どこに真実の愛がありましょうか。






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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-21(Wed) 22:54:04】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(10)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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その答えを得たが故に、心配や不安や恐怖は克服されたでは

ないでしょうか。

だから、皆さんも与えられた試練や宿題に背を向けて、

逃げようではありません。

隠れようではありません。

逃げて逃げられるのならば、誰でも逃げましょう。

隠れて隠れられるのならば、誰でも隠れましょう。

逃げたところで、それは神の内。

隠れたところで、そこは神の内。

じゃあ、どこでも神の外に逃げることはできぬではないでしょうか。

だから、全て立ち向かって、全ての答えを得た真の勇者と

なってもらいたい。

戦争に行って、何十名、何百名の敵を倒したから勇者でもなければ、

いくつもの城を攻め落としたから勇者でもなく、疑問とする一つ

一つ、背負っている問題一つ一つを、常に正しい姿勢でそれを

克服していくことそのものが本当の勇者ではないでしょうか。

一番大事なことは幾転生という人生の過程を通して、積み上げて

きた自分の心の中に詰めこんできた悪習、思い癖、その一つでも

誰よりも多く切り捨ていけることができるかではないでしょうか。

罵ろうが非難しようが裁こうが、そのものが憎い、そのものが嫌、

一度も感じたことはないと言います。

全一体、我は全体であり、全体は我なり。

我はすべてであり、すべては我なり。

憎んだ相手は私です。

それは私がちょうど、あの神戸の地震を後一ヶ月というその時に

見せられたというではないでしょうか。

ちょうど、神戸の地震を一ヶ月前にして、夜中明想していますと、

ここに何千という棺が現れています。

それは何を意味しているんだろう。

で、その一つ、棺がふた開いて、明想して座っている自分自身が

そこに吸い込まれていきます。

あー、もう私の肉体は今日で終わりなのかと。

とうとうもう棺の中に今日納まって、終わっていくのかと。

で、そのように、心配も不安も恐怖もない。

そのように見つめていますと、しかし、私の本質である命は

永遠不滅。

何もこの肉体の終わりで、本質が死ぬことはないではないのかと、

私見つめ、意識しますと、また、一旦納まりかかったその肉体が、

ふた開いた棺から出て、明想している私に重なります。

しかし、何千という棺は消えていくことがないが故に、

何を意味しているんだ、どうしたんだろうこの棺はと言いますと、

神は他の目を持ったあなたが入りますと。

で、他の名を持ったあなたが入りますと。

じゃあ、あの何千名というあのときに犠牲となって肉体を脱いだ

者は、すべて本質という命において私という意味ではないでしょうか。

その理解が出来るのならば、誰を非難すること、誰を怒ること、

誰を裁くこともないことがそこに言えるし、そこに感じ取ることが

できるではないでしょうか。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-19(Mon) 21:22:55】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(9)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、私ほど、裁かれたり、非難・批判を受けたもの、おそらく

いないでしょう。

じゃあ、この何十何年間、私の心は、その非難の言葉や裁きの言葉に

一度だって揺れ動くことがあったのかと。

毎日のように非難・批判しているものよりも裁いているものよりも

毎日が喜びでありやすらぎで満たして生きているではないでしょうか。

喜ばしきことに皆さんが決して有頂天にならず、で、悪しき事に

皆さんが決して振り回されずにいることが一番大切なことでは

ないでしょうか。

六十何億の人間から名を知られ、ちやほやされても、万物の造り主

である神にあなたはよく生きてくれたと、本当にあなたの一転生

という思い、言葉、表現は神仏の御心を徹底して生きてくれたと

言われなければ、何の価値もないではないでしょうか。

だから私はこう目指します。

この世の六十何億の人間からちやほやされても嬉しくもない。

誉められても有頂天にもならない。

で、けなされて落ち込む必要もない。

なぜ?

