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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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執着とは?(3)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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いつも話をするように、ただ我々は、優雅に着飾って

威張るためではありません。

全国を旅しておいしいものを食べ歩きするためでもありません。

肉の快楽におぼれいくためでもありません。

どんなに個人的に地位や名誉を与えられて、毎日高級車を

乗り回したところで、豪邸に住んだところで、

真の自分を見失って、無知・盲・迷いの人生を終えて、

何の価値もないことを知ってもらいたい。

私は決して物質やものを、否定するものではありません。

決して、地位、名誉、物質、富、金をちり箱にゴミ箱に

ちりのように捨てよというものではありません。

本当の自分を知った生活、本当の自分を知った生き方に

皆さん方が目覚めてもらいたいと。

それがみなさんの本当のあるべき姿ではないでしょうか?

命は知恵です。

命は力です。

命は愛です。

命は光です。

では、我命なりと目覚めいかぬ限り、どうして知恵は

現れましょうか?

どうして力を示すことができましょうか?

我は神なり、我神なるがゆえに無限の知恵、無限の力、

無限の愛、光は、我が内に実在するということは、

我命なるが故に生き、我命なるが故にすべての知恵・力に

満ちていることを知って欲しい。

まさか、この肉体から命解き放されて、誰が生きるものと

して存在することができましょうか?

私から命が抜ければ、死人、死体としかならぬでは

ないでしょうか?

それではみなさん、肉体が生きていると言うけど、

これは大きな錯覚、大きな勘違い。

生きて働いているのは、生きて口を語って言葉に、

耳を使って聞き、目を通してみるのは、

命であって、肉体自らではないんだと。



肉体自らは無なり。肉体自らは、ゼロなり。

肉体自らは、一点の知恵・力も持っていないことを知らねばなりません。

まさか、みなさんは、わたしは命に生かされているのではなく、

肉体そのものによって生きているんだというのであれば、

みなさん、肉体から命を差し引いて見てください。

口から語れましょうか?

みなさん、死人に口なしといっているではないでしょうか?

口あって語らず、目あって一点も見えません、

耳あって一声も聞こえません。

そこで、皆さんは、理解することができるではないでしょうか?

命なき者は、目あっても見ない、口あっても語らない、

耳あって聞くこともしない。

生きて働いていたのは、すべて、五感を操っていたのは、

神として命であったのだと。


だから昨日は、○○さんが、行為の主人公はあなたですかと?

みなさんはこの肉体をさして私と言うけど、

あたかもこの肉体が生きているという錯覚。

行為の主人公とは、命です。命がなければみなさんは、

言葉という行為、思いという行為、表現そのもの、

何をも示すことはできません。

だから、原因という命がなければ、結果として肉体は、

結果としてこの現象世界は、存在しうることはできません。

それではすべて、原因と結果の法則ではないでしょうか?

本当に原因があって結果が存在するんだ、肉体が生きるためには、

見えざるこの命によって生かされているんだと。

それを皆さんが理解して生きることを、バランスといいます。

調和と申します。

しかし、肉体こそが生きているんだ、肉体こそが我なり、

見える物質以外は信じないと。

これは物質人間、偽物に偏って生きている人間を仮相人間、

これを私は物質の奴隷と申します。

もう朝に昼に晩に、見えるものがすべてだ、金がすべてだ、

物質がすべてだ、ものがすべてだ、これすなわち仮相人間。

その物質に支配された奴隷と申します。

あの十戒モーゼの当時に、人間が人間をムチ使ったものが

奴隷ではありません。

今日も私自身が、見える私を自分として錯覚し、

掴めるものが見えるものが、これが実在、すべてだと錯覚して

いるのならば、私こそが仮相人間、結果人間、結果しか

見えない自分、そのように結果に振り回されているものを

奴隷と申します。

それでは奴隷解放とは、肉体を同じ人間同士がムチ打って

使っているものが奴隷ではなく、奴隷解放ではなく、

我々が物質と霊的な面と、見えるものと見えないものとの

バランスを取って生きることこそが、調和して生きること

こそが、これが奴隷解放ではないでしょうか?

(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。


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執着とは? | 【2006-02-24(Fri) 13:44:41】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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