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■少しでも多くの人に愛にて生きることが幸せにつながることをお伝えしたく、また真の自己に目覚め生きることを共に学び、共に歩んでいきたいという思いで、このブログをはじめさせてもらいました。

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執着とは?(8)
多くの人がまた自分自身が真の自分に目覚め生きることを思い、

今回はご講話をそのまま掲載させてもらいます。

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踏まれても踏まれても、根強く忍べ道芝の、

やがて花咲く春も来るらん。と言われるように、

誰からばか扱いされようが、誰から気違い扱いされようが、

もうわたしはそこに必死にしがみついて、努力しただけ。

とうとう神は、わたし自身に、我は神なり、神は我なり、

神と我は常に一体なりという、命そのものとの一体感が、

すべてであることをわたしは、実感させてもらいました。

そのときからは、この状態で皆さんの前に立っていながらも、

話をしながらも、食事をしながらも、働く中にも、明想状態。

だから、あえて、目を閉じて、座っていることではなく、

生活そのものが、わたしは明想と申します。

では、わたしが、ただ目を閉じて、座っているときだけが、

我神なり、我真理なり。

で、家内を見る目が、肉的な女性として、形としての衣装しか

見えない。

あるいは子供たちを肉体、人間としてしか見ることができない。

あなたがたも人間としてしか見ることができないでは、

何の明想でもなければ、何の価値もありません。

どこに目を向けても、神の見れる自分。

神を映し見れることの自分。

どこに意識を向けても心を向けても、そのものに神を

感じていれる自分。

これが本当の明想状態。

だから、全世界を支配する力、この大宇宙を支配する力が

与えられても、あるいは皆さん自身が、空を飛べるからとて、

テレポートができるからとて、瞬間移動ができるからとて、

物質化現象ができるからとて、それは何の悟りでもありません。

では、それだけの能力を与えられてこの宇宙を支配する力が

与えられても、本当の自分を見失って、悟りがありましょうか?

そのような能力は与えられても、真の自分が宇宙真理であることに、

目覚め生きることができぬならば、それは、無知、迷い、盲の人生

他にないではないでしょうか?

だから、わたしもかつては、もうその様々な現象的な表現を、

さんざんしてまいりました。

明想中に浮いてみたり、相手を浮かしてみたり、様々な状態を。

それは、悟りそのものではなかった。

では、あのときは、今以上に、短気や怒りやそういうものを

持っていながら、その表現ができたからとて、

悟りであったでしょうか?

何の価値もありません。

悟りとは、無所得、無差別、無条件にすべてを許し愛す、無限の愛で、

すべてを包容するその力、その知恵、

その光であることを知ってもらいたい。

我は悟りなり。それは、皆さん自身が、本当の我を宇宙真理として

実感することではないでしょうか?

直感したことではないでしょうか?

現象ではありません。

決して、誰からよりもその能力を与えられたから、

悟りではありません。

悟りは、愛の深さです。

悟りは、愛の高さです。

悟りは、皆さん自身が、無限に、無限に込み上げてくる、

その喜びの境地を、味わっていることが、それが悟りであることを

知ってもらいたい。

神は、喜びであり、神は、幸せであり、神は、至福であり、

神は、幸福であるから。

我々は、決して、現象、現象、現象に振り回されることなく、

だから、よく、そういう現象を弄んだ方々が、わたしがまだ沖縄で、

神性意識研究所にいたときに、よくいろんなセミナーで参加してきて、

それをいくらのお金で学んできたかは分かりませんけど、

名刺で割り箸を二つに切ってみたり、はがきで割り箸を二つに

切ってみたり、その能力をあたかも悟りと勘違いして、おまえに

このことができるかとよく言われました。

何を言うのかと。

神は、何のために、箸。箸は皆さん自身が、食事を取るために

与えられたのが箸。スプーンはスープを飲み、コーヒーや紅茶を

かき混ぜるために与えられたこのスプーン。自らの能力を過信して、

首をねじ曲げてみたり、折ってみたり、二つにたたき割ってみたり。

そのためにその能力は与えてないんだと。

出来ると信じようが出来ないと信じようが、それは

あなたがたの自由意志。

たとえ出来たにしても、神が創造したもの、無茶苦茶に、むやみに、

破壊するために、崩すために、わたしは、その力を

与えられていないんだと。

すべては正しい建設をせんがために、愛にその力を、思いやり

いたわり使いきるために、与えられた能力であることを

わたしは伝えます。


(明日に続きます)
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今日もこのような話を書かせて頂けることを

神に感謝いたします。


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執着とは? | 【2006-03-01(Wed) 00:00:05】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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