一番大切な役割を、正しく我々は現し示すために、神はこの肉体を

与えてここに生かし下さっていることを知るからです。

どこから出てきたのか、どこに向かって旅をしているのか。

その旅の目的は何なのか。

旅の目的を終えてどこに帰るのか。

それは私、小学生の時から追及してまいりました。

で、また、2歳からは、世の大人は、自分の身内のものや親戚、

兄弟姉妹を亡くした時は、もう落ち込むほど苦しい、悲しいと

言うけど、じゃあ一体全体、その死というものは何を意味して

いるのか。

死に対する恐怖があるのならば、で、また年老いていくことに

不安があるのならば、その年老いていくということは何を意味

しているんだろう。

病み苦しいというのならば、その病というものは、我々に何を

教えているのかと。

それは小学校から追求してまいりました。

ただ、大人が言うから真に受けて、信じたものでもありません。

ただ、そういうからそうという受け止めでもありません。

皆さん一人一人も死の恐怖というものがあるのならば、

死というものはは何ぞや。

年老いていく不安があるのならば、年老いていくというのは、

何を意味しているのか。

病み苦しいというのならば、その病というものは、不調和と

いうものは、何を教えているんだろう。何を意味しているんだろう。

で、私、小学校2、3年に、我々の家の近くに幽霊が出ると

言われます。

で、友達はそこに近づくこともしない。

もう怖い、で、恐怖と言います。

そのような意識状態を持っているものは、いまだかってそれに不安、

恐怖に怯えているだろうと。

しかし、私は今日は、この正体を何をさておいても見つめてみようと。

で、そこに歩み寄っていったのならば、どこかの家庭から真っ白い

シーツが飛ばされてきて、きれいにソテツの上に乗っかっていただけ。

あー、幽霊の正体はシーツだったのか。

じゃあ、私はその答えを出したではないでしょうか。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-18(Sun) 20:18:43】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(8)
愛を言葉に、思いに表現に、現し示す大切な道具。

だから、無視してもいけません。

だから、大切に扱わねばなりません。

しかし、必要以上にこの肉体を甘やかしてもならぬと。

で、また、その肉体に執着をおいて振り回されてもならぬと。

だから、いつもバランス。

見えるものと見えないものとは、常に一体だよと。

それ、イエス様は天地一体と説かれました。

見えない原因が存在しなければ、見える結果は存在することは

できぬと。

科学は、ミクロとマクロを用います。

見えないミクロなくして、見えるマクロ世界は存在することは

できぬと。

様々な形を我々は見て、これが実在だという錯覚をしている

ではないでしょうか。

実在するものは、唯一ただ一つ。

この大宇宙に遍満する唯一の神が実在。

病気も悩みも苦しみも、それは我々がそれが本物なのか、

偽物なのか、それが実在なのか、非実在なのか、それは見極めて

みなさんが、本当の愛というものを知るまでのただ宿題として

与えられていること他にないんだと。

まさか、病気が永遠不滅の実在であるのならば、誰がその病気、

癒すことができたでしょうか。

どんな病でも皆さんが、正しいその薬を用いたり、で、正しい

また本当の医者にめぐり合ってすれば、その病気は癒えていく

ではないでしょうか。

なぜ?本物ではなかったがゆえに。

偽物であったがゆえに、消え去ったこと他にないんだと。

実在ならば消えることはありません。

皆さんの命そのもの、実在。

それは火の中に投げ込まれて焼けることないではないでしょうか。

水の中に投げ込まれて濡れることないではないでしょうか。

風にさらされて、乾くことないではないでしょうか。

世界の武器を向けても破壊することはできぬではないでしょうか。

だから、真理は久遠にして常在。

不滅にして絶対実在。

時代の新旧において変化することもない。

で、人間の観念、概念で作りかえることも崩すこともできない。

絶対なる法則ではないでしょうか。

それをない法則を作り上げて、輪廻転生、転生輪廻の法則、カルマ

の法則。

それはもちろん、我々が過ち生きる限りは、何回でも何十回でも

真の自分を理解するまでに、チャンスは与えられています。

で、それを繰り返していることが、これを輪廻転生と皆さん、

言うではないでしょうか。

そうでなければ、私自身が一命一体という境地を体験したときに、

何万年の転生させられた法則、今ここに説けたり。

幾転生という人生の過程を通して、背負ってきた業や罪やカルマは、

崩れ去ったりという境地を味わうことは出来たでしょうか。

だから、皆さん一人一人が、宇宙真理は言葉で聞いたり、ただ本や

書物を読んで、議論、討論するのではなく、本当にそのもので

いるか、皆さん一人一人が常にこの現象という結果に振り回される

ことなく、誰が非難しようが、誰が罵ろうが、また誰が誉めようが、

それに振り回されることのない、本当のやすらぎを得ているのか。

掴んでいるのか。これが一番大切なことではないでしょうか。


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多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらっています。

今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-17(Sat) 15:09:36】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(7)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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あなた方自身の中に、私を呼べば、そこに私はいるのではない

のかと。

それは神は我が内にありというその示しではないでしょうか。

まさか、誰彼には特別な神が宿って、誰彼には低い、誰彼には

高き、誰彼には、で分離したものはありえぬではないでしょうか。

だから、あなた方があなた方の内に、私を呼びさえすれば、

そこにいるんだというのが、神は手よりも足よりもはじめから

我が内にあったと。

真理は我が内にあり。

いまだかって人手に渡ったことはないと。

真理を外に求むるなかれ。

真理は我が内にあり。

真理を見出した聖人の方々は、常に我々にそのように訴えかけて

きたではないでしょうか。

イエス様は、父なる神と私とは一つなり。

お釈迦様は、自灯明・法灯明、我が主とせよと。

外という結果世界にもちろん我々が我が内に見出すことが出来た

のならば、外にも遍満し、遍在していることは感じ取ることは

出来ましょう。

目の向けるところ、で、皆さん自身が感じ見ているところ、

すべてそこに内在の神を見きれるではないでしょうか。

そのための我々のこの一転生という人生は与えられていることで

あって、これ昨日の晩に話をさせてもらったように、人生の旅とは

何ぞやと。

ただ口においしいものを投げ込んで、ああこれはおいしかった、

これはまずかった、ただそのように食に振り回されるためでは

ないんだと。

じゃあ、またその肉体という衣装に優雅に着飾って、自慢するため

でもないんだと。

あのマネキンでもあるまいし、どんなに我々がいいものを着飾った

ところで、死後の世界までこの肉体というこの器も持ち帰ることは

出来ない。

上に着飾っているその衣装とてまた持ち帰ることは出来ない。

持ち帰ることが出来るのは、どれほどこの一転生という人生を

通して、一歩でも神の愛に自分が近づくことが出来たか。

それ以上にそれ以下に持ち帰ることは出来ぬと申します。

何を持ち帰ることが出来ましょうか。

皆さんも一円、一物、死後の世界まで持ち帰ったという話を

聞いたことがありましょうか。

いつか我々は、この世この世と見ているこの世さえも、すべて

おいていかねばならぬではないでしょうか。

だから、この世は仮の宿。

で、この肉体という物質もこの衣装は、いつか脱ぎ捨てねばならぬ

がゆえに、死に肩を叩かれれば、いつかはこの肉体という物質は

脱ぎ捨てねばならぬが故に、仮の衣装ですと。

仮の姿です。そういうではないでしょうか。

かといって、わたしはこの仮の姿である肉体を無視せよでは

ありません。

決して、粗末に扱いなさいではありません。

これは神を現し示す大切な媒体です。

だから、イエス様はキリストの伝導体と言ったではないでしょうか。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-15(Thu) 22:47:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(6)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、皆さんの本質は愛です。

皆さんの本質は知恵です。

皆さんの本質は力です。

決していと小さき、弱きあなた方であってはならぬと。

皆さん一人一人に与えられたその試練を通して、宿題を通して、

どこに逃げよう、どこに隠れようではなく、徹底して皆さん自身が

その愛という剣でそこに立ち向かって、昨日も話をさせていただいた

ように、勇者とは偽我そのものを克服したものが勇者であって、

先ほどの話の通り、自分自身のこの心というジャングルに潜んでいる

幾転生という人生の過程を通してこの汚してきた、染めてきた、

悪習、思い癖、それを克服しいけるものが勇者であって、

戦争に行って何十名、何百名の敵を倒したからといって勇者では

ありません。

じゃあ、倒した相手は誰なのかと。

我そのものではないでしょうか。

これはわたしがこの宇宙真理という一命一体を体験したときに、

わたしも今までは分離で差別区切って生きていたときは、

誰彼を罵れた、罵った相手は自分であることを知りました。

誰彼から何かを奪えた、奪った相手は我そのものであることを

知りました。

そのとき、私の内から涌き出てきた思いは、一命一体。

愛するは愛されるよりも美しく、全てを幸せにすると。

そのように我々は、すべてのすべて、あってあるものと、全く

同一なる宇宙真理をともにするものであって、じゃあどこに、

差別して、神は人の上に人を作らず、神は人の下に人を作らずで

あって、初めからあの者、この者、役割は違います。

表現の方法は違います。

顔、形が違うが如く、で、その皮膚が違うが如く、しかし、

インドのサイババさんも、神も訴えているではないでしょうか。

神は一にして多神。

姿、形、形体は異なっていても、表現の方法は異なっていても、

生まれ出てきた環境は違っても、皮膚の色が黒かろうが白かろうが、

本質、その宇宙真理には全く変わらぬ、同一なんだと。

例えば皆さんが、海から、さあここに今日、学びに集った一人一人に

で、海から海水をくみ上げてこようと。

で、力あるものは大きなバケツ、また一人一人、持っていく器は

違います。

ある者はコップ、ある者はビン、ある者は様々な入れ物を持って

行きましょう。

形も違います、大きさも違います、色も違います、それは我々の

この体と全く同じ。

皮膚の色も違い、形も大きなものから小さきものと、様々な形、

そのように様々な器を持ってきて、汲み上げてきたその海水を

ここに揃えて大海なるその本質の海水と我々が汲み上げてきた

ものとそこに差がありましょうかと。

入れ物は様々異なっていても、汲んできた海水というその本質は

全く同一ではないでしょうか。

それを神は一にして多神。と訴えたではないでしょうか。

サイババさんも、私だけが神の化身ではないんだと。

あなた方が即そのもの、神の化身なんだと。

なぜ、あえて、私を、命という本質をサイババさんの中に

見きれればそれは最高、しかし、なぜ、あなた方は私にあえて、

ここまで私のその現象我である肉体を見に来ようとするのかと。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-14(Wed) 15:24:17】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(5)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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すべては愛の中に創造され、で、すべては愛を与えられ、

生かされているではないでしょうか。

花々が咲き誇っている表現は、愛そのものではないでしょうか。

誰が見ていようが、誰が見ていまいが、花々は、私はこの南米の

ジャングルで育って体験するがゆえに、それが非常に理解できます。

ジャングルの中で、誰一人、何ヶ月何年何十年でも何百年でも

人の入ってこないジャングルのあの山奥でも、与えられている

限り、生かされている限り、その花々は常に精一杯美しく

咲き誇っています。

さあ、ここは通りもないし、人も見てくれないし、誰がも見て

くれないところに、半分花開こう、半分花咲かせよう、そのような

表現はいたしません。

また、その町のど真ん中に植えられて、人通りがいいから、常に

人が見るから、精一杯花開こう、そのようなこともありえません。

だから、花々は見ていようが、見ていまいが、与えられて生かされて

いる限りの精一杯の表現を、愛として現し示しているではないで

しょうか。

で、また、鉱物においては親和力として、動物において本性として、

花々や木々において本質として、じゃあ、万物の霊長たる我々は

どうなのか。

出来る限り、神の愛に近づき、出来る限り、神の愛を現し示すために、

万物の霊長と言えるではないでしょうか。

一言とて我々は、ネガティブ、消極、破壊的な言葉を放っては

なりません。

すべてをいたわり、すべてを思いやり、すべてと愛分かち合って、

最高世界を作らんがために、万物の霊長として、ここに創造おか

れていることを知ってもらいたい。

じゃあ、神は、何の役割も与えずに、ただ、そこに誰かを作って

おいたと言いましょうか。

神はそこに創造し、で、生かしたことにおいては、必ず一人一人

それなりの役割、表現の方法、与え生かされていることを

知ってもらいたい。

だから、神は一にして多神。

で、その多神なるものは、顔も違います。

で、肌の色も違います。表現の方法も違います。

しかし、その本質である宇宙真理はどうなのかと。

真理はこの大宇宙に、ただひとつの真理しかないではないでしょうか。

じゃあ、その真理を神と例えるならば、その神をあなた方の神や

我々の神はで、神を争って戦争、闘争、対立で、苦しみ生きている

人間がいっぱいいるではないでしょうか。

神は一にして多神。

すべては神の化身。

花々に命を与えることがなかったのならば、花々は咲き誇ることが

出来たのかと。

蟻一匹、皆さんの足元を這うことができたでしょうかと。

すべてのすべては全く同一なる命という、その力、知恵、愛を

与え生かされていることを知ってもらいたい。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-13(Tue) 22:02:39】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(4)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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一歩でも神の愛に近づけるように、日々に歯を食いしばって、

努力に努力を重ねていること他にありません。

じゃあ、私悟った、で、その人を皆さん見てみてください。

表現、言葉を、言葉も人を裁きながら、どこから受信しましょうか?

正しい方向からの受信であるためには、常にその受信を受ける

そのすべての面を美しく、で、輝かせてなければなりません。

今日も一日与えられたその時間は、出来る限り己のそのすべてを

磨き上げることが出来るか、そのための今日の一日ではなかった

でしょうか。

無駄にその一日を、恨んだり、ねたんだり、怒ったり、そしったり、

嫉妬をしたり、裁いたり、そのような時間のために、神は我々に

与えてはありません。

常に己を磨けよと。

それは私が、6、7年か、7、8年前に、意識でもってヒマラヤを

訪れたときに、1メートル間隔をおいてわたしを迎えてくれた

その聖人と言われた方々が、なぜ、同じ場所に

いながら、我々の姿を見ることが出来ぬのかと。

なぜ、同じ場所にいながら、同じ位置にいながら、我々の言葉を

聞くことが出来ぬのかと。

一人一人の汚れが、本当に美しく磨かれて調和であるならば、誰をも

同じ条件で同じ位置で語り合ったり姿を見たり、すべて同じ条件にいる

といえるではないでしょうか?

誰を変えようではありません。

誰をどうしようではありません。

今日も一日、我々は誰を裁くことなく、誰の非難、批判ではなく、

誰を傷つけようではなく、常に宇宙真理という愛そのもので、

己をみたし、すべてを包める我々になってもらいたい。

だから、ガンを退治しよう、何を殺そうではありません。

皆さんが大愛として、すべてのすべてを包み込めるあなた方に

なってもらいたい。

だから、お母さんたち、母と書きます。

母の上に聖という文字をつければ、聖母と言います。

じゃあ、聖母というものは、何を象徴としているのか。

すべてを愛という波動で包める、で、一人一人を聖母というでは

ないでしょうか。

汝、裁くことなかれ。

汝、殺すことなかれ。

あのインドでも、一撃で、鈍重なトラやライオンやヒョウを

叩き倒せるほどのこの力、パワーを持った聖人の元に、若い青年が

訪ねて、聖人よ、私にもあなたのように、鈍重なトラやライオンや

ヒョウを倒せるほどの力を持つことが出来ぬのかと。

神は人の上に人を作らず。

神は人の下に人を作らず。

あなたが使いたいという意識さえあれば、今にでもその力を使い

活かすことが出来るだろうと。

しかし、私があなたに使って欲しい力は、トラやライオンやヒョウを

倒すための力ではなく、なぜならば、汝殺すなかれ、どんな小さな

生き物でも殺し殺しの積み重ねは、大きな罪を背負うと言います。

そのように、トラやライオンを殺したところで、霊的な妨げとは

なっても、霊的な成長をつげることはないんだと。

だから、あなたにこなしてほしいのは、あなた自身の心という

ジャングルをさまよっている、人を恨んだり、ねたんだり、

そしったり、怒ったり、裁いたりするその我そのものを

超越できるあなたでありなさいと。

ならば、あなたは、神からも天使方からも本当に喝采を受ける

あなたになるだろうと。

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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-12(Mon) 21:02:32】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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じゃあ、我々が謝った心の状態で明想して見てください。

その波長はどこにあいましょうか?

また幽界という誤った方向に波長があえば、そこのいたずらを

受けねばならないではないでしょうか?

これは我々も沖縄時代からさんざん見てきたこと。

心伴わないで、ただ現象欲しさ、ただ人を恨み、ねたみ、そしり、

怒り、嫉妬、裁きを持ちながら明想したときに、幽界というものから

いたずらを受けて、で、それを皆さん憑依現象と申します。

で、それを受けたものにまたこういうならば、このものの肉体を

支配するものよ、このものから出て行けと。

これはあなたが使う肉体ではないし、で、そのものから今離れよと

言うのならば、私が勝手にこのものについたんではないんだと。

このものに呼ばれて、このものに引っ張られて、で、ここに

来たのではないのかと。

だから我々は、何を皆さん自身が受信するか、皆さんの最高な明

想というのならば、本当にこの最高な実相世界からの受信を

受けれることが最高の明想ではないでしょうか?

ここには様々なこの波動が、電波として飛び交っていましょう。

これは科学では電波だとか、波長とか、色々な表現を用います。

で、皆さんは波動と表現します。

高い波動、低い波動、で、いい波動、悪い波動、皆さん、波動という

表現をします。

ここには皆さんからは携帯から放つ波動、で、また家で電話の受話器

を通して放つ波動、で無線機から、またテレビやラジオの放送局から、

もうここは、皆さんたちが想像もできないほどの波動が入り

混じっています。

しかし、それは皆さんの肉の目には映し見ることができぬでは

ないでしょうか?

ラジオの放送局から発せられていても、またテレビ局から

放たれていても、肉の目には捉える事もできない、掴むこともできない、

しかし、そこにちゃんと無線機という箱をおいて、またテレビという

箱をおいて、ラジオという箱をおいて、チャンネルをあわせば、

チャンネルにあったところから、皆さんは受信を受けて、画像を

見てみたり、音声を耳で聞いてみたり、それは皆さん自身がもう

小さい頃から、子供から大人まで理解できるではないでしょうか。

本当にここは電波という波動の入り混じった世界であると。

で、皆さんは、明想は何のためにと。

で、その明想という表現、方法を通して、皆さん、最高世界から

受信を受けるために、今訓練を受けているではないでしょうか。

で、そのように恨んだり、ねたんだり、そしったり、怒ったり、

嫉妬をしたり、裁いたり、どんなにもがいても、いいところから

受信を受けることはありえぬと私は申します。

なぜなら、それは私も体験します。

今日も一日が、与えられた24時間が、例えば、ネガティブな

その言葉や思いや表現、どこかに自分の心のひずみ、心のゆがみ、

心の過ちがあったならば、どんなに明想をしようともがいても、

いい明想が出来たためしがない。

で、それはまず、反省して建て直して、もう一度また明想を

組みなおしたときには、入れるときもあれば、入れぬときも

あります。

だから我々は無限というその意識の中に皆さん自身が融合せぬ限りは、

まだ不完全、私も完璧ではありません。完全でもありません。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-11(Sun) 10:40:13】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(2)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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今のように、悟りを勘違いしている人間の何て多いことか。

汝、座して神を拝む事なかれ。

日々の生活の中で、正しい言葉、正しい思い、正しい表現、

まず、そこからのスタートではないでしょうか。

お釈迦様も弟子にしてほしい、すぐ容易く弟子を取ったんでは

ないんだと。

まずは八正道というものさしを与えて、正しくものが見れるか、

正しく語れるか、皆さん我々の目は、人を悪く見るために与えられた

目ではないではないでしょうか。

すべてに真実の美しさを見るための目ではないでしょうか。

誰彼の非難や裁くための口ではなく、常に愛という美しさを語る

口ではないでしょうか。

で、この耳は、人の噂話や世間話を聞くために、耳を与えられている

んではないんだと。

じゃあ、今、人間という万物の霊長と言われたものが、本当に

その五感というものを制御して、正しく見、正しく思い、正しく

語り、正しく聞き、で、そこからスタートして、宇宙真理であって、

だから、常に心という心を失って、どこに真理があるのかと。

イエス様も砂の上に立てた教会はもろい。

右から風がくれば左へ。

左から風がくれば右へ。

いとも簡単に崩れ去っていくんだと。

岩の上に立てた教会は強し。

それは砂の上は、岩の上はと、一番、心の面を説いたでは

ないでしょうか。

だから、心伴わないで、ただ真理さえ聞いていれば、ただ真理さえ

追っかけていれば、悟れる、でおかしい人間がいっぱい仕上がった

ではないでしょうか。

まずは思いやり、まずはいたわり、本当に正しい言葉、正しい思い、

正しい表現、正しい生き方を徹底して、我々はそこを理解して

いかねばなりません。

だから、私の何十何年間は、常に心というものを説いてまいりました。

共に北海道から沖縄まで学ぶ友は、決して誰の非難もしてはならぬと。

だれも裁いてはいけぬと。

汝、裁くなかれ、イエス様もあれほどの仕打ちを受けて、最後には

十字架に張り付けられても、このものたちよと裁いたわけでもなければ、

非難、批判したわけではありません。

神よ、このものたちは、命において一つであることを知らない、

愛においては完全であることを知らない結果、今このような過ちを

犯そうとしていることをお許し下さいと。

神よ、このものたちに光よ、心に安らぎを。

だから、我々は、本当にイエス様を愛し、イエス様の信仰という

のならば、イエス様が歩んできた道を我々も徹底して正し、生きる

ことが、お釈迦様も、あなた方が我々の道を正して、歩み生きること

が出来るのならば、泥沼に咲く蓮の花よりも神我という美しき花を

開花させることができるだろう。

そう、説いたではないでしょうか。

だから、弟子にして欲しいといわれても、即に弟子を取ったんでは

ないんだと。

まず八正道というものさしを完璧にこなしえるか。

すべてのすべてに正しさを見、正しさを思い、正しくものを聞き取り、

で、その表現、生き方を徹底して、後に定めに入るを教えたでは

ないでしょうか。



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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-08(Thu) 22:39:01】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
真理こそ実在(1)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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真理こそ絶対実在と。

真理他にはこの大宇宙に何も実在していないんだと。

そこには憎しみやそしりや怒りや、また悩み、苦しみ、不調和、

何物もないという意味を知ってもらいたい。

で、今日、私、最高な学びをさせていただきました。

朝の光話を終えて、十九年ぶりに従兄弟を訪ねました。

訪ねましたが従兄弟は仕事でいませんでしたが、そのお母さんが

こう言われます。

肝臓の方に菌が入って、それを菌を殺すためにそこに薬を投入

したと。

菌は殺せたけど、またその薬そのものがその肉体に悪さをしている

んだと。

よく、インドの言葉でも、「汝、殺すなかれ」とあります。

で、私、その話を聞きながら明想していますと、ありありとそこに

ビジョンが浮かびます。

なぜ、あなた方は殺そうとするのかと。

なぜ、対立しようとするのかと。

真理とは愛です。

真理とは知恵です。

真理とは力です。

その真理という真理の中に、すべてを包み込めるのならば、

ガンというその細胞、まあ、皆さん、この肉体をむしばうものを

ガンだとか、悪い菌と言います。

本来はガンという細胞、悪い菌なるものは、どこにも存在せぬと

言われました。

で、話を聞きながら、明想の中にいますと、我光なりというその

境地で、すべてのすべてが消えて行くことを見せられました。

だから、その体験から、その実感から、愛に勝る力、愛に勝る知恵、

愛に勝る光は、どこにも存在せぬことを理解できるではないでしょうか。

だから、我々は、恨み、ねたみ、そしり、怒り、嫉妬、裁きでは

ありません。

皆さんの本質は宇宙真理、絶対愛であるならば、誰とも戦おう、

誰をも非難、批判、裁こうではなく、それは偉大なるイエス様は

はっきりと見せてくれたではないでしょうか?

汝、裁くなかれ。

本当の奇跡とは、すべてを許して、すべてを愛することが、

最高の奇跡だと言ったではないでしょうか?

水の上を歩けるから、物質化現象ができるから、そのような表現を

見せ付けたところで、その人の心に宇宙真理という愛で満たされて

いなければ、何の価値が有りましょうか?

だから、こう言われます。

空を飛べるからとて勘違いするなと。

真っ黒いカラスでも容易く空を飛んでいるではないのかと。

あるいはまた水の中に何時間も何十時間も潜れるからとて、

悟りと勘違いするなと。

カエルとて何時間も何十時間も潜っていられるのではないのかと。

だから、悟りとは、盲信狂信偶像崇拝でもなく、皆さん一人一人が

今与えられている社会で、真の自分を宇宙真理として見失うこと

なく、で、その正しさを失うことなく、我は真理なりと、すべてを

許して愛分ちあって生きていることが、これが悟りではないでしょうか?




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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




真理こそ実在 | 【2006-06-06(Tue) 22:07:02】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(完)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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そのように説いたのは素晴らしい、もうすでにそれを捉えていた

素晴らしい方ではないでしょうか?

だから、皆さんも完全そのものであって、決して不完全という

中に陥ってはなりません。

神が完全であるが如く、我完全なり。

なぜ?神は命として皆さんに、命を病むこともありません。

命は苦しみもしません。

命は年老いていくこともありません。

命は死ぬこともありません。

じゃあ、命としてのあなた方は、過去に今において未来永劫に

完全そのものであって、一度だって、死んだり生まれたり、

病んだり苦しんだりはないではないでしょうか?

ただ、この肉体というこの器を我として錯覚し、その器の中に

皆さん不完全を作り上げて、味わっていること他にないんだと。

永遠のあなた方が真のあなた方。

だから、目を見開いて、すべてのすべての背後に実在する宇宙真理

という命を皆さんに見てもらいたい。

ともに我々は助け合って、いたわりあって、今生こそ人生という

本当の旅を皆さん、続けてもらいたい。

人生の旅とはこの現象という結果の世界に振り回されるためでもなく、

ただ物や金や物質をかき集めるためでもなく、本当の人生の旅とは

本当の自分の実体を、皆さんが見出さんがために、知り理解するために

人生の旅というその宿題が与えられていることを知ってもらいたい。

今日も皆さんと共に学べたことに心から感謝いたします。

また、五分、十分、明想という手段を通して、本当に肉体という結果が

我なのか、その命という見えない本質が我なのか、皆さんがよく見つめて

明想してみてください。




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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-06-05(Mon) 22:57:16】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(13)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、今日も昼間、話をさせて頂いたように、よく宗教においては、

生まれ変わり、輪廻転生はあるんだ、輪廻転生はないものだ、

という議論をする宗教家がいます。

で、私にこういいます。

あなたはじゃあ、輪廻転生はあると信ずるのか、ないと信ずるのか、

どっちかと言います。

それはあなた方の生き方次第と言います。

人生の旅を見失って、無知のままに、盲目のままに、迷ったままに

一転生終えていく限りは、何万回でも輪廻転生という鎖があなた方

をつなぐだろうと。

しかし、今生、あなた方が人生の旅を通して、本当の自分が宇宙真理

であることに目覚め生きることができたのならば、何万年の転生

させられた法則、今ここに解けたり。

幾転生という人生の過程を通して、背負ってきた業、罪、カルマも

すべては消えたという輪廻転生を克服していくだろうと。

じゃあ、皆さんが人生の旅に成功するのならば、輪廻はないし、

人生の旅に失敗するのならば、輪廻はなおも皆さんを支配して

いくではないでしょうか?

だから、輪廻転生とはあるかないかではなく、あなた方がどう

自分を理解しているのか、どこまで皆さん自身が自分自身という

自分を知っているのか、その結果であることを知ってもらいたい。

だから、我々は、ない病気、ない苦しみ、ない悩み、ない不調和に

あたかもあるがごとくに力与えてそれを映し見て、支配される

あなた方になってはならぬと。

だからわたし、こう言います。

人生の旅が真我という本当の自分を見出すためのこの旅であるのならば、

その人生の旅を本当に成功させたときには、もう皆さんには、

悩みもない、苦しみもない、病も不調和もないと私は申します。

だから、皆さんがあと一歩、真我一体という本当の自分に至って

いくまでのそのただ皆さんの魂を磨くための悩み、苦しみ、不調和、

病であるのならば、今の今に一生懸命悩み、今の今に一生懸命苦しみ、

今味わっておけと言います。

真我一体という境地に至っては、もう悩もうとて悩めない。

苦しもうたって、苦しめない。

なぜ?ないものをどうして自分がそれを作り上げて、苦しんだり

悩んだりすることができましょうか?

だから私にとっては、こう言います。

悩みというものは、苦しみというものは、病気、不調和というものは、

遠い過去の存在と言います。

だから悩もうたって悩めない、苦しもうたって苦しめない、

わたしはあなた方に、あなた方は神より偉いのかと。

最高なのかと。なぜならば、神とて皆さんに神が完全であるが

如く、我完全なりという、完全以外は与えていないにも

かかわらず、神は皆さんに病気も作って与えていない、悩みも

苦しみも与えていないにもかかわらず、神は完全を与えているのに、

なぜ、あなた方は悩みを苦しみを不調和を作って、もがいて苦しんで

いるのかと。

偉いものだなあと、神よりも。

私は皆さんにそのように訴えます。

だから、神は皆さんに過去に今に未来永劫に、与えたのは完全のみ

であることを知ってもらいたい。

ちょうど、これは先月、わたしがここで光話前の明想中だったんです。

皆さんが病院で医者からガンという二文字の書かれたそのカルテを

手渡されたらもう皆さんはとことん落ち込むだろうと。

しかし、私はあなた方にガンという二文字、それは決してあなた方に

与えたものではないんだと。

その下に’セン’という文字をつけろと。

4文字、で、その点(”)をセンの上につけろと。

ガンという二文字、それは決して私があなた方に

与えたものではないんだと。

私があなた方に与えたのは、4文字、4つの言葉、それしか

与えていないんだと。

それをイエス様は見事にそれを悟り得て、神が完全であるがごとく、

我完全なり。

神が完全であるがごとく、あなた方も完全なりと。


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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-06-04(Sun) 21:25:53】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の旅(12)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

覚者の講話をそのまま掲載させてもらいます。


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だから、我々は、どこが大きく、どこが小さく偏ってはいけません。

これは、私が明想中に、一度、もう、私はこの世の中に、永久モーター

があるんだという錯覚で、もう朝に昼に晩に、毎日毎日コイル巻きに

明け暮れた体験もあります。

もうこの現象の世界に、永久モーターを作り出すんだと、一生懸命、

夜の明けるまで、寝ている暇も食べる暇も惜しんで、コイル巻き

したこともあります。

その時に、夜中に一度、明想したときに、私にこういう形で神は

見せてくれました。

で、私のその右の足には、小さなスリッパ、左の足には、大きな

スリッパを履いている自分。

じゃあ、この状態で、アンバランスで、右に左にどこに進むことが

できましょうかと。

皆さん、竹馬も高い竹馬と低い竹馬と、バランスが取れていないものを

乗りこなすことができましょうかと。

同じその高さで、バランスで、同じ状態であるがゆえに、進み行くことが

できるのであって、あのときに私自身は、霊的なものをすべて

見失って、ただ、その形の世界に永久モーターを作り出さんとして、

右の足というのならば、なぜこの小さいスリッパを履いていたのかと。

もう全くその霊的な、見えない本質を無視して生きていたことを

小さなスリッパ。

で、現象という結果の世界に振り回されて、永久モーターを作るんだ

という、その左に偏っているという、これを大きなスリッパ。

で、物質の方が、今は大きいよと。

霊的な面は、見失っているよと。

アンバランスで、あなたはどこに進むことが出来るのかと。

この形の世界には、永久というもの、永遠というものはないことを

知れといわれました。

永遠というものは、皆さん一人一人の中に内在の宇宙真理こそが、

神として、それが永遠であることを知ってもらいたい。

じゃあ、皆さんの人生の旅の目的は、永久モーターを、宇宙真理と

して、神として、己の中に見出さんがために、それが人生の旅では

なかったでしょうか?

この形の世界に、何を作り上げたところで、それはいつかは

朽ち果てていきます。

いつかは色あせていきます。

いつかは変化していきます。

なるが故に、物質という見える形の中には、永久、永遠というものは、

ないことを知れと言われました。

だから、宇宙真理という本質こそが、皆さんの中に永遠不滅として

内在している、唯一の実在と申します。

だから、病気も悩みも苦しみも実在ではないが故に、悩み、苦しみ、

病気、なぜ皆さんが、自らの意識を高めたときに、すべては皆さんの

内から消え行くのかと。

それは非実在、本物ではないからではないでしょうか。

本物は、この大宇宙に唯一、ひとつ。

愛として、完全のみが実在と申します。

だから、悩み、苦しみ、不調和、病が、実在ならば、どんなにいい

薬とめぐり合っても、どんなにいい医者とめぐり合っても、その

病気なんて、消えることはないではないでしょうか?

実在は消すことは出来ません。

実在は決して色あせていくことはありません。

悩み、苦しみ、不調和なるものは、本物ではないが故に、実在では

ないが故に、皆さんが自分自身のその宇宙真理という意識まで、自ら

高めたときには、すべてのすべては消えていくこと。




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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。




人生の旅 | 【2006-06-02(Fri) 23:26:39】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